小島貞二著『こんな落語家がいた-戦中・戦後の演芸視-』を読んで。
2010年 08月 17日

小島貞二 『こんな落語家がいた-戦中・戦後の演芸視-』
本書は、NHKの番組「戦場の漫才師たち~わらわし隊の戦争~」について書いた時、関連する本として紹介した。今回は「落語の本」のカテゴリーとして本書そのものを取り上げたい。ちなみに、タイトルの「落語家」には「はなしか」とルビがふってあります。
私が最初に小島貞二さんの名を知ったのは古今亭志ん生の『びんぼう自慢』の聞書きをした人としてである。今日の噺家さんとの関係で言えば、古今亭菊之丞が子供の頃から小島さんに親しくしてもらい、落語の世界に進む際も菊之丞は小島さんに相談に行き、円菊師匠への入門を仲介してくれたのも小島さんである。また、ご長男の小島豊美さんは、あのCD-ROM『ご存知古今東西噺家紳士録』を発売しているエーピーピーカンパニーの社長さんである。
小島貞二さんは非常にユニークな経歴をもっている。小島さんは、戦前のある時期には出羽海部屋の力士であった。安芸ノ海の付き人として、昭和14(1939)年1月場所四日目の1月15日に、あの双葉山の70連勝目を安芸ノ海が止めた歴史的な瞬間にも立ち会っている。力士から出版界に転身するのだが、そのいきさつや力士以前のことなどについて、本書では次のように記されている。
私は兵隊検査のとき第二乙種。力士現役のときだ。
なかなか召集は来ない。昭和十五年二月、役所勤めの父六郎が飛騨高山の勤務地で没。廃(や)めるべきチャンスだと思った。
そんなとき、博文館の雑誌『野球界』の編集長池田恒雄さんから「ウチへ来ないか」と誘われる。時節柄、野球は敵性スポーツで、読者の関心はもっぱら国技の相撲のほうへ移っている。その相撲記者がいない。君どうだ、というのである。
こいつはありがたい、早速首をタテに振る。
いい忘れたが、私は田舎の中学(旧制豊橋中学、現時習館高校)を出て、漫画家に憧れ上京、川原久仁於門下となったのが昭和十二年。田河水泡門下の長谷川町子さんが、一年ほど先輩だから、ほぼ同期生。
そのころの私は六尺、十九貫ちょいと(七二キロ)の体。漫画を描くには大きすぎる。やがて一年後、スカウトされて出羽海部屋に入ったという、少し風変わりな相撲さんであった。
(中略)
『野球界』はそろそろ『相撲界』と改題せざるを得ないときに差しかかっていた。
古い相撲ファンの中には『国技の日本』という小型の月刊誌があったことを記憶しておられるかもしれない。『野球界』と同じ編集部内での仕事であった。その雑誌の編集長は野球専門だから相撲がわからない。
「君、やってくれ」と強引に仕事を押し付けられたから、そのころは大車輪、土俵上とは百八十度違う知的な重労働で、もともと細い体が五キロほど痩せて、入門前に戻ってしまった。
いまも『野球界』(相撲界)の古い雑誌は時どき見かけるが、『国技の日本』はとんと見ない。あれば私の下手な漫画なども載っているはずだ。
漫画家を目指し愛知豊橋から上京し、その後スカウトされて相撲の世界へ。そしてお父上の死をきっかけに、後年ベースボール・マガジン社を設立する池田恒雄さんに誘われて雑誌の相撲記者に転身、という多岐に渡る経歴を持つ小島さんだが、まだまだ先がある。時は昭和十八年、小島さん二十四歳の時に再び転機が訪れる。少し長くなるが、南方での“命拾い”体験も含めご紹介する。
この年の五月場所の十日目の午後三時、突如取り組みが中止され「連合艦隊司令長官山本五十六戦死」がアナウンスされ、満員の客席がウッと息を呑む。本当は四月十八日、ブーゲンビル島の上空で、撃墜されての戦死であったのだとあとできく。
七月、東京市が東京都となり、九月には空襲時にそなえて上野動物園で猛獣数頭が薬殺される。日独伊で同盟を結んでいたイタリアが、遂に無条件降伏する。
以上、その年、九月までの出来事だった。
そして九月二十三日、いよいよ我が身に火の粉がふりかかる。
「国内必勝勤労対策」というので、駅の出札係、理髪、外交員など十七職種に男子就業を禁止するという法令が出た。雑誌編集者なども当然この中に入る。私は「二十五歳未満の男」ときいていたが、記憶はあまり当てにならない。要するにクビである。いまどきの会社のリストラよりズーッと厳しい。博文館の大橋進一社長は、別れてゆく社員のために、柳橋の料亭で宴席をもうけてくれた。一龍斎貞山(六代目・桝井長四郎)が「寛永三馬術」を熱演した。
「ウチへおいでよ。井上君も一緒だからさ」
といってくれたのは寄稿家の一人であった野球評論家の大井廣介さんだった。福岡県の飯塚に麻生鉱業があり、大井さんは社長のいとこに当たる。炭坑なら徴用は来ない。九州もいいとこだよ、という誘いがあって、十月、飯塚へ行く。
申しわけないが、“自分史”をもう少しご辛抱していただく。
大井さんから、
「ウチは南方でも炭坑を開発している。そっちも男の花道だよ」
