近松物と七世竹本住大夫—『桂吉坊がきく藝』より。
2014年 06月 01日
「桂吉坊がきく藝」(ちくま文庫)
昨日は、七世竹本住大夫が甲子園球児だったことを、本書から引用したのだが、他にも私には意外な発見があったので紹介したい。
吉坊 文楽では「曽根崎心中」ですとか「俊寛」、「心中天網島」など、近松門左衛門の作品がよく上演されますが、近松とほかの作者との違いはありますか?
住大夫 違います。僕は近松物は嫌いです、はっきり言うて。面白うおまへん。三好松洛やとか、竹田出雲やとか、そんな人のほうが面白いでんなあ。近松物というのは、読ましてもろうたら結構で。文章はきれいし、ようできてます。ところが、その意味を実現するのが非常に難しいのです。普通の浄瑠璃は七五調になってます。近松さんだけは、字余り、字足らずで、普通のように三味線も太夫もやってたら、合うてきまへん。
吉坊 リズムが違うんですね。
住大夫 一字多かったり、少なかったりするのでね。「曽根崎心中」にしても、突っ込んで、盛り上げていこうとすると、近松のにおいが消えますねん。淡々とやっていたらええのですが、それではお客さんがたよりなくなってくるし、それに登場人物が出てくるまでの枕文句が非常に長くて難しく、太夫、三味線の一番神経を使うところなのです。その間お客さんは退屈されるのです。そやから、非常にやりにくいのです。近松に出てくる男が嫌いでね、皆弱々しいて。女のほうがしっかりして皆賢いですなあ。
吉坊 心中物にしろ、どっちかというと女の人が男を引っ張っていってしまうところがありますね。
住大夫 その嫌いな近松物を語って、よく賞をもろうてますけどな(笑)。
文楽の大夫の人間国宝が、「近松物は嫌いです」とおっしゃるとは思わなかった。逆に、極めた人だからこその言葉なのだろうか。
本書の注に近松門左衛門は次のように説明されている。
17世紀後半から18世紀前半にかけて活躍した大阪の劇作家。歌舞伎から人形浄瑠璃の作者に転じた。時代物の「俊寛」「国性爺合戦」、世話物の「曽根崎心中」など知られる。
他の作家について。
18世紀の前半から半ばにかけて活躍した三好松洛・竹田出雲・並木千柳(宗輔)は合作で多くの人形浄瑠璃を書いた。「仮名手本忠臣蔵」「義経千本桜」「菅原伝授手習鑑」の三作は時代物浄瑠璃の傑作として知られ、今日まで上演頻度も高い。
時代的に、近松が他の作者達に、浄瑠璃伝承というバトンを渡していた、という感じだ。
私は近松にも浄瑠璃にも詳しくはないが、世話物よりも時代物のほうが好きかなぁ。
七世竹本住大夫の国立劇場の引退公演は、「恋女房染分手綱」だったが、この作品は近松の「丹波与作待夜の小室節」を、吉田冠子と三好松洛が改作したものらしい。これも近松物そのものではなかったことが選択の理由だったのだろうか。近松の字余りや字足らずが改作では直されている、ということなのだろうか。
私にとって文楽はまったくこれから勉強する教科(?)だが、近い将来、この住大夫の言葉の一割でも理解できればいいと思っている。
本書の七世竹本住大夫の章は、次の会話でお開きになっている。
吉坊 生まれ変わっても太夫をされたいですか?
住大夫 ええ指導者がいたはったらね。僕らは初めの稽古が肝心でね。筋の通った稽古をしてもらわんとね。ええ指導者がいたはったら太夫をやりたいです。男らしい、ええ仕事です。浄瑠璃はええもんでっせ。よう出来てまっせ。
こういった思いが強いからこそ、あの馬鹿市長の暴挙が住大夫の心を痛めさせたのであろう。
今後は、その“ええ指導者”として一年でも長く、後進の指導をしていただくことを祈るばかりだ。