柳家権太楼独演会 紀伊國屋ホール 3月8日
2016年 03月 09日
この会、居残り会メンバーM女史が運営に携わっていらっしゃって、昨年末の忘年居残り会でお誘いを受けた。その際、居残りメンバー一同が、万障繰り合わせて行かねば、と決めていた会。
結局終日休みをとり、午前中は連れ合いと一緒に、年に一度の短期人間ドックへ。赤坂の老舗(?)の人間ドック専門病院でもろもろの検査を受け、頂戴した食事券で、病院近くの、あのマグロのセリ落しで有名な寿司屋さんで昼食。昼から飲む生ビールが、美味かった。
近くを散歩し、珍しくもお茶とケーキのデート(?)の後、連れ合いは帰宅。私は神保町で古書店探索。私は、神保町でなら、いくらでも時間を潰すことができる。
何軒か覗いた後で、落語関係は昔に比べて減ったが、旺文社文庫や現代教養文庫などの品揃えが豊富なワンダーへ。このお店、二階で喫茶も始めたねぇ。
今までもあったのだろうが、旺文社文庫の中の興津要さんの本、『落語家-懐かしき人たち』を発見し購入。喫茶のサービス券をいただいたが、財布にしまって、地下鉄の駅へ。
M女史からチケットをいただく必要もあり、少し早めに紀伊國屋ホールへ。
この老舗ホールへは、久しぶりだ。
調べたら、2011年11月21日の紀伊國屋寄席以来。
受付でM女史からチケットをいただき、会場へ。
客席は、ほぼ満席。
同じ列に佐平次さん、昨年怪我をされて、ようやく回復されたA女史もいらっしゃった。私の隣には居残り会オリジナルメンバーのYさん。開口一番の後、佐平次さんとAさんの間の席に、I女史も駆けつけた。
久しぶりに、居残りメンバーが顔を揃えた会場では、次のような番組が披露された。権太楼の二席は、両方ネタ出しされている。まさに、好対照な二席だ。
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(開口一番 柳家小多け『子ほめ』)
柳家ほたる『真田小僧』
柳家権太楼『代書屋』
(仲入り)
ぴろき ギタレレ漫談
柳家権太楼『百年目』
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柳家小多け『子ほめ』 (13分 *19:03~)
初、である。なかなか味のある前座さん。無理に笑わせようとしない、何とも言えない雰囲気を持つ人。小里んの弟子、というところが気に入った。今後楽しみな人。
柳家ほたる『真田小僧』 (14分)
ずいぶん久しぶり。2010年の新宿亭砥寄席(市馬・鯉昇・権太楼の会)以来のようだ。隣のYさんもおっしゃっていたが、前座のごん坊時代を思い出す。二ツ目になり師匠の前座時代と同じ名前を名乗ってからは、やや伸び悩みを感じていたが、時間が空いたこともあるのだろう、ずいぶん成長したなぁ、という印象。
仕草や語り口がやや大袈裟な点は、師匠譲りだろう。なかなか楽しい高座だった。
柳家権太楼『代書屋』 (32分)
信用金庫が年金を預けてくれと勧誘に来て、その特典が浅草演芸ホールの入場券、というのはネタかな(^^)
浅草演芸ホールの楽屋話のほうずき市のことから、前座のスマホの件、という話は以前にも聴いているが、何度聴いても納得し笑える。ああでもないこうでもない、と会話を楽しんでいる時に、スマホで検索した「ほおずき市の起源は・・・・・・」なんてぇ能書きは、必要ないのだよ。
また、新幹線で地方の落語会に行く際、ぼそっと独り言で「どうやって行こうか・・・・・・」とつぶやいた途端に、弟子がスマホで乗換駅などを調べて教えるので怒った、というネタも以前聴いているが、これまた同感。
どの車両に乗れば乗り換えに便利、などということが分かるアプリがあるが、そんなこと知りたがるのは日本人だけじゃないだろうか。一分一秒を争い足早に次の目的地に大勢が向かう姿、結構、外人さんには異様に映っているんじゃないかな。
噺家さんが亡くなると、出棺の際に出囃子が流れる、という話も、何度聴いても楽しい。
そういうマクラを15分ほど膨らませながら「いつになったら、代書屋始めるか、ご心配ですか。あの噺、短いですから」と、間もなく本編へ。
これこそ、定番の力、とでも言うべき高座。
入場の際にいただいたプログラムに長井好弘さんが聞き書きとして権太楼の言葉を載せている。