ときいていた。九州へゆくとき、作家の井上友一郎さんも一緒になった。井上さんも筆の仕事をあきらめて、炭鉱ゆきを決意したのであろう。私は吉隈炭坑、井上さんは別の鉱業所に配置され、私は南方行きを志願しておいた。
仕事は労務係。増産のポスター描きも引き受ける。南方派遣にはマレー語が必要だというので猛勉強中に、教育召集、赤紙が来る。八十日間と日を区切った令状だ。名古屋のお城の下の中部第八部隊。砲兵部隊であった。
折りから動員のピークのころで、私たちの兵舎にもドーッと応召兵が入ってきて、寝るところを占領しておいて、そのうちにサーッと出発してゆく。まだ寒いのに夏向きの軍装から南方往きを思わせた。その繰り返しのうちに、八十日がアッという間に過ぎ、帰された。おそらく南方に砲兵はお呼びでなかったのだろう。
帰されるのを待っていたかのように、社命で南方派遣が出る。任務先はインドネシアのセレベス島(現・スラウェシ島)。ボルネオ島の東にある「Kの字」形をした島で、麻生が開発した鉱業所がある、そこへ行けというのだ。
向こうでつけていた日記は、帰るときすべて取り上げられたので何もないが、記憶は残る。佐世保港から君川丸という徴用客船(約一万トン)に乗せられ、出航したのは昭和十九年七月十一日だった。
東支那海へ出ると、あちこちから船が集まり、たちまち大船団となる。航空母艦もいる。心強い。日本海軍は健在なりを思う。
健在が一瞬、恐怖に変わったのは七月十八日。命拾いしたあと、船中で見たガリ版刷りのニュースで、「東条内閣総辞職」を知った日であったから忘れ得ない。
命拾いとは、「そろそろバシー海峡だよ」と聞いたその日の夕刻、私はトイレのため甲板に上がり、用足しのついてに深呼吸をした。船内はすし詰めで息苦しい。トイレは甲板の脇に間に合わせのように設けられ、風の強い日など大も小も甲板に舞う。
「きょうは臭い日だね」が会話のひとつになっていた。
深呼吸の瞬間、「取り舵一杯!」の絶叫に続いて、船はギシギシ音を立てて左に廻る。その鼻っ先を、おそらく十メートルもないほどの距離を、魚雷が右に走ってゆく。間髪を入れずに、我がほうの艦載機が飛び、駆逐艦が走り、爆雷投下。幸い船団のどの船も無事であったようだ。火柱はどこにもない。
おそらく東條内閣崩壊の日を狙っての攻撃であったろう。ことらの防御もそれだけに万全であったのだろう。
大岡昇平の『俘虜記』によると、彼も同じころ、同じ海を渡っている。「サイパン陥落」の報をきいた三日後、バシー海峡で日進丸が魚雷を受け沈む。生存者約七百名を傍船が収容するとある。私たちよりひと足早い船団であったろう。
「南方へ死ににゆく」が実感となる。
このバシー海峡は、「魔の海峡」、「死の海峡」などと言われ、数多くの日本兵士の命を奪っている。小島さんが命拾いをした一ヶ月後の八月十九日には、“ヒ71船団”の「玉津丸」が米軍の潜水艦スペードフィッシュの魚雷を二発受けて沈没し、5000名近くの兵士が亡くなった。
レイテで戦死されたお父上の記録を残すために重松正一さんが開設されているHPの掲示板に、玉津丸のことを題材にしたテレビ番組が放送されるというニュースがあったので下記に引用させてもらいました。
「遺誌 独立歩兵第13聯隊 第3大隊レイテ戦史」
独歩第13聯隊聯隊本部及び第2大隊乗船の「ヒ71船団玉津丸」がバシー海峡で米潜水艦の魚雷攻撃で被弾海没、乗船将兵4,800名が瞬時にして戦死しました。一隻の輸送船海没では最大の悲惨悲劇と云われていますが、今般名古屋テレビにより 仮称「漂流兵士」タイトルで放送されます。
朝日テレビ系列の「テレメンタリー」というドキュメンタリー番組で放送、この番組は系列の24局が交代で制作するもので 未だ予定の段階ですが今のところ以下の日時で放送されます
大阪では朝日放送 9月11日(土)深夜25時30分~26時
『9月12日 早朝1時30分』
東京では 9月13日(月)深夜26時40分~27時10分
『9月14日 早朝2時40分』
上記以外の地域では この日時の前後になるかと思います
過去 3回取材に応じておりますが 只今関係者に広くお知らせしているところで どうぞ ご覧になってください
本書には、そのタイトルの通り、戦中・戦後の噺家さんや芸人さんのことが数多く書かれている。だから、もちろん“芸能史”としても貴重な本である。しかし、あらためて読み返してみて、小島さんが一番書きたかったことは、実は“自分史”と、それを通じた反戦の主張ではなかったかと思うのだ。
無防備ともいえるスシ詰め状態の日本船がバシー海峡を通過するたびに、米軍にことごとく沈没させられて多数の尊い命が失われた。こういった事実を知らないままに戦争のことを語ることは難しい。そういう戦争の酷さを知るきっかけを本書は与えてくれる。ミス・ワカナだって、ある意味では“戦死”と考えられなくもない。
小島さん自らの体験を含む戦争の歴史を語り残した本書は、“お笑い”を題材とする“戦史”としての異彩を放っていると思う。
