旧暦5月4日、沖縄「ハーリー」の起源は、屈原にあり。
2015年 06月 16日
今日6月16日から、旧暦5月が始まる。
沖縄は、本土が新暦での暮らしに染まっている今でも、旧暦に基づく風習や文化を残してくれている。
6月19日、旧暦5月4日は、那覇以外の地域で伝統的な手漕ぎのボートレース「ハーリー(ハーレー)」の日である。

上の写真は、この記事の後半でリンクをしている、沖縄観光・レジャーのおすすめスポット情報「たびカタログ」のサイトからお借りした。
沖縄観光インフォメーションサービス(OIS)のサイトに、「ハーリーの起源」が丁寧に紹介されているので引用したい。
OISサイトの該当ページ
ハーリーは、今から600年前の琉球王朝時代に、中国から伝来したと言われています。
紀元前の中国、楚の時代、屈原(くつげん)という人物が居ました。彼は春秋戦国時代を代表する詩人であり、また有能な政治家でもあります。
屈原はその高い政治能力を活かし、楚の国王の側近として働いていました。国王からも国民からも敬愛されている屈原は、次第に他の重臣たちから妬まれるようになりました。
屈原を 妬んだ他の重臣たちは、屈原が不利になるような事を王に吹き込むようになりました。その結果、王の逆鱗に触れた屈原は、王の側近から外されることとなりました。
そんな中、王は秦の謀略におち、楚軍は大敗します。
その後、屈原は政治の世界に復帰しました。そこでまた、秦が王に家族の婚姻関係を結ぼうと持ちかけていることを知ります。
屈原は秦は信用ならないと、王に伝えましたが、親秦派の者に勧められた王は秦へ行くことにしました。
結果、王はまたもや秦の謀略にはまり、監禁されてしまうこととなりました。
王が秦に捕らえられた楚国では、新しい王をたてました。しかし、以前から屈原と仲が良くなかった新しい王は、屈原を江南へと左遷したのです。
その後、秦によって都が陥落し、楚の将来を悲観した屈原は「魚の腹に葬らるるとも 何ぞ俗々の身を以って 世の俗塵に染まん」(濁世に生きるより、魚の腹中に葬られるほうが潔い)という遺書を残し、川へと身を投げました。
屈原を慕う民達は「魚が屈原を傷つけないように」と太鼓やドラを使って魚を近づかせないようにしながら屈原を探しました。しかし残念ながら屈原は見つかりませんでした。それが5月5日のことだったと言われています。
そして毎年、屈原を偲んだ民が、龍船競漕を彼の命日に行うようになりました。これが中国での龍舟競漕(ドラゴンボート)の始まりだとされています。
なんと、ハーリーの起源は“屈原”にあり、なのだった。

屈原(Wikipedia「屈原」より)
Wikipedia「屈原」
中国四千年の歴史の中で、最初の大詩人と言われる屈原について、少し書きたい。
まず、屈原の祖国、楚と他の戦国時代の国について、地図で確認。
戦国時代の、覇権を争った七つの国は、「戦国七雄」と言われた。
Wikipedia「戦国七雄」から、地図を拝借。
Wikipedia「戦国七雄}

楚の南西に見える湖が洞庭湖。洞庭湖に注ぐ川の汨羅江に、屈原は身を投げたのである。
「合従連衡」という言葉は、戦国七雄の政治的な施策に由来する。
強国の秦に、他の六つの国が協力して戦おう、というのが「合従」。
秦とそれぞれの国が結託しようというのが「連衡」である。
同じ鬼谷門下の蘇秦が「合従」を唱え、張儀が蘇秦に対抗する意味も含め、「連衡」を主張した。この二人のことは、この後紹介する本で、史記の内容を分かりやすく解読してくれる。
屈原は、隣国の斉と友好関係を築き秦と敵対する、合従を唱える人だった。
しかし、楚には親秦派も多く、屈原は彼ら連衡派と敵対した。

陳舜臣著『ものがたり 史記』
陳舜臣さんの『ものがたり 史記』は、1983年に発行された朝日文庫版を持っているが、2008年に中公文庫でも再刊されているようだ。
OISの「ハーリーの起源」にも丁寧に説明されているが、この本から少し補足したい。
屈原は、楚の懐王に信頼されていたが、その懐王は屈原が止めるのを聞かず、秦の謀略家張儀に騙されて秦に抑留されていた。その間に、懐王の息子が頃襄王となって父親の後を継いだ。秦を脱出しようとした懐王だが、秦はそれに気づき、いちはやく道を遮断した。懐王は、趙に入ろうとしたのだが・・・・・・。
趙は武霊王が引退して、その子恵王が国政を執っていた。恵王は懐王の亡命をうけいれると、秦の怒りを買うのは必定なので、その入国を拒んだ。懐王の死後、楚の宮廷では、親秦派と抗秦派とのあいだにはげしい論戦が繰り広げられた。
趙で門前払いをくった懐王は、しかたがないので魏へ行こうとした。だが、追撃してきた秦軍につかまって、また秦へ送り帰されたのである。
その翌年、すなわち頃襄王三年に、悲劇の懐王は秦で病死した。
抵抗派の総帥屈原の胸には、怒りが燃えたぎっている。
懐王の屈辱をおもうにつけても、横暴な秦はゆるしがたい。どうしても斉などの諸侯を力をあわせて、抵抗したいところである。それは楚のためだけでなく、ひろく大義のためでもある。
-屈原はそう信じた。
だが、国政の基本方針は、屈原の意に反して、ますます秦との和親に傾いた。
ずいぶん激越な言葉で、屈原はこの方針に反対したのに相違ない。いろんな人物が、彼によって指弾されたであろう。
たとえば、懐王の末子の子蘭がそうだ。彼は屈原たち抵抗派の反対を押しきって、父王を秦王との会見に行かせたのである。頃襄王が即位すると、この子蘭が令尹といって、宰相のポストについた。
屈原の火の玉のような弾劾の言葉を浴びて令尹の子蘭は、彼を宮廷から追い出さねばならないとおもった。そこで、上官大夫の新尚ら親秦派の重臣と提携して、屈原を追放する運動をはじめた。
讒言の連発である。
それがついに頃襄王をうごかして、屈原は追放されることになった。
このまえは要職から退けられたていどだが、こんどは永久追放である。
屈原は髪を結んだ紐を切った。
文明人であることをやめたのだ。
揚子江や洞庭湖のほとりをさまようとき、彼の髪は風に吹かれてみだれ飛んだ。顔はげっそりとやつれ、からだは枯木のように痩せ衰えた。
揚子江の岸で、漁師が彼をみつけて、
「これはこれは、三閭大夫さまではござりませぬか。いったい、どうしてこんなところにおいでだね?」
と、たずねた。
楚の王族は、昭・屈・景の三姓で、それをすべる宮内大臣に相当するのが、三閭大夫である。
屈原はかつてその地位にあった。
「世をあげて濁っているのに、わしひとりだけが澄んでいる。衆人はみな酔っているのに、わしひとりだけが醒めている。だから、追放されたんじゃよ」
と、屈原は答えた。
「聖人さまちゅうのは」と、漁師は眉をしかめながら言った。-「世の中とともにうつりかわるとか聞いておりますだ。世の中がどろんこなら、その泥の流れにのって、波をあげたらようがしょう。みんなが酔っ払っておるなら、三閭大夫さまもごいっしょに、お酒を飲めばようがす。どうして、きれいな玉を抱いて、島流しなんぞになったのですかい?」
「髪を洗ったあとは、冠の塵を弾き、浴みをすれば、着物を振って払うものじゃ。きれいなからだで、垢に汚れたものを着けとうはない。そんなことなら、この川にとび込んで、魚にでも食われてしまったほうがましである。せっかく浩々として白いのに、どす黒いものといっしょになれようか」
屈原はそう答えて立ち去り、「懐沙の賦」をつくり、汨羅の川に身を投げて死んだ。
懐沙とは、沙石を抱いて入水することで、一説には、「長沙を懐(おも)う」の意であるという。汨羅は長沙に近い。
つぎは「懐沙の賦」の一節である。-
白を黒にかえ
上をさかさまに下にする
鳳凰さまは籠のなか
鶏どもは翔び舞う
玉石はまじり合い
おなじ升ではかられる
・・・・・・・・・・・・
屈原はそんな世のさまに絶望して死んだのだが、この賦は、
明らかにもって君子に告ぐ
吾、まさにもって類と為さんとす
という句で結ばれている。
「類」とは、「法(のり)」、すなわち「手本」の意味である。
(中 略)
屈原が汨羅に投身したのは、頃襄王即位まもなくで、紀元前296年ごろとされている。もっとも、郭沫若はもっとのち、秦将白起が楚都を陥した紀元前278年説を唱えている。郭説によれば、屈原自殺の動機は、亡国を見るに忍びなかった、ということになろう。
民間の言いならわしにすぎないが、死んだのは五月五日だという。
いつのことからか、屈原の命日に、竹筒に米などを入れて水に投げ込み、屈原の怨霊をなだめる風習がおこなわれるようになった。これがチマキの起源という。
陳さんは、実にあっさり書いているが、五月五日-屈原の命日-チマキ、が端午の節句の起源とされているのだ。
端午の節句は、別名、菖蒲の節句、まさにこの季節なのである。ちなみに、今年新暦の5月5日は、旧暦では三月十七日だった。菖蒲が咲くはずもない。
今日、「端午」なんて言うと、「アルゼンチン?」なんて聞かれそうではないか(^^)
白を黒にかえ
上をさかさまに下にする
まるで、今の安部政権のことではないか。
さて、中国のこと。
春秋から戦国時代、そして項羽と劉邦の時代と、中国の歴史には、数多くの偉大な人物が登場するが、偉大な詩人であり政治家であった屈原も、その中の一人として、後世に名を残している。
沖縄の「ハーリー」が、那覇以外ではいまだに旧暦で開催されていることは、非常に結構なことだと思う。
ハーリーの起源をたどることで、屈原という人物が思い起こされるきっかけになる。
今の時代の日本の政治家と比べるのは、最後まで自分の信念を曲げなかった屈原に、はなはだ失礼だが、屈原に比べて、‘ぶれる’人ばかりなのが今日の状況ではないか。
自民党の高村副総裁なんか、つい数年前に自分で言ったことと正反対なことをメディアで言いまくっている。
また、現在の永田町を見ると、目先の利益のみを追いかけるスケールの小さな合従連衡を繰り広げ、いわば、蝸牛角上の争いに終始している。
楚が斉と近づくのを防ぐため、斉との提携をやめるなら土地を分けてやると言う嘘をついて懐王を抑留した秦は、今の集団的自衛権問題やTPPにおけるアメリカの姿を思わないでもない。
しかし、楚である日本の政府には、屈原はいない。
屈原の爪の垢を煎じてペットボトルに詰め、「汨羅の水」とでも名付けて永田町で売りたいものだが・・・売れないか(^^)
そんな濁り切った政治の世界ではあるが、国会前のデモには、佐平次さんはじめ、多数の方が押し寄せている。
「吾、まさにもって類と為さんとす」という心意気を持った一人一人の行動は尊い。
私が、昨年9月に亀戸に行った「さようなら原発 全国集会」の人数は、1万6千人だった。
2014年9月24日のブログ
14日、国会前には、なんと2万5千人の心ある人々が集まった。
潮目は明らかに変わってきた。
屈原は一人では勝つことはできなかったが、一人一人の結集は、大きな力を生み出すに違いない。
沖縄観光の情報を案内してくれる「たびカタロク」や「おきなわ物語」といったサイトに、今週末に糸満などで開催される「ハーリー」の情報が記されている。
沖縄観光・レジャーのおすすめスポット情報「たびカタログ」サイトの該当ページ
沖縄観光情報WEBサイト「おきなわ物語」サイトの該当ページ
行けそうにはないが、話題になることで、その起源を知る人が増えることを期待している。
20日の土曜日は、旧暦五月五日だ。チマキを食べて、屈原を偲ぼうか。
たしかに、アメリカに学ぶこともあると思うし、日本は多くを学んで経済的に成長してきたことは、事実だろう。
しかし、世の中、経済がすべてではない。
その昔、この国のリーダーとなる人々が多くのことを学んだ中国のこと、史記や四書五経などを、日本はきっぱりと忘れ去ってしまっていいのだろうか。
安倍政権が安保法案、TPPに前のめりになるのは、明らかにアメリカの力を背後に感じさせる。
しかし、それは、中国や韓国など、アジアの近隣諸国との関係に配慮を欠いたものと言わざるを得ない。
旧暦(太陰太陽暦)という、自然、四季、農作業などと密着した暦を未だに捨てない沖縄に、米軍基地の大半がある、ということは、あまりにも皮肉ではないか。
「ハーリー」の起源をたどることで、そんな諸々にまでも、思いが至るのだった。
