江戸や下町のこと-『江戸っ子と江戸文化』などより。
2015年 06月 23日
日本近代史研究家、西山松之助の対談集『江戸っ子と江戸文化』(小学館創造選書)は、昭和57(1982)年に発行された本。
第一章の「江戸っ子談義」以外は、雑誌などに掲載されたもののアンソロジー。
第一章、この本のために新たに設定された対談からご紹介。
相手は、あの池田弥三郎である。
明治45(1912)年6月生まれの西山とは、二つ年下になる。ちなみに、1912年は7月30日から大正元年になる。
小林信彦の『おかしな男 渥美清』について三回に分けて書いたが、江戸っ子について語られるこの対談に、寅さんの舞台である葛飾のことも言及されているので、紹介したくなった次第。早い話が、相変わらずの芋づる式なのである(^^)
西山 ぼくは今日江戸っ子話ということで、江戸っ子のこういう本持ってきたんですがね。いちばん初めが三田村先生ですよね。その次が石母田俊。これは石母田正というすぐれた歴史家のお兄さんなんです。もう亡くなられたんですけど、ぼくは非常に親しくしておりましてね、それが『江戸っ子』をお書きになって、そのときぼくはだいぶお手伝いしました。そのあとで加太こうじさんが『江戸っ子』というー。それでぼくの『江戸っ子』と、いま『江戸っ子』の本が四冊あるんです。この三田村というのは、もちろん三田村鳶魚(えんぎょ)である。
池田 そうですね。もうぼくの出番はないわ(笑)。
西山は、三田村の著作から、「江戸っ子」という言葉の初出が寛政7(1795)年であることが世間に流布されたと説明しているが、これもあくまで一つの説。
三田村の本については、池田がおもしろいことを言っている。また、昔の人の「江戸」のイメージについて、興味深い回想が披瀝される。
池田 昔、三田村さんの全集が中央公論社で出ましたけどね。三田村さんの本なんかは全集で読むべきものじゃないね。やっぱり単行本で出たものを、ひっくりかえって読んでるのがいちばんいい。勉強してノートなんか取りながら読むもんじゃないですね。
話が違うけど、昭和57年1月初めに出た『サンデー毎日』に、ぼくの先輩の、慶応義塾の塾長やった高村象平さんというのが、質問に答えてるんですよ。これがまたべらんめい口調でね、とってもおもしろいわ。東京の言葉としても。
高村先生は小梅の人です。本所です。だから「池田君なんかに会うとあたしゃ江戸っ子とはいわないよ。あたしゃいどっ子だよ」(笑)、少し落ちるんだって。いまはもう葛飾のほうまで下町になっちゃって、みんな江戸っ子っていってるから、驚いちゃうんだけど。うっかりしたことはいえないし。
‘いどっ子’という高村の表現に、銀座の天ぷら屋「天金」の息子として生まれた池田に対し、本所生まれが抱いていた感情が推し量られて、なかなか楽しい。
‘いまはもう葛飾のほうまで下町になっちゃって’と言わせているのは、「男はつらいよ」の影響の強さだろう。
前の記事で紹介したように、小林信彦は『おかしな男 渥美清』で、あの作品の特色として、<柴又>を選んだ‘巧み’さと、<架空のふるさと>による‘眩惑’を指摘していた。そういう巧みさを発揮させ、眩惑を可能としたのは、本来、‘お城下町’の意味で、江戸城の周囲を下町と言っていたのだが、昭和50年代には、日本橋や神田、とりわけ銀座などは、すでに下町というイメージを遠く離れ、‘心の下町’に、葛飾がぴったりと適合したからだと思う。
寅さんを見て、‘きっと昔の日本、そして(下町の)人情はこうであったろう’という思いが、あの映画のロングランにつながったことは間違いないように思う。
大正三年に銀座で生まれた池田弥三郎が、何ら疑問なく銀座を下町と称していた時代は、はるか遠くに去っていたのだ。
‘銀座’は、日本一地価の高い場所であり、お洒落な街であり、間違いなく都会を象徴する場所、という認識が今では一般的だろう。
『おかしな男 渥美清』の著者小林信彦は、日本橋の和菓子店の長男に生まれた。もちろん、生っ粋の下町っ子。
では、浅草は、ということで本書からもう少しご紹介。
西山 昔は、浅草の人でも「江戸へ行ってくる」といったんですよ。
池田 そうです、そうです。浅草は江戸じゃないんですから。
西田 大正の初めでもそうだった。
池田 本所から深川にかけて、とくに深川には私のとこの墓がありましてね。深川なんかでも、永代橋越すのを「江戸へ行ってくる」というんですよ。ぼくらが聞いてるんだから、大正になってからもまだ江戸なんです。ほんのわずかなとこだんたんでしょう、江戸というのはね。
西山 民謡の竹内勉さんがやっぱり浅草か深川のあたりで、「 私たち子供の頃は、銀座のあたりに行くときは、江戸へ行くといって、私たちのところは江戸じゃなかったんですよ」と、しきりに何度もそういってた。
深川や浅草は、江戸ではなかったんだ。もちろん、江戸には「山の手」も「下町」も含むのだから、下町ですらなかった。
江戸の範囲については、なかなか定義が難しい。
この本でもふれられているが、「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」という川柳がある。
大岡忠相が活躍した享保年間の大火事の後の復興に関係しているのだが、川柳が流布されているほど、この定義の信頼性は高くない。
「山の手」と「下町」を含む、「江戸の範囲」について、少し調べてみた。
総務省のサイトの中に間借りして「東京都公文書館」というページがある。
「江戸の範囲」について説明があって、歴史的な変遷なども記されているが、早い話が、定義がまちまちだったのである。
何を基準にするかで、範囲は違ってくる。文政年間に出された統一見解を含め、引用。
東京都公文書館サイトの該当ページ
お江戸の範囲、解釈いろいろ…
拡大する江戸の町。では、一体どこからどこまでが江戸とされたのでしょう?
