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落語協会HPに関する記事の訂正とお詫び。

 昨日の記事へのコメントで、落語協会HPトップページの下に「協会概要」というバナーがあり、リンクされたページに役員や組織概要、沿革なども記載されていることをお知らせいただいた。

 落語協会HPの「協会概要」

 そのままコピペすると長すぎて見ずらくなるが、全文引用したい。

協会概要

一般社団法人落語協会

名称
一般社団法人落語協会

所在地・連絡先
住所 〒110-0005 東京都台東区上野1-9-5
TEL:03-3833-8563
FAX:03-3833-8599

業務内容
•古典落語の継承及び研究発表会、鑑賞会等の開催
•後進の育成及び寄席芸能関係者の顕彰
•下座音楽実演家の育成
•学校、職場等の落語研究会への協力及び指導
•落語家の昇進資格の認定
•芸能関係団体との連絡提携
•寄席芸能に関する調査研究及び資料文献の収集保存
•会報及び寄席芸能に関する刊行物の発行
•その他目的を達成するために必要な事業
一般社団法人落語協会定款より、抜粋


役員
当期役員(任期:平成26年6月25日より2年間)

会長  柳亭市馬
副会長 林家正蔵
常任理事 柳家小さん・三遊亭圓丈・柳家さん喬
理事 古今亭志ん輔・入船亭扇遊・金原亭馬生・
   三遊亭歌る多・三遊亭吉窓・五明楼玉の輔・
   林家たい平・柳家喬太郎・鏡味仙三郎
監事 柳家さん八・柳家権太楼
外部監事 友原征夫(会計士)
最高顧問 三遊亭圓歌・鈴々舎馬風
顧問 三遊亭金馬・柳家小三治
外部顧問 寺脇研(京都造形芸術大学 芸術学部教授)
相談役 三遊亭圓窓・林家こん平・桂文楽・林家木久扇

前史
 職業的な落語家と寄席の始まりは、寛政十(1798)年、下谷稲荷社内で初代三笑亭可楽が打った興行を、その祖とする説が有力である。以後、明治維新を迎えるまでの70年間に、江戸の町に寄席の数は百七十軒以上を数えるようになり、落語家の数も増えていった。
明治8年、三代目麗々亭柳橋を「頭取」とし、「補佐」に三遊亭圓朝と六代目桂文治らがつき「落語睦連」を結成するが、明治20年代になると「柳派」「三遊派」の二大派閥にほぼ大別されるようになった。各席を半月ごと(当時は15日間ずつ、上席・下席として興行を打っていた)に、交替で勤める興行形態が整い、それが大正時代まで続くことになる。大正6年8月、柳派と三遊派が合併し、四代目橘家円蔵、初代三遊亭圓右、三代目柳家小さんらが中心となって「東京寄席演芸株式会社」を創設し、月給制を取り入れる。
ところが同月下席、同会社に所属した五代目柳亭左楽が脱退し、四代目春風亭柳枝らと共に「落語睦会(三遊柳連睦会)」を旗揚げした。
以後、この両者が二大団体となるが、小さな離合集散を繰り返すことになる。詳しくはとても書ききれないくらいの、脱退、旗揚げ、合併、解散、復帰などが繰り返された。噺家という人種の気性を、現している現象と言えるかもしれない。

大正12年10月関東大震災の後に、五代目柳亭左楽が奔走した結果、大同団結し「東京落語協会」を設立する。これが現在の一般社団法人落語協会のルーツとなる。
しかし、翌13年6月には、またまた分裂。旧睦会が独立し「東京落語睦会」として復活する。その後も、両会派はさらに小さな分裂や解散を繰り返す。その団体名を挙げるだけでも「落語演芸東西会」「柳三遊研成社」「日本演芸協会」「東京演芸組合」「三語楼協会」「金語楼一座」「東京落語組合」など、正確に把握する事さえ困難なありさまである。
昭和5年、六代目春風亭柳橋と柳家金語楼が「日本芸術協会」を創設する。これが現在の公益社団法人落語芸術協会の母体である。