「寄席の高座は稽古だと思っている。『代書屋』なんて口慣れたネタでも、入り方やテンポを変えてみたり、お客さんにはわからなくても、いつも何か考えながら稽古してんのよ」この言葉を物語る場面があった。すでに、クスグリとして定着しているのかも、しれないが、私が初めて聴いた工夫。
代書を頼みに来た男(湯川秀樹)が、「デレキショ(履歴書)」を隣の竹に借りようとしたら、「今朝、おつけの実にして食べた」とのこと。ここで代書屋に「あんたんとこは、転失気か」と言わせた。軽い、少し遠慮して言ったようなクスグリだが、「へぇ、そんなのも挟むんだ」と、少しだけびっくり。
職歴の中の「よなぎ屋」は、権太楼が下敷きにしている枝雀版では「がたろ」である。
私の持っている「新明解 国語辞典」(三省堂)で調べてみると、正確には「よなげ屋」らしい。
よなげや【淘げ屋】川底やごみ捨て場の土をふるって、金属など金目の物を拾い上げる業者。あら、こんなことは、スマホでほうずき市や電車の乗り換えを調べる前座と同じ、野暮な、余計なことか(^^)
権太楼は、この噺をきっかけに、枝雀のことをある本で語っている
『権太楼の大落語論』(柳家権太郎、【聞き手】塚越孝、彩流社)
塚越孝の聞き書き『権太楼の大落語論』から、少し長くなるが、権太楼の枝雀への思いを知る貴重な内容なので、引用したい。。
ぼくの「代書屋」なんかは、ほとんど枝雀師のです。なにしろ、俺が見てる段階では、線の細い人だったですね。要するに「蹴られる」ことを知らなかった人なんです。「蹴られるから面白いんだよ」っていう、寄席の経験がなかった人の典型が枝雀さんですね。
-なるほど。寄席を体験した強さがない。
そう、そうなの。それが蹴られる強さです。枝雀さんは蹴られた経験のない純粋培養の世界だったんです。
それに加えて、『枝雀寄席』っつうのしかやってない落語でしょう。「枝雀が来たー!」っていう客がブァーっと集まって、「わっ」といって「へっ」っていった瞬間に、「どかーん」と来るのが、もう「間」なんだから。
その昔、志ん朝師匠と枝雀さんの二人会があって、千葉のほうの女子大学なんですよ。全然、落語なんか見たことのなお嬢さんばっかしが来ていて、「ふ~ん」なんてやってるから、最初に枝雀さんが出ても「何?」ってな感じ。志ん朝さんが出ても「何?」って。で、昼夜だったのね、でも枝雀さん、「すんまへん、わて、帰らしてください・・・・・・」って志ん朝師匠に言って、先に帰っっちゃたの。でも、志ん朝師匠は「いいよー」って、一人でつとめた。蹴られるの知ってるから。「しょうがねえよ、こんなものは。わかんねえんだもん」。
-いつでも自分がいけば「わー!」だと思ってたから。
そうそう。だから、自分の感性でウケるとことがウケなかったんでしょ。そこで悩んだんでしょうねえ。俺はそう思うんですよ。あの方は「ここでウケる!」はずだ、と。ところが、ぽーんと蹴られた。「え、えぇー?」っていうのがあったら、怖くなっちゃったんだね。そして今度は、高座に出られなくなったった。
でも、寄席があればチャンスが何回もあるんですよ。今日がだめでも、また明日の客でなんとかなるかもしれない。「この寄席がだめなら、こっちの寄席で・・・・・・」ってのがある。やってみて、「新宿がだめだったら、池袋へ行ってやらあ。ああ、池袋じゃウケるわ」っていうのが、前座のころから東京落語家はみんな体験してるんです。
なるほど、権太楼は枝雀を、こんなふうに見ていたんだ。
寄席で“蹴られる”体験、実に大事だと思う。
立川流や円楽一門は、経験したくでも出来ないこと。
今では、上方にも繁昌亭という“蹴られる”場が出来た。
若い時から、寄席に毎日のように出演し続けてきた権太楼だ。何度も蹴られた末に、あの権太楼落語が出来上がった、ということなのだろう。
権太楼の『代書屋』は、枝雀を元にしてはいても、しっかりと権太楼の噺として成熟している。
「素晴らしき定番」とでも言える珠玉の高座で、良い雰囲気の会場全体を、ドッカンドッカンと震わせていた。
やはり、ここまで極めた見事な十八番、今年のマイベスト十席候補にしないわけにはいかない。
ぴろき ギタレレ漫談 (20分)
仲入り後は、この人。権太楼が一席目のマクラで、さかんに、ぴろきが好きである旨を語っていた。
協会が違うのが、こういう会にはぜひ呼びたかったのだろうなぁ、と思っていたが、その期待にたがわぬ“ぴろきワールド”。