江戸といっても、町地は町奉行支配、寺社地は寺社奉行支配、武家地は大目付・目付支配…というように、複雑な支配系統がありました。
これらのうち、町奉行支配に属する町地の外縁をつなぐと、一定の区域が区画されます。この区画内が通常呼ばれる町奉行支配場であり、通常これが江戸の市域と考えられていました。ただ、それは同じ区画内であっても武家地や寺社地には町奉行の支配が及ばないという点で、「町奉行支配場すなわち江戸の範囲」と言い切れるわけではありませんでした。
実際のところ江戸の範囲と言っても解釈はまちまちで、決まった境界があるわけではなかったようです。町奉行支配場・寺社勧化場・江戸払御構場所・札懸場など、異なる行政系統により独自に設定解釈されていました。
1.町奉行が支配の対象とする江戸
◦江戸の町人地に限定。
◦町人地の発展とともに、外延へ拡大。
2.寺社勧化場として許可された江戸
◦勧化場…寺社建立等のため寄付を募ることを許可された地域。
◦1より広い範囲。
3.江戸払の御構場所とされる江戸
◦御構場所…追放刑者が立ち入ってはいけない地域。
◦四宿(千住・板橋・品川・内藤新宿)以内と本所・深川。
4.札懸場(芝口)が対象範囲とする江戸
◦札懸場…その対象範囲における変死者や迷子の年齢・衣服の
特徴等を高札によって掲示した場所。
◦1より広い範囲。
5.旗本・御家人が外出を届ける際の江戸
◦江戸御曲輪内から四里以内。
お江戸の境界、これにて落着。
江戸の範囲について解釈がまちまちであったところ、幕府は統一的見解を示すよう求められました。
文政元年(1818)8月に、目付牧助右衛門から「御府内外境筋之儀」についての伺いが出されました。その内容を要約すると、以下のとおりです。
「御府内とはどこからどこまでか」との問い合わせに回答するのに、目付の方には書留等がない。前例等を取り調べても、解釈がまちまちで「ここまでが江戸」という御定も見当たらないので回答しかねている。
この伺いを契機に、評定所で入念な評議が行われました。このときの答申にもとづき、同年12月に老中阿部正精から「書面伺之趣、別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得候様」と、幕府の正式見解が示されたのです。
その朱引で示された御府内の範囲とは、およそ次のようになります。
◦東…中川限り
◦西…神田上水限り
◦南…南品川町を含む目黒川辺
◦北…荒川・石神井川下流限り
これは、寺社勧化場(2)と札懸場(4)の対象となる江戸の範囲にほぼ一致します。
現在の行政区画でいえば、次のようになります。
千代田区・中央区・港区・新宿区・文京区・台東区・墨田区・江東区・品川区の一部・目黒区の一部・渋谷区・豊島区・北区の一部・板橋区の一部・荒川区
この朱引図には、朱線と同時に黒線(墨引)が引かれており、この墨引で示された範囲が、町奉行所支配の範囲を表しています。朱引と墨引を見比べると、例外的に目黒付近で墨引が朱引の外側に突出していることを除けば、ほぼ朱引の範囲内に墨引が含まれる形になっていることが見てとれます。
以来、江戸の範囲といえば、この朱引の範囲と解釈されるようになったのです。
「朱引図」は、同サイトでご確認のほどを。
なんとか、文政になって「統一見解」が出たようだが、いずれにしても、葛飾区は入らない。
だからと言って、「男はつらいよ」の評価が下がるわけでは、毛頭ないのだよ。
当たり前か。
いわゆる「在」なんですよね。葛飾あたりはその昔は向島と地続きでして、特に私の住んでる地域はその頃は水郷の雰囲気もあり、別荘地帯としてかなり有名人のお屋敷もありました。(今では信じられませんがw)
昔の書いてる書物にも「風光明媚」としてあるので、そうだったのでしょうね。江戸から船で来れば近く、鐘ヶ淵から歩いても分けない(当時の感覚)ので観光的は栄えたのだと思います。
だから江戸っ子じゃ無いんでよね(^^)
江戸が開かれるより前、武蔵国葛飾郡の頃の葛飾は、とても大きな地域にまたがっていたようですね。
歴史的には、決して江戸城下に負けてはいない(^^)
下町なんて言っては、それこそ葛飾っ子には失礼なのでしょう。
そういった場所に、古き良き面影が残っていることが大事なのだと思うのですが、いろいろ再開発計画もあるようで心配です。
相当前のことですが、両親が北海道からやって来て、一緒に柴又へ行き、矢切の渡しにも乗りました。
まだ健在ですが、今では足腰が弱っているので、あれは、まだ二人が旅行ができた頃にできた数少ない親孝行の真似事でした。
私は、葛飾大好きですよ!