「押絵羽子板」のこと、など。
2015年 12月 18日
「浅草寺歳の市」のサイトをご覧のほどを。
「浅草寺歳の市」のサイト
昨年、「羽子板市」が「歳の市」の名残りであることについて記事を書いた。
2014年12月4日のブログ

鈴木章生著「江戸の職人 その『技』と『粋』な暮らし」
江戸関連本も多い青春出版社のプレイブックス・インテリジェンスシリーズの一冊、「江戸の職人 その『技』と『粋』な暮らし」からは、すでに、職人さんと信仰について記事を書いた。
2015年12月1日のブログ
今回は「押絵羽子板」のことについて、本書から紹介したい。
「第七章 季節を彩る」からの引用。
押絵羽子板
■縁起物としての羽子板
娘道成寺、藤娘、八重垣姫、助六、鏡獅子、弁慶、め組の喧嘩の辰五郎・・・・・・、歌舞伎の登場人物の絵姿が目にも鮮やかに再現された押絵羽子板の世界。江戸時代から人々に愛され続けてきた、日本の正月を彩る華やかな小道具である。
羽根突き遊びはもともと、その羽根を、子供に病気もたらす蚊を食べてくれるとんぼと見立てて、これを突き上げて厄払いする、という風習からはじまったとされる。室町時代には御所で、公家やその女官たちらが集まって、羽根突き大会に興じたという。かつては胡鬼板(こぎいた)、羽子木板(はこぎいた)と呼ばれ、羽根は、こぎの子、はごの子などと呼ばれていた。
また、時代が下がって天保九年(1838)の『東都歳事記』(江戸後期の最も詳しい年中行事の解説書)によると、当時、男の子が生まれると破魔矢を、女の子が生まれると羽子板を贈る風習があったとされる。この通り、江戸時代、羽子板は遊び道具であるとともの、縁起物であり、祝いの品であった。さらに土産物としても重宝された。
羽根を「蚊」を食べてくれる「とんぼ」と見立てていた、なんてぇことは、初めて知った。
羽子板が遊び道具から発展して、縁起物、土産物になったわけだが、そうなったことに「押絵」の技術は大きく関わっている。
さて、現在の押絵羽子板は、描かれた下絵に合わせて頭、顔、襟、袖、帯、手、小道具など、各部分をボール紙で作り、これに綿をもってその上から柄布でくるみ、それを板の表面に糊で貼り付けて作られている。裏面には、板屋によって松竹梅などの絵がさらりと描かれている。押絵羽子板の歴史をたどると、秀忠の娘、東福門院にたどり着く、ということか・・・・・・。
押絵羽子板は、それ以前に生まれた押絵の技術を羽子板の装飾に応用したものである。現在知られている中でもっとも古い押絵を残しているのは、二代将軍秀忠の娘で、後に後水尾天皇の中宮になった東福門院(1607~1678)だ。当時の押絵は、綿が少ないか全く入っていない作りで、現在のように立体的なものではなかった。
東福門院の影響により、押絵はやがて京都御所内の女官の間で、やがては江戸城内の奥女中の間で流行したとされる。やがて絵師の中から押絵を専門とする押絵絵師が生まれ、さらに押絵で羽子板を作る者が出てきて、押絵羽子板が誕生した。
例年、その年の話題の人で「変わり羽子板」を発表している「久月」。
今年は、「五郎丸羽子板」も登場。
「久月」サイトの該当ページ

*「久月」のサイトより借用。
TPPで「甘利羽子板」というのは、なんとも・・・・・・。
「話題の人」の選定基準、今ひとつ分からないなぁ。
あくまで、選ぶ人にとっての「話題」ということか。
羽子板->押絵、ときて、東福門院を話題にする人は、現在は皆無に近いだろう。
しかし、私は、今後は羽子板を見ると、徳川家と天皇家をつなぐための人生を送った東福門院のことを思い出しそうだ。
彼女は、お江の方と秀忠の末っ子の徳川和子(まさこ)。
武家から初めて天皇家に嫁いだ人で、宮尾登美子が『東福門院和子の涙』という小説を書いているようだが、未読。近いうちに読んでみたい。
彼女は後水尾天皇の中宮(妻)となってから、宮廷での辛い生活のために心から笑うことはなかった、と言われている。
東福門院和子が今に残る押絵を作っていたのは、そういった日常から少しでも気を紛らすためだったのかもしれない。
羽子板市をきっかけに、東福門院という一人の女性のことを思う、そんな師走である。
