『逝きし世の面影』を、繰り返し読む今日この頃。
最近、江戸時代や明治時代の日本と日本人のことを考えて、つい、渡辺京二『逝きし世の面影』をめくることが多くなった。

渡辺京二著『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)
「ノスタルジーに浸るな!」とお叱りを受けそうだが、それでも結構。
かつての日本にあって、今日では見かけなくなった日本と日本人の光景を、幕末から明治にかけて来日した海外の人たちが残してくれた貴重な文章が満載だから、読むべき価値は高いのだ。
読み直して印象的な部分を紹介したい。
まず、「第四章 親和と礼節」から引用。
ウィリアム・ディクソンは、ある車夫が苦労して坂を登っていると、別な車夫がかけつけてうしろから押してやる光景をしばしば見かけた。お辞儀とありがとうが彼の報酬だった。これは互いに見知らぬ車夫どうしの間で起こることなのである。彼は、東京に住む宣教師が車夫からうやうやしく声をかけられ、様子が気に入って家まで車に乗り、さて財布を取り出したところ、「お気になさらずに」と言われたという話を紹介している。車夫のいうところでは、彼の友達の病気をこの宣教師が親切に治療してくれたので、ささやかなお礼をしたかったのだとのこと。そう言うと車夫はお辞儀をして立ち去って行った。
エドウィン・アーノルドも「俥屋にお茶を一杯ご飯を一杯ふるまって、彼のお礼の言葉を耳にすると、これがテムズ川の岸で、まぜもののビールをがぶ飲みしたり、ランプステーキに喰らいついたりしている人種とおなじ人種なのかと、感嘆の念が湧いてくる」と言っている。彼は明治二十二(1889)年の仲通りと銀座の群衆について次のように記す。「これ以上幸せそうな人びとはどこを探しても見つからない。喋り笑いながら彼らは行く。人夫は担いだ荷のバランスをとりながら、鼻歌をうたいつつ進む。遠くでも近くでも、『おはよう』『おはようございます』とか、『さよなら、さよなら』というきれいな挨拶が空気をみたす。夜なら『おやすみなさい』という挨拶が。この小さい人びとが街頭でおたがいに交わす深いお辞儀は、優雅さと明白な善意を示していて魅力的だ。一介の人力車夫でさえ、知り合いと出会ったり、客と取りきめをしたりする時は、一流の行儀作法の先生みたいな様子で身をかがめる」。田舎でも様子は変らない。弟妹を背負った子どもが頭を下げて「おはよう」と陽気で心のこもった挨拶をすると、背中の赤児も「小っぽけなアーモンドのような目をまばたいて、小さな頭をがくがくさせ、『はよ、はよ』と通りすぎる旅人に片言をいう」。茶屋に寄ると、帰りぎわに娘たちが菊を一束とか、赤や白の椿をくれる。礼をいうと、「どういたしまして」というきれいな答が返ってくる。
本書の注によるとディクソンは、おそらく当時中国在留の医師であろう、とのこと。
アーノルドは、イギリス出身の新聞記者であり、紀行文作家。福沢諭吉の庇護を受け、慶応で講師も務めた人。
ディクソンやアーノルドが感嘆した日本人の礼儀正しさ、その美しさを、我々はは失ってしまった。
アーノルドが形容したような、どこを探しても見当たらないような幸せそうな姿も、今の日本のどこを見渡せばあるのやら。
その挨拶やお辞儀が、異国の人々に美しく優雅なものと映ったのは、その時の日本人に心の余裕があったからだろうとは思うが、それは日本人全員が本来持っている美徳でもある。
「第五章 雑多と充溢」からもアーノルドの本からの引用部分を紹介したい。
