松鶴に土下座させた、笑福亭小松という落語家のこと。
2014年 08月 04日
時事ドットコムの該当記事
夏川鴈二郎氏(元落語家)死去
夏川 鴈二郎氏(なつかわ・がんじろう=元落語家)2日、急性心筋梗塞のため滋賀県草津市の自宅で死去、57歳。同県出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は長男勝(まさる)氏。
六代目笑福亭松鶴に入門し、落語家「笑福亭小松」として活躍。90年代後半、胃がん手術後に各地を徒歩で旅しながら開いた落語会などの活動が話題になった。2000年には文化庁の芸術祭賞演芸部門優秀賞を受賞。一方では覚せい剤取締法違反の疑いで逮捕され、その後、落語家を廃業。09年には同法違反罪で実刑判決を受けた。
関係者によると昨夏、肺がんと宣告されたのを機に再び、落語会などの活動に取り組んでいた。(2014/08/03-19:57)
生で小松の落語に接したことはない。しかし、ネットで動画を見ることはできる。
笑福亭小松は、その名の通り、六代目笑福亭松鶴の弟子であった。
この一門については、弟子松枝による著作を以前紹介したことがある。
2012年6月18日のブログ
『ためいき坂 くちぶえ坂』は平成6(1994)年に初版が発行され、平成23(2011)年に改訂版が発行された。
巻末にある一門名鑑に従って、筆頭弟子仁鶴から順に並べてみる。
仁鶴-鶴光-福笑-松喬-松枝-呂鶴-故・松葉(七代目松鶴)-鶴瓶-鶴志-小つる(六代目枝鶴)-伯鶴-和鶴-竹林-円笑-鶴松-岐代松-伯枝-忍笑-福輔(廃業)-鶴笑-鶴二-小松(廃業)
最後に(廃業)とおまけが付くものの、小松の名が記されている。入門順では鶴瓶の次である。
以前にも紹介したが、小松は、「たおれ荘」のメンバーであった。
昭和47年に鶴瓶が入門した頃から、松鶴を慕って入門する弟子が急増した。弟子は“年季”が明けるまで通いで師匠宅で修行をするのだが、遠くから通う者たちのために松鶴は一計を案じた。
弟子の増えた松鶴は、権利金を払ってやり、溜息坂の下の長屋の一棟に連中を住まわす事にした。
「朝と昼はうちで食べたらええ。晩飯と家賃はアルバイトでかせいでやっていけ。ええか、仲良う真面目にせえよ・・・・・・」
「たおれ荘」と名付けられた此の長屋で共同生活を始めたのは、「小松」「松橋」「一鶴」「遊鶴」「鶴志」の五人である。全員二十歳以下であった。ただでさえ危ない。
(中略)
建物の古さは度を越していた。壁土は無数無残にこぼれ堕ち、数ヵ所畳に腐りが見え、部屋の中程には空いたか空けたか、床が陥没して下の土が覗ける所もある。布団は敷きっ放して垢じみ、すえた匂がする。畳は即ゴミ箱でチリ紙、カップ麺の殻、いかがわしい雑誌のいかがわしいグラビア等で足の踏み場も無い。極め付けは便所に戸が無かった事である。彼らは小も大も“さらけ出し”で用を足して居たのである。又、その光景を横に見て食事をしていたと言う。驚嘆を通り越して尊敬すらしてしまう。
『たおれ荘』の五人の弟子達は、鶴志以外は現役として残っていない。
この本において、小松に関する内容は決して少なくない。そのほとんどが、問題児としての逸話である。
「松鶴、土下座する」の章から紹介。
笑福亭が頭を抱える『三大難問』を紹介して置こう。門弟・推移図も照会頂きたい。
一に『枝鶴の失踪・放浪癖』である。二に『小松の寸借・借金・逃亡癖』が来る。この二つは動かない。そして三つ目は、時代と口にする者に依って変るが、『福笑・松枝・鶴枝の酒癖』、『呂鶴の競馬狂い』、『鶴瓶・猿笑の女癖』、『伯鶴の負けん気』、『鶴志のヨタ(ええ加減)』等か。
「小松」は間違い無く、笑福亭の問題児であった。草津の中学を出て十五歳で入門したこの者は、天性他人からそれも初対面から、可愛がられるキャラクターの持主である。それがどうもいけない。
ともかくも、修行時代を覗いてみる。大阪~草津は遠い為、近所のアパートに住む呂鶴と同居させてもらい、松鶴宅へ通う事になった。“引き取り”には直々に松鶴が実家に出向いた。まだ少年の面影を残すあどけない顔をしている。
志とは裏腹に本人の寂しさ、心細さ、又両親の我が子との別れの切なさを思い、松鶴は涙さえ浮べた。ところが、親子は涙を見せず、笑って別離の時を迎えた。その気丈さ、けなげなさに又松鶴は感動した。
数ヶ月後、松鶴は自らの感銘がとんでもないカン違いである事を知った。既に其頃から両親は“我が子”を持て余していたのである。よい厄介払い出来て心底ニコニコしていたのであった。
小松はよく練る。寝過ごして二日に一度は遅刻する。松鶴宅でも小松はよく寝る。見ると必ず居眠っている。「慣れぬ生活に、つい疲れが溜って・・・・・・」と皆、解釈した。間違いであった。それは夜遊びと緊張感の無さの産物であった。
「小松、茶入れて」昼食時、松鶴が言った。
「ハイ」明るく答えて湯飲みを取り、やかんの茶を注ぎ始めた。やがて松鶴は唖然として声が出なかった。茶は湯飲みから溢れているのに未だ注いでいる。小松のその目は、しっかりテレビに向けられていたのである。
勿論、意識してしたわけでは無いが、そんな小松だけに・・・・・・。
松鶴の頭に味噌汁の鍋を乗せた事がある。
松鶴の指を車のドアに挟んだ事が、三度ある。
松鶴の首に食べていたミカンの汁を飛ばした事がある。
松鶴に居眠りを起こされ「うるさい」と言った事がある。
松鶴が見ていたテレビの真前に座った事がある。
松鶴が眼鏡をかけ週刊誌を手に立ち上がった(トイレに立つ
仕草、弟子なら皆わきまえている)が、先に、入った。
落語会の楽屋で、松鶴に衣装を着せようとして、弟子が首をかしげた。足袋が無い。風呂敷の上に確かに先程迄有った筈が。出番が近付き師弟はあせった。そこへ舞台を済まして小松が入って来た。
「小松。ワシの足袋が無い。それ脱いで、貸せ」
「ハイ。しかしサイズ合いますやろか」履いて見るとピッタリであった。
「ああ良かった。合いましたなあ」その言葉の終わらぬ内に、松鶴が怒鳴った。
「合う筈じゃ、阿呆んだらー。これはわしの足袋じゃあ」コハゼの脇に、しっかり「松鶴」の縫い込みが有ったのである。自分の足袋を持って来忘れた小松は、横手に有った足袋を取り敢えず履いて出たのであった。その持主が誰であるか、この男はそういう事に一切頓着しない。そして恐ろしい事に、松鶴に指摘される迄その事を綺麗に忘れていたのである。
なんとも凄い弟子であったことか。
味噌汁の鍋を頭に乗せたり、足袋を拝借したり、という身内でのしくじりで済んでいれば、彼が「元落語家」と呼ばれずに「小松」のままで居られただろうが、そのハメの外し方は一門の笑い話で済む範囲を超え、他人(社会)に迷惑をかけるようになっていった。
持って生れた愛嬌と調子の良さで、小松は余りに早く酒、女、ギャンブル、借金を覚え過ぎた。自制心がついていかなかった。そしてそれらを上手に隠し通す才覚も。元来、そこつでどうもやる事に間が抜けている。やがて松鶴宅に金の催促やだまされた女からの電話が、頻繁に入り出した。
或る日小松の前で、松鶴は正座した。そして両手を着いて頭を畳にすりつけた。
「(弟子を)やめとくなはれ。松鶴、この通り頭を下げて頼みま・・・・・・。お願いしま。やめとくなはれ」
四十人を超える入門者の中で、松鶴に土下座させたのは「小松」只一人である。
唯一、師匠松鶴の土下座させた小松の最近までの状況については、昨年日刊ゲンダイが組んだ特集から紹介したい。
彼は、映画の題材にもなっていた。
日刊ゲンダイの該当記事
あの人は今こうしている
元落語家・笑福亭小松の夏川鴈二郎さん
2013年7月6日
末期の進行性胃がんと診断されながら、98年、がん克服のための徒歩による全国縦断落語会を達成し、NHKをはじめ、民放各局のワイドショーに取り上げられた落語家がいた。笑福亭小松(本名・夏川鴈二郎)さんだ。金山一彦主演の映画「勇気の3000キロ」のモデルにもなった夏川さん、今どうしているのか。
待ち合わせたのは滋賀県はJR草津駅の改札口。タツノオトシゴのように痩せ細った夏川さんが、かつてもてはやされた元落語家だと気づく人は誰もいない。
その夏川さんの隣にはスポーツマン体形の若者がいる。
「せがれの勝(まさる)ですねん。きょうはボクの決意のほどを知ってもらいたくて、取材に同席させていただきます」
「決意のほど」——。
実は夏川さん、09年4月に当コラムに登場し、がんに打ち勝ったヒーローとして執筆や講演で大忙しだったのもつかの間、個人事務所がパンクして奈良県内にあった敷地120坪の自宅を失っただけでなく、5000万円の借金が残り、「心労で眠れない」と訴えていた。そして、その2カ月後、覚醒剤使用(3回目)で逮捕・起訴されたのだ。
松鶴門下の時の逸話が物語る奔放な性格も災いしたのだろうか、彼はせっかく立ち直る機会がやってきても、なかなか上げ潮に乗り切ることができない。若い時からの不摂生も災いしたのだろう。
「自暴自棄になった揚げ句の覚醒剤ですわ。ボクが勝手なことばかりして家族に悲しい思いをさせるもんやから、愛知県内で働いとる勝とはその前から絶縁状態でした」
夏川さんが3年余りのツトメを終えて滋賀刑務所を出所したのは去年7月。しかし、胃と脾臓(ひぞう)を全摘、膵臓(すいぞう)を半分取った体力の衰えは著しく、入退院を繰り返した。
「おまけに肺に2つの影が見つかりましてね。がんが転移したと死を覚悟しました。幸い、精密検査の結果、結核とわかり、投薬治療は続けてますが、ともすれば萎えそうになる気持ちを奮い立たせてくれたのが家族でした」
勝さんとは今年正月に対面。妻と長女、家族4人で水入らずの時間を過ごした。
「おかげで、どうにか気力は回復してきたけど、ボクの今の体力では工場勤めとかは無理。かといって、今さら芸人には戻れん。正直、何をやったらいいのか……」と悩む夏川さんを勝さんは、「ボクが知ってる父さんは、笑いでみんなに感動を与えてきたやないか。原点に返って欲しい」と励ましたそうだ。
<「何を寝ぼけたこと言ってるんやと、厳しい意見があることも十分承知してますわ」>
「もちろん、世間はそんなに甘くないことはわかってます。何を寝ぼけたことを言ってるんやと、厳しい意見があることも十分承知してますわ。ボクを応援して下さった方々の善意を裏切ってしまったのは、身が縮こまる思いです。まったくもって深く反省してます。それでも、ボクなりにもう一度恩返しさせていただけないでしょうか」
「二度と罪を犯さないように家族みんなでサポートしていきます。応援してくれとは言いません。せめて父の覚悟を見てやって下さい」(勝さん)
とはいえ、再犯率が極めて高いのが覚醒剤だ。
「許されるなら、噺(はなし)職人として刑務所での泣き笑いや覚醒剤の恐怖を伝えていきたい」と話すが、本当に4回目は大丈夫なのか。
「命からがらって言葉がありますね。滋賀刑務所での3年間はつらい、厳しいなんて通り越した、まさに命からがらの毎日でした。ホンマ、あそこに行くなら腹かっさばいて死んだ方がまし。ボク、覚醒剤とはきっぱり縁を切ります!」
小松は松鶴一門から破門された後、漫才に取組みNHK新人漫才コンクールで最優秀賞を受賞した。その後、上方落語界への復帰が許され、平成12(2000)年には、 『小松のらくだ』で文化庁芸術祭演芸部門優秀賞を受賞している。
とにかく、師匠だった松鶴が大好きだったのだろう、『あいらぶ松鶴』というネタがあり、昨年12月14日には、今は亡き大須演芸場で快楽亭ブラックとの二人会で披露している。
芸人として天性の素質を持っていたことは間違いないだろう。それだけに、生の、そして素面の「小松」の高座を見ることができなかったことは残念だ。
笑福亭一門のトラブルメーカーとして、被害に遭った人も少なくないだろう。
しかし、彼は辛い刑にも服してきた。死ねば仏である。
体はボロボロだっただろうが、最後には家族との平穏な日々の中で旅立ったであろうと思いたい。
合掌。
彼もこういう追悼記事を書いてくれた人がいて、泉下で喜んでいると思います。
今ではなかなか珍しい破滅型芸人だったようですね。
亡くなる直前まで周囲に支えられて高座もつとめたと、ネットで目にしました。
入門二か月違いの先輩鶴瓶のコメントが、ニュースなどで見当たらないことが、少し残念です。
典型的な破滅型の芸人さんでしたが、落語は天才肌でうまかったのではないでしょうか。残念ながら話は聞いていませんが、おそらく落語家をまじめに続けていればかなりの域に行った感じがします。
残念ながら、覚醒剤との付き合いは長かったようですね。
胃癌を一度は克服したものの、クスリにまた手を出していたのでは、神様も助けようがなかったのでしょう。
おっしゃるように、落語家として大成する素養はあったはずで、松鶴も我慢に我慢を重ねての“土下座”だったと察します。
六代目の直弟子では恐れを抱くのか、『らくだ』を演じられる人は限られています。それで受賞したのですから、非凡な方だったのでしょうね。
ところで、覚醒剤で逮捕された時の記事で、小松さんにもう一つの「本名」があったことを知りました。
同じ「民族」の鶴瓶門下の銀瓶さんは順調な道を歩まれている訳ですが、もしかしたら小松さんの転落は、その背景にも関係しているのかもしれません。
初代春團治は本名「皮田藤吉」の示す「出自」を持ちながら、そのことを敢えて語る人は少ないのですが・・・。
「芸能」と「差別」の関係には、見て見ぬふりは出来ないような気もするのです。
私も検索して別な名に気づきました。
あえてブログの記事には書きませんでした。
ヘイトスピーチなど、良からぬ風潮がありますからね。
学生時代に関西にいたので、私自身も差別が強いことを経験しました。
良く知っている仲の良い男女が結婚を前提に付き合っていたのに、片方が別な名を持つ家系のため、もう片方の親が二人が一緒になるのを許さなかったことがありました。
未だに差別が残ることが非常に残念です。
小松の人生にも、そういった悪しき差別が何らかの影響を与えたことは否定できないでしょうね。