沿革
 昭和15年5月、第二次世界大戦への突入を前にして、新興行取締り規則の改正により、演芸界は警視庁統括のもとで「講談落語協会」として統一させられる。すべての落語家は否応もなく、この協会に所属することになる。会長は、人格者であり名人と謳われた講談の六代目一龍斎貞山が務めた。
昭和20年終戦後、官主導の「講談落語協会」は解散し、元の形態である「東京落語協会」と「日本芸術協会」の二団体に戻る。
「東京落語協会」は昭和21年10月、四代目柳家小さんが会長に就任。「落語協会」として新発足する。以後会長は、22年に八代目桂文治。30年・八代目桂文楽。32年・五代目古今亭志ん生。38年・再度桂文楽。昭和40年・六代目三遊亭圓生が歴任した。
昭和47年に、五代目柳家小さんが会長に就任すると、次々に近代化をはかっていった。若手の理事を登用。合議制を導入する。また、任意団体として上野黒門町に事務所を構え、公益法人化に向けて活動を開始した。
昭和52年12月、文化庁を主務官庁として、社団法人の認可を受ける 。以降、正式な名称は、社団法人落語協会となる。
昭和53年5月、六代目三遊亭圓生が中心となり、七代目橘家円蔵、三代目古今亭志ん朝、五代目月の家円鏡らが脱退し、「三遊協会」を創設。ただしその直後に、圓生直系の一門以外、すなわち円蔵、志ん朝らは全員落語協会に復帰する。結局は、三遊亭圓生とその一門だけが落語協会を脱退した。同年、十代目金原亭馬生が副会長に就任。
昭和54年圓生没後、五代目円楽の一門を除いて、六代目圓窓、圓弥、生之助、圓丈らが落語協会に復帰する。「三遊協会」は円楽一門だけとなり、その後「大日本すみれ会」から「圓楽党」と名称を変更し、現在に至っている。昭和57年、馬生没後、六代目蝶花楼馬楽が副会長に就任する。同年、立川談志が弟子一同を引き連れて脱退。「立川流」を創始する。
昭和62年、馬楽没後、三代目三遊亭圓歌が副会長に就任。
平成7年5月、落語家として史上初めて柳家小さんが、重要無形文化財(人間国宝)に認定される。翌年、平成8年8月、小さんは24年間勤めた会長職を勇退し、三遊亭圓歌が会長に就任。同時に古今亭志ん朝が副会長になる。小さんは、最高顧問。
平成13年10月、志ん朝没後、五代目鈴々舎馬風が副会長に就任。
平成14年5月、柳家小さん死去。
平成18年6月、三遊亭圓歌が10年間勤めた会長職を勇退し、鈴々舎馬風が会長に就任。
平成22年6月、二期4年間勤めた鈴々舎馬風が勇退。柳家小三治が会長に就任。
平成24年6月、役員改選にともない小三治会長再選。柳亭市馬を副会長に選出。
平成24年8月、一般社団法人となる。
現在に至る。

参考文献:古今東西落語家事典(平凡社・諸芸懇話会)


 これらの内容がなくなった、と書いたことを訂正し、お詫びします。

 しかし、このバナー、上の方の他の大きなバナーと一緒に並べて欲しい。
 気が付かなかった・・・・・・。

 コメントをいただいた方には、あらためて感謝申し上げます。

p.s.
「沿革」の内容をよく読むと、談志が脱会した時期の間違い(昭和57年ではなく58年のはず)や、平成25年以降のことが記載されていないなど、不備があるなぁ。
過去の文章をそのままコピペ(私と一緒か!)しただけのようで、やっつけ仕事の匂いがプンプン(^^)
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by kogotokoubei | 2015-12-16 08:59 | 落語協会 | Trackback | Comments(0)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


by 小言幸兵衛
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