アーノルドは言う。「日本の街路でもっともふつうに見かける人物のひとつは按摩さんだ。昼間は彼がゆっくりと―というのは彼は完全に目が見えないのだ―群衆の中を通り過ぎてゆくのを見かける。手にした竹の杖を頼りとし、またそれで人びとに道を明けるように警告する。・・・・・・夜は見かけるというよりも、彼の通るのが聞こえる。たずさえている小さな葦の笛で、千鳥の鳴き声にいくらか似ているメランコリックな音を吹き鳴らす。・・・・・・学理に従ったマッサージを行う者として、彼の職業は日本の目の見えぬ男女の大きな収入源となっている。そういうことがなければ、彼らは家族のお荷物になっていただろうが、日本ではちゃんと家族を養っており、お金を溜めて、本来の職業のほかに金貸しをやている場合もしばしばだ。目の見えぬ按摩は車馬の交通がはげしいところでは存在しえないだろう。彼の物悲しい笛の音なんて、蹄や車輪の咆哮にかき消されてしまうし、彼自身何百回となく轢かれることになるだろう。だけど東京では、彼が用心すべきものとては人力車のほかにない。そいつは物音はたてないし、子どもとか按摩さんと衝突しないように細心の注意を払ってくれるのだ」。
アーノルドとともに明治二十年代初頭の東京の街頭に立ってみよう。四人の男の肩にかつがれた方形の白い箱がゆく。死者が東京を見納めているのだ。だが「あまり悲しい気分になる必要はない。日本では誰も死ぬことを、ひどく怖れたり嫌ったりすることはないのだから。下駄屋、氷水屋で氷を削っている少女、鰻の揚物を売り歩く男、遊びの最中の男の子と女の子、坊さん、白い制服の警官、かわいい敏捷なムスメが、ちょっとばかり葬列を見やる。だが彼らの笑いとおしゃべりは半分ぐらいしかやまない。・・・・・・街頭はこんどは人足たちで一杯になる。材木を積んだ車を曳いているのだが、紺のズボンをはいた年輩の女たちがあとから押している。・・・・・・あまいねり粉を文字や動物や籠の形に焼きあげる文字焼屋、それに彼の仲間の、葦の茎を使って、大麦のグルテンをねずみや兎や猿の形に吹きあげる飴屋」。紙屑拾い、雀とり、小僧に薬箱をかつがせた医者、易者、豆腐屋、砂絵描き、それにむろん按摩。アーノルドの列挙する街頭の人びとの何と多彩なことだろう。それぞれに生きる位置をささやかに確保し、街を活気とよろこびで溢れさせる人びとなのだ。
按摩さんの文章で、『真田小僧』を思い浮かべた落語愛好家の方も多かろう。あるいは、『按摩の炬燵』や『三味線栗毛(錦木検校)』かな。
私が子供の頃の北海道の田舎町でさえ、按摩さんがいたことを思い出す。
目の不自由な人にとっては、貴重な職業だった。
今では、あちこちに、チェーンのマッサージ屋さんが出来ているが・・・・・・。
町の雑踏を通る葬列に対する人びとの対応は、あまりにも冷たい印象を受けるかもしれない。
しかし、立川談志の言葉じゃないが、「死んだら、終わり」という、良い意味での処世訓が浸透していたように思う。そして、死に対する覚悟の違いを感じるなぁ。
死ぬことを前提に、精一杯楽しい人生を生きる・・・そんな明るい、生に拘泥しない人びとの住む日本があった、ということか。
なかなか、そこまで達観できないが、「死んだら、終わり」という意味を、肯定的にとらえる必要があるのかもしれない。
町には、なんともいろんな職業の人がいたものだ。
アーノルドが東京のどこを描いたのか分からないが、浅草や両国にも行ったのだろうし、縁日の光景に目を輝かせたに違いない。
挨拶の優雅さ、礼儀正しさと姿勢の美しさ、明るいおしゃべり、相互扶助の精神、死を怖れることなく精一杯生きる姿・・・・・・。
どれもこれも、かつての日本であり日本人のことである。
そういった姿を、少しでも取り戻したいと思うが、もちろん、これは安倍晋三が言う「日本を取り戻す」でもなければ「美しい日本」でもない。
安倍政権がしていることは、そういった本当に“美しかった日本”を、さらに遠い過去に退けようとする行為である。
江戸、明治のことを考えると、どうしても今の日本の状況に対し悲観的になるが、いやいや負けてはならない、と思う。
日本という国は、その歴史と伝統を顧みるに、海外の人に尊敬される国になれる要素は、いくらでもある。礼儀正しさ、争いを好まず平和を尊ぶ精神、相互扶助、などなど。
なぜ、アジア近隣諸国との関係を悪化させるようなことばかり政府がするのだろうか。
まずは、憲法を遵守し、戦争をしない国として他の国と接することが、日本として相応しいことなのは、間違いがない。