寄席では10分くらいしか出番はないが、なんと20分。まったく客席を飽きさせない。個々のネタは書かないが、家族を素材にした自虐ネタは秀逸だ。
なぜ、姪は、落したケーキを見て「おじさんのケーキが落ちた」と断言できるのか・・・可笑しい。
柳家権太楼『百年目』 (48分 *~21:30)
一席目のマクラで噺家が亡くなると、葬式の出棺で出囃子で送られる、というネタから、小三治の出囃子はいいが、なかなか出棺しない。マクラが長すぎて、その後は小言念仏、といじっていたが、ちゃっかり(?)出囃子「二上がりかっこ」を拝借。
プログラムに長井さんが、こう書いている。
『百年目』の初演は2008年。権太楼が還暦を迎えた年のことだ。三遊亭円生、桂米朝、先代桂文枝、古今亭志ん朝。東西の名手の『百年目』を聞きまくっての結論は「俺にはできない!」。敗北宣言のような言葉を口にしていた時の、権太楼の不敵な笑顔を今も覚えている。*補足するが、昭和22(1947)年生まれなので、還暦は2007年のはず。
「俺にはできない!」の言葉と裏腹に、還暦まで満を持してこの大ネタに挑んできた権太楼の自信を、長井さんは“不敵な”笑顔に読み取ったのだろう。
見事な高座だった。
権太楼のこの噺で重要な前半の伏線は、大番頭の治兵衛が冒頭で奉公人たちを叱る中での、二番番頭佐平とのやりとりだろう。
茶屋遊びから夜中遅くに帰ってきたことをとがめられる二番番頭。最後は、治兵衛に土下座をするような平身低頭ぶりを表現するが、この姿は、最後に旦那の前の治兵衛の姿となって再現されることになる。
一番番頭-二番番頭、という構図が、そのまま上に移行して旦那-治兵衛の構図につながる。
この二人、二組の語りの場面が、話芸としてのこの落語では重要で、権太楼は、そのあたりを十分にわきまえて演じていたと思う。
また、権太楼のこの噺では、向島に上がる際、東京では珍しくハメモノが入った。お囃子の金山ハルさんの程よい三味線で、高座が華々しくなった。
これは、良い試みだと思う。東京落語だから、ハメモノなしと決めつけることはないだろう。昔は、出囃子も上方にしかなかったことを思えば、下座さんさえ請け負ってくれるなら、東京落語も、ハメモノで明るく演出することがあって良いように思うなぁ。
結果として、その向島での治兵衛さんと旦那が遭遇場面も、なかなか立体的に描くことができたのではなかろうか。
時間の関係もあったのか、治兵衛さんが夜中に悶々とする場面は、あっさりと演じた。とはいえ、その妄想場面で旦那の言葉に円生の声色の真似を軽くはさんだのは、楽しかった。
この円生の真似、居残り会で佐平次さんが指摘していたが、ほどよい加減で、「知る人ぞ知る」と落語愛好家がこっそり笑える程度にしたところが、品があった、と言えるのだろう。
この円生の声色のクスグリで、ある本を思い出した。
矢野誠一著『落語讀本』
以前にも紹介したことがあるが、矢野誠一さんの『落語讀本』の『百年目』の「こぼれ話」に、円生とある弟子との逸話が書かれているので引用したい。
三遊亭圓楽が、まだ三遊亭全生といって二ツ目の時分、有楽町の第一生命ホールでひらかれていた「若手落語会」に、『淀五郎』を出したことがある。いくら若手落語家にとっての晴舞台とはいえ、大看板の師匠連でも尻ごみしかねない『淀五郎』に、二ツ目の分際でいどんで見せたあたりが、いかにも後の圓楽である。権太楼が、なぜ円生の声色をはさんだのか、その背景は分からない。
当日、高座にあがってびっくりした。うしろのほうの客席に、師匠の三遊亭圓生がすわっているのが目にはいったのである。さあ、それからはなにをどうしゃべったか、まるで夢遊病者の気分で一席を終えた。あくる朝、案の定師匠からの呼び出しだ。おそるおそる顔を出した圓楽に、圓生はいったそうだ。
「全生さん、あなたは結構なはなし家ンになりました。もう私が教えることはなにもありません・・・・・・」
もちろん、いってる言葉とはまったく裏腹の、強烈な、いかにも圓生らしい皮肉なのである。針のむしろにすわらされた圓楽は、ただ、だまって頭をさげるだけである。師匠から呼び出しを受けたときの心境は、まさに『百年目』の治兵衛のそれだったときいた。
あくまで、私の邪推だが、この噺の旦那像を描くにあたって、きっと、円生のように奉公人を針のむしろに座らせるように、ネチネチ叱る旦那像を、権太楼は反面教師として考えていたのではないか、ということ。
