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甲子園球児だった、七世竹本住大夫—『桂吉坊がきく藝』より。

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    「桂吉坊がきく藝」(ちくま文庫)

 『桂吉坊がきく藝』は、雑誌『諭座』に連載された内容を2009年に朝日新聞社から単行本、2013年にちくま文庫として再刊。

 吉坊の対談相手は、次の十人の名人達。

 小沢昭一、茂山千作、市川團十郎、竹本住大夫、立川談志、喜味こいし、宝生閑、坂田藤十郎、伊東四郎、そして桂米朝

 この顔ぶれを見て、あらためて、この本が非常に貴重であると思う。

 七世竹本住大夫の引退でこの本を思い出して再読した。

 中学まで野球をやっていた私には、住太夫という人を身近に感じることのでできた部分を引用したい。

吉坊  師匠のお父様が六世住大夫師匠。やっぱり子供のころから浄瑠璃の道に進もうと考えていらしゃったのですか?
住大夫 僕は幸せなことに幼稚園へ行くか行かんうちから、寄席から、芸妓はんの踊りや、歌舞伎に、新派から、映画、演劇、いろいろなものを見てましたなぁ。親父が文楽の人間やし、家が北新地でそういう環境にあって。そんな中で、ほんまは役者になