人気ブログランキング |

噺の話

kogotokoub.exblog.jp
ブログトップ

落語における「イン」と「アウト」—Nelson's Navigator for Modern Jazzより。

『中村仲蔵』のことをネットでも調べていて、実は、大変うれしい出会いがあった。
 
 私は、好きなジャズのことで何かを調べる時は、Nelsonさんのホームページを訪ねる。
Nelson's Navigator for Modern Jazz
 それぞれのジャズミュージシャンの作品や代表曲、ジャズの名曲のことなど、とにかくモダン・ジャズに関する「広辞苑」とでも言ってよい内容なのだ。

 そして、雲助の高座を聴いたあとで、ネットでこのネタを調べている中で、そのNelsonさんのホームページに、なんと『中村仲蔵』の正蔵と志の輔について、ジャズを媒介に書かれた内容があるのを発見したのである。

 Nelsonさんにもご快諾をいただいたので、ぜひ、ご紹介したい。
「Nelson's Navigator for Modern Jazz」の該当ページ

"中村仲蔵」という古典落語の名作がありますが、まぁ、その典拠ともいうべき林家正蔵のモノをジャズで言うところの「イン」の名演とすれば、今春に立川志の輔がやったモノは、それを「アウト」しようとする試みとして、十分な意義がありはしないか、、、というお話です。


 この「イン」「アウト」については、後でしっかり説明されている。

 志の輔の仲蔵は、私も見たWOWOWの映像である。

「志の輔らくご in PARCO」をWOWOWで、、、
2007年1月の「志の輔らくご in PARCO」のトリで、志の輔が"中村仲蔵」をやったそうです。残念ながら行きそびれましたが、「実に素晴らしかった。近年最大の収穫だ。」というのが、もっぱらの評判のようです。「それは、残念なことをしたなぁ、、、」と思っていましたら、この春分の日のWOWOWでの放映を、幸いにも見ることが出来ました。なるほど、話題になったのも当然の熱演でした。しかも、諸先輩がやった古典的なスタイルでは無く、志の輔らしさがそこここに横溢していました。


 最近のPARCOの放送については、正直なところ疑問に思うネタや高座、演出もあるが、ブログを書き始める前の2007年『中村仲蔵』は、私も見て完成度の高さに驚いた。

 Nelsonさんは、次にネタのあらすじを書かれているが、割愛し、肝腎の部分を引用。

Nelsonは林家正蔵のモノが大好きです。正蔵の枯れた、渋い味わいに古典の凄さ、深さを感じていました。ジャズで言えば、名曲を採り上げての名演、それも典拠となる名演だと思います。その意味では、「イン」の名演でしょう。


 この部分を読んで、「Nelsonさんも正蔵だよ!」と私はニンマリした。そして、正蔵を「イン」と表現するジャズの達人に感心した。

 そで、この「イン」、そして「アウト」について。

「イン」と「アウト」
ジャズには、「イン」と「アウト」という用語があります。(ご存じない方は、我がサイトのJazz Glossaryをご覧ください。)要すれば、従来の定型をそのまま踏襲しながらも個性を発揮する「イン」に対して、自分の感覚を信じて旧弊を打破し、新風を吹き込もうとする「アウト」とでも言えば、当たらずとも遠からずでしょう。このようなことは、個性を重んじるジャズなら当然のことですが、他の芸術分野、たとえば古典芸能である「落語」において試みられても、おかしくはありません。いつの時代にも、またどんな分野でも、気概に満ちた芸術家は、果敢に「アウト」を目指すものです。
林家正蔵等の古典落語の名人が演じる「中村仲蔵」は、「イン」の名演に当たります。約束事があって、それの埒を越えないのだけれども、訓練の賜物でしょうか、巧みな話術によって、人生の機微を感じさせます。型にはまってはいるのですが、そこに正蔵の個性がはっきりと出ているから不思議です。そういう古典的な名演を十分に知り、その素晴らしさを心得た上に違いありませんが、志の輔は敢えて「アウト」することを試みます。志の輔は昭和29年生まれで、Nelsonよりも1世代下に当たりますが、ここでの語り口は「我々世代」とでも言いたくなるような、オヤジ世代のそれです。当然、いくつかの彼らしい話の膨らましがありますが、それも現代の社会人に特有のクスグリであり、褒め言葉としての「今様(いまよう)」そのものです。現代に生きる我々が聴いて身近な語り口に置き換えた努力と才能は、立派なものだと感心しました。


 そして、この「アウトの危さ」について、次のように指摘されている。

「アウト」するには、「イン」、つまりは定型の居心地の良さを捨てて、誰もまだやったことの無い領域に踏み込まねばなりません。ものの見事に着地に失敗しても、当然なのです。お分かりのように、定型というのはそんなに軽々しいものではありません。生半可な「アウト」をすれば「くだらない」と一蹴されるほどに、練って、練って、練り上げられたもの、それが定型です。不動の価値があるからこその、「イン」であり、定型です。思い付きで、ヒックリ返せるほどヤワなものではないのです。


 そうなのだ。「定型」という言葉には、決まりきったことをやる、というやや消極的な意味合いがないでもないが、その型にたどり着くまでに練成されてきた歴史と、そうである理由がある。
 この後、Nelsonさんは、志の輔の「アウト」の試みを評価するとともに、中村仲蔵自身も歌舞伎を「アウト」した役者であることを指摘することを忘れない。流石である。

 そして、最後の締めは、しっかりジャズのことに戻り、これまた私が大きく頷くことを書いてらっしゃるのだ。

ここからは、Nelsonのごく私的な、個人的な好みの話になります。志の輔のアウトした「中村仲蔵」を聴いた上のことですが、Nelsonは林家正蔵のモノの方が、しっくり来るし、落ち着いて聴けます。これは、「良い・悪い」の問題ではなく、好みの問題なんで、仕方ありません。
(志の輔ファンには申し訳ありませんが、志の輔が挿入したクスグリに、まだ練りが足りないと感じました。90点の出来ではありますが、120点ではありません。古典とは、120点を要求する世界だと思います。もう少しの熟成を期待します。志の輔には、それが出来るはずです)
これをジャズで言うと、こういうことでしょう。Nelsonは、50年代から60年代頃のジャズが一番しっくり来ます。それよりも新しいジャズも好きですが、「さて、何を聴くかなぁ、、、」とかいう日常的な、ケのジャズとしては、本線モダンジャズの、5、60年頃のものが、一番落ち着きます。


 志の輔に、実にやさしい言葉がかけられている。

 浅草見番の雲助も、『中村仲蔵』を「アウト」したと言ってよいだろう。
 仲蔵に五段目の斧定九郎ひと役しか与えられなかった理由や、サゲにかけての設定などは、定型とは言えない。
 その試みには感心する。「アウト」した結果、「これもあるなぁ!」とその演目の進化を実感できれば、それは素晴らしいことである。しかし、それはなかなか難しいことである。
 もちろん、「イン」をしっかり行うのも決して安易なことではない。
 
 この「イン」と「アウト」との考え方は、先日紹介した榎本滋民さんの『落語小劇場』の冒頭にある次の文章にも相通じる。
2014年6月23日のブログ

「古典落語」とは、古典的な落語というほどの意味の造語なのだとして、辞書によれば、「古典的」とは、「古来」の「典型を重んずる傾向のあるさま」であり、定型という「規矩」のない「クラシック」など絶対にあり得ないからである。
 まして、定型化されては、だれが演じでも同じになってしまうからつまらない、などというに至っては、全くとるにたらないたわごとで、たとえば、歌舞伎の『勧進帳』や『忠臣蔵』を、だれが演じても同じと思う人がいるなら、それは、芸能にも芸術にも縁のない人にきまっている。
 もっといえば、すでに設けられた美の制約や秩序の中で、新しい生命を強く燃焼させ、そのことによって、規矩や制約や秩序を破壊しながら、またつぎのより新しい生命を燃焼させるために、より強い規矩や制約を設けるという、無限の繰り返しこそが伝統の再創造と呼ぶに価する作業なのであろう。


 古典“再創造”のために「アウト」する試みは得難い。しかし、定型に至る長い歴史と先輩噺家さんの苦労を踏まえ、基本の型ながら個性的な作品に仕上げる「イン」の芸は、その芸能を好む者の心をしっかりと掴んで離すことはない。

 「アウト」の芸の存在意義は、榎本さんの言葉をお借りするなら、“新しい生命を燃焼”させ得るものかどうかにかかっている。

 『中村仲蔵』に関して言えば、雲助や志の輔の「アウト」ではなく、私も正蔵の「イン」が好きだ。これは、好みである。

 そして、Nelsonさんと同様、私も50年代、60年代のモダンジャズが、しっくりくる。クリフォード・ブラウンの一連の傑作、マイルス・デイビスのマラソン・セッションの四作などは、私の携帯音楽プレーヤーの定番だ。

 雲助の『中村仲蔵』のおかげで、尊敬するジャズの達人Nelsonさんととメールで会話することができた。そして、Nelsonさんが落語に対しても、ジャズと同様鋭い鑑識眼があることがわかったことと、好みが近いことを知って、何度もニンマリしてしまうのである。

 「アウトも大事だが、インもいいんだよ!」(オソマツ)
Commented by 佐平次 at 2014-07-09 09:45 x
ゴルフの話かと思いましたよ。
小三治が若い噺家にアウトで受け狙いすることを厳しく戒めていますね。「落語家論」。

Commented by 小言幸兵衛 at 2014-07-09 10:20 x
「アウト」が弁証法の「止揚」であるなら、それは凄いことなのですが、受け狙いの小細工の場合は、定型の持つ良さを壊すだけになりかねません。
志ん朝の大須の音源も確認しましたが、やはり正蔵の型(≒根岸の文治の型)ですね。
前半に「申し上げます」の逸話もあるし、歌舞伎の格付けも細かく解説しています。

名前
URL
画像認証
削除用パスワード

※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。

by kogotokoubei | 2014-07-09 05:18 | 落語とジャズ | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