ああやられたら、叱られる方は、たまらんな・・・という思いがあったのではなかろうか。
向島の大失態から店に戻った治兵衛は、何度も「あぁ、どうして(向島の)土手に上がったのか」と悔やむ。
ようやく来年には暖簾分け、という時期を迎えての大失策を悔やむことしきり。
さて翌朝。恐る恐る旦那の部屋を訪ねた治兵衛さん。
旦那が「旦那」という言葉の由来を説明する。その赤栴檀と南縁草のたとえ話から、旦那に「治兵衛さん、ものには遊びというものが必要です」と言われ、胸のつかえが取れてほっと胸をなどおろす。このへんは聴かせどころだ。
しかし、権太楼は、そのすぐ後で、「それにしても、あの長襦袢は見事だったねぇ、友禅?」で笑いを誘うことも忘れない。そして、治兵衛にとっての南縁草は、奉公人たちであると諭す旦那。
旦那は威厳があり、かつ細やかな気配りのできる、実に大きな人物として描かれる。だからこそ、最後に治兵衛さんは、その旦那の真の優しさにふれて、泣き崩れるのだ。
権太楼の旦那は、商家の大店で人の上に立つには、遊びも知っていないようじゃ困る、という立派な(?)哲学の持ち主。
だから、治兵衛が店で奉公人を叱る声を聴いていて、「芸者という紗は夏に着るのか冬に着るのか、幇間(たいこもち)という餅は焼いて食べるのか煮て食べるのか、教えてくれ」などという治兵衛の言葉に、心配していたのだ。
固いだけでは商売はたちいかない、ことを身を持って知っているのが、旦那だ。
そんな旦那は、治兵衛の心境を思いやる優しさもある。
旦那が、「番頭さんも、眠れなかったようだね。実は、私も眠れませんでした」と、語る。旦那は、万が一のことを心配し、一晩かけて店の帳簿を徹底的に調べ、「これっぽちの穴」もないことを確認し、治兵衛を独り立ちさせてもいいだろう、と喜んだのである。
旦那が、丁稚時代の治兵衛さんのことを思い出しながら、あの寝小便をしていた丁稚が、よくも、ここまで立派になったという感慨も深くなる。
このあたり、権太楼の旦那が、実に結構なのだ。
サゲはともかくとして、この噺は旦那も、もちろん番頭治兵衛にも最後に救いがもたらされる。そして、聴いている我々客さえも救われるような気がする。
会場全体をあったか~くさせてくれた権太楼の『百年目』、今年のマイベスト十席候補とする。
終演後は、佐平次リーダーの後をついて行って、I女史、久しぶりのA女子、そして居残り会創設(?)トリオの五名で近所のお店で居残り会。
Aさんが元気になられて、良かった。お孫さん達につくってあげる料理のことなどを、実に楽しげに語っていた。
M女史、I女史も含め、女性は強い!
白エビや蕗の薹の天ぷら、ふき味噌などの肴をいただきながら、居残り会は大いに盛り上がり、帰宅は日付変更線を越えたのだった。
そうそう、あの、居残り会のお店、初めてではない。
2011年11月の紀伊國屋寄席の自分の記事を読んで、思い出した。
2011年11月22日のブログ
実は、あの会の後の居残りで、佐平次さんの紹介でM女史と初めてお会いしたのだった。
そして、昨夜は同じ店に行くこととなったのである。縁、だねぇ。
また、昨夜は、当然M女史は出演者との打上げだろうと思っていたら、しばらくしてM女史を含むスタッフの皆さん(出演者は同席せず)も同じ店にご登場。
新宿、広いようで、狭い(^^)
都民劇場の次の落語会は、8月。これにも、M女史、気合が入っている。
ある人気者中堅落語家によるプロデュースらしい。
なんとか、駆けつけたいものだ。
私も『代書』は春団治がベストだと思っています。
なるほど、三代目らしい逸話ですね。
反省して自分の高座に生かす枝雀も、流石。
『代書』の代表的な演者、となると三代目の名を挙げるのに、私もためらうことはありません。
「東へ西へ」でお聴きした珠玉の高座を思い出します。
四天王亡き後、上方落語界における文我の存在は、実に重要だと思っています。
珍しい噺の掘り起しなどにも熱心ですし、年々、彼の高座に風格が備わってきたように思います。
権ちゃんの本、あのツカちゃんが良い仕事を残してくれたと思います。
この本の後半におかみさんへのインタビューが掲載されていますが、なかなかしっかりした芸人の女房、という感じ。
あの奥さんがいるから、権ちゃんも落語に集中できるんでしょうね。
『落語讀本』は、『落語手帖』との違いを探すのも楽しみの一つ。
そんな読み方しているのは、私だけかな(^^)