海老名香葉子著『竿忠の家』-『東京百話-人の巻-』より。
2015年 08月 19日

『東京百話-人の巻-』(ちくま文庫、種村季弘編))
三代目三遊亭金馬の『浮世断語』とのつながりから、ちくま文庫の『東京百話-人の巻-』の巻頭にあるこの文章を再読した。
『東京百話』は、幅広い分野の方の厳選された短編を楽しむことができるので、時おりめくる本。
『竿忠の家』の出典は、『ことしの牡丹はよい牡丹』(主婦と生活社)だが、こちらは未読である。近いうちに読むつもりだ。
先日の記事にいただいたコメントでも、根岸の女将さんのことにふれられた方がいらっしゃったが、多くの落語愛好家の方は、金馬-海老名香葉子-林家三平、という連想をされるだろう。
初代の林家三平の女将さん海老名香葉子は、東京大空襲で家族を失い、敗戦後に金馬に引き取られた人。
釣り好きだった金馬が、「竿忠」の娘であった彼女に救いの手を差し伸べたのだった。
今や、“根岸の女将さん”として、確固たる(?)地位を築いた感のある方が、どんな子供時代を過ごしたのか、ご紹介したい。
部分的に割愛するが、“かよちゃん”一家が戦争に巻き込まれる前の、平和な暮らしを紹介したい。
まずは、『竿忠の家』冒頭部分から。
本所三ツ目通り。押上方面から三之橋を渡って右側が堅川三丁目。
わたしはここで生まれ、ここで小学校五年まで育ちました。生まれたときから三の字に縁があったんだわ、と思っています。
お隣はふとん屋さん。裏隣はフォードという大きな自動車の修理工場。三ツ目通りを渡って二百メートルも行ったところに菊川小学校-わたしのなつかしい母校があります。小学校の近くには小さい公園があり、ここはいつも子供たちが遊びほうけているところです。その公園の前に通称百軒長屋があり、その角の煙草屋のおばさんの明るい顔が、いまだに目に浮かびます。
朝、広いアスファルトの三ツ目通りには、馬や牛の糞がたくさん落ちていて、狐が人間をだまし、あの糞を食べさせたんだという流行歌を、子供たちは親たちから聞かされていました。その、だました狐の歌を思い出します。
おとっつあん
今帰ったコーン
おみやげあげようか
温かい酒まんじゅう
コーン
学校から帰る頃には、この糞は近在のお百姓さんの畠の肥料(こやし)にでもなるのでしょうか、きれいに拾われて跡かたもなくなっていました。
三ツ目通り、三之橋、三丁目・・・なるほど、三平に嫁ぐ運命にあったということか。
馬糞・・・私が子供の頃には、道端に落ちていたなぁ。
北海道の田舎生まれだったので、都会に比べトイレが水洗になるのは遅く、小学生低学年まで農家が馬車で集めて回っていたのを思い出す。
さて、本所生まれの香葉子さんの家は、どんな家だったのか。
わたしの家は代々釣竿師でした。三ツ目通りの角から二軒目で、間口六間(十・八メートル)、奥行四間(七・二メートル)の家です。二階の手すりの前には、ぶあつい立派な板に、大きく力強い字が彫り込まれた「竿忠」の看板が、掲げてあったのを覚えています。万博で賞を取ったほどの名人の曽祖父の血筋を受け継ぐ、伝統的な竿師の家の様子が、うかがえる。
店の広い仕事場では、祖父と父がいつも竿づくりをしていました。常連の客が三、四人上り端に腰をかけ、その仕事ぶりを無言でじっと眺めているのが、毎日の店の風景の一つでした。竿師の家業がスタートしたのは五代ぐらい昔で、「竿忠」の屋号を掲げてからは祖父で二代、父で三代めということになります。
曽祖父は明治の人で、名人とまでいわれたそうです。パリ万国博覧会に和竿を出品して最高級の銀盃をいただき、一躍有名になったようで、わたしの物心つく頃は下町の職人ながら、けっこう華やかな毎日だった印象があります。
曽祖父の血を受け継いだ祖父や父の仕事ぶりは、子供心にも有無をいわせない気迫を感じさせました。短めの着物にたすきがけで、仕事中ほとんど口をきかず黙々と竿づくりに励む姿には、幼いわたしにも、「偉い人なんだなあ」と思わせる風格がありました。
祖母は、神田の小柳亭という講釈場と寄席の小屋主の長女で、その界隈では飛び切りの美人という評判の娘だったそうです。わたしも「おばあちゃん」と呼びかけながらも、不思議なくらいきれいな人だと思っていました。
母は木場の材木屋の長女で、父とは菊川小学校での同窓生。父が猛烈に母に惚れて、たっての願いで嫁いできてもらったそうで、父の一世一代の大恋愛だったことは、家族の間でも言い伝えられていたのです。
店には、世間に名を知られる人が客として出入りしていました。中島飛行機社長の中島知久平、歌舞伎役者の先代市川海老蔵、落語家、講釈師から陸軍大将まで、そうそうたる人たちです。
おばあさんが寄席、講釈場の小屋主の娘だったことは、その後の運命との縁を感じさせる。
店を訪れた有名人の中には、きっと三遊亭金馬も含まれていたのだろう。
そんな本所界隈の生活は、どんなものだったのか。
象徴的な、その当時の朝の模様をご紹介。
「あさりからしじみよー」
遠くに近くに聞こえる、もの売りの声から朝が始まります。
祖母が長火鉢の端で、キセルの吸いがらをはたく音で、母がすっと起き、シャッ、シャッと手早く、着物とかっぽう着を身につけ、髪を撫でつけながら、あわてて下へ降りて行きます。
間口の広い家の雨戸をゴトゴト開ける音、はたきをかける音、掃き出す音、丸い大きな卓袱台をギイギイ脚を出して組み立て、お茶椀やお皿を置く音、まな板でトントン、トントン・・・・・・の頃には、ご飯をおはちに取る匂い、そしておみおつけの香りがプーンと。
一日の生活様式も明治時代以来のしきたりどおり、型が決まっていたものです。祖父母が睨みをきかせていて、店の仕事は祖父が、家内の取締りは祖母がとりしきっていました。
朝脱いだ寝巻きやふとんのたたみ方、しまい方、洗顔、朝食など、子供たちもちゃんとしないと叱られます。母は色白の頬を赤くして、きゃしゃな体をきびきびと動かして、朝の秒刻みの忙しさをこなしていました。
わたしたちが、
「行ってきます」
と、次々に学校へ出かける頃には、入口に敷きつめられた玉石は、水で洗い清められています。四人も子供がいるので、部屋は散らかっていましたが、店の中は朝晩塵一つなく掃除されていたのです。
わたしは、兄妹四人の末娘でした。
そうなのだ、かつての日本の朝には“音”と“匂い”があった。
また、この文章には、いわゆる‘核家族’時代の現在では考えられない、三代同居の生活風景が描かれている。
いや、今は“核”すらあるのかないのか・・・・・・。
出典元の著作の題名が登場する部分を、少し紹介。
道路での遊びは、ろう石、縄跳び、ゴム段跳びなどの他に、ろう石、なんて死語になりつつあるのではなかろうか。
ことしの牡丹はよい牡丹
お耳をからげてスッポンポン
や、「子取ろ子取ろ・・・・・・」「坊さん坊さんどこいくの・・・・・・」などを、男の子も混じえて喧嘩しいしい遊びをしました。
お次は、竿忠一家の夕食の様子。
風呂からあがると、おじいちゃんを除いた家族は、大きな丸い卓袱台を囲んで食事です。
「かよちゃん家のおかずはすごいね」
近所の子によく羨ましがられましたが、今考えてみると、たいしたものではなかったと思います。
祖父だけは湯あがりに手拭いを頭にのせ、長火鉢の前でくさやの干物などを肴に、わたしたちが食事をする横顔をミコニコ眺めながら、晩酌をチビリチビリとやり、仕事中の顔とはまるで違って、やさしい表情をしてました。
子供たちは午後八時になると、否が応でも寝なくてはなりません。
いたずら者は、いないかナァ
いないかナァー いわみぎんざん
「いわみぎんざんがくるから早く、早く。子供は寝なさい。恐いよ、恐いよ」
祖母が大きな声でせきたてます。
「知ってるんだ、いわみぎんざんは、鼠取のことなんだ」
口答えをしつつ、わたしは梯子段の丸太の手すりにぶら下がりながら、まだ眠くないのにと、うらめしそうにしていました。
仕方なくすごすごと二階に上がった兄たちは、部屋いっぱいに敷かれたふとんに入ってからも、笑ったり怒鳴ったり、取っ組み合ったりで、しばらくさわいでいました。
わたしは父母のふとんの間にはさまれて、二の半の矢がすりのかいまきにくるまって寝ます。夢うつつに、父のほっぺや母の温かでやわらかいほっぺを、嬉しいなあと肌で感じながら。
その頃になると、三ツ目通りの騒音は静まり、平和で穏やかな夜が更けていきました。
まもなく、あんな大きな戦争が始まり、予想もしなかった不幸がわたしたち家族を襲ってこようなどとは露知らず、家族八人身を寄せ合って、ささやかながら幸福に充ち足りた生活を送っていました。昭和十五、六年頃までは-。
昭和8年生まれで国民学校の5年生だったが“かよちゃん”は、昭和20年3月のあの日、静岡県沼津の叔母の家に疎開していた。9日の夜半から10日まで続いた東京大空襲で、父と母、美人だった祖母、長男と次男の兄、そして弟の家族六人を、いっぺんに失う。三男の兄は生き残り、「竿忠」の四代目を継ぐことになる。
終戦後に親戚をたらい回しにされるが、父の知人で釣り好きだった三遊亭金馬に引き取られるのだった。
私は、中学生の頃に夏目漱石の本を読むまで、敗戦前の日本について、あまりにも知らな過ぎた。
意識の中で、昭和20年以前が、ほとんど空白だったとも言える。
しかし、漱石の本には、私が知らなかった、素晴らしい明治や大正の日本が描かれていた。
そこには文化の香りが充満していたし、知識人の姿や庶民の暮らしにも、憧れを抱いたものだ。
「えっ、昔、そんな時代があったの!?」という驚きは、私にとってのカルチャーショックだった。歴史の教科書では分からないものだった。
戦争の悲惨さ、残酷さを語る手法はいろいろあるだろう。
ご本人の戦争体験そのものを語ることも大事だ。
根岸の女将さんも、伝え続けている。
デイリースポーツの8月14日の記事より引用する。
デイリースポーツの該当記事
12歳の年に終戦を迎えた。戦災孤児として生きた自身の体験を語り継ぐことを自分の「使命」と捉え、活動を続けている。終戦から70年の時間が流れ、戦争体験者は減少し、高齢化が進むが、「命がある限り伝えたい」と使命に燃える海老名さんの思いとは-。私は、戦中戦後のことはもちろんだが、戦前の姿を伝えることも重要ではないかと思う。
「戦後は生きる戦いでした。食べること、眠る所。もう、夢中でした。戦争は哀しいものです」。12歳で戦災孤児となってからの月日を、海老名さんは静かに語り始めた。
あの戦争が起こる前に、実に文化的な香り溢れる生活空間があったことや、金銭的に貧しかろうが心が豊かな人々、そして家族の幸福な姿があった事実、歴史を伝えることも貴重なことだ。
そういった、大事なもの、人を、容赦なく奪うのが戦争であるという思いが、心の奥に深く沁み込んでくる。
そういう意味で、紹介した文章は、戦前の「竿忠の家」のことであっても、十分に反戦の訴えにつながる貴重な記録、記憶だと思う。
また、一門のトップとして弟子の教育に厳しいとはよく聞くところです。
音と匂い。
これらが聞こえて鼻をつつくようなら、随筆も落語も一級品でしよう。
大事な戦争の語り手のお一人ですね。
亡くした時間と空間を深く愛する思いが、文章にも込められるのでしょうね。
深い「喪失感」は、大事なものや人を亡きものにした原因への「憎悪」にもつながります。
戦争を頭で考えて反対するのではなく、その喪失感を常に再体験しながら憎悪する人びとの心情を慮る想像力が、大切だと思います。
憎むべきものです、戦争は。
朝の音、匂い、我が家でもずいぶん前から失っているなぁ(^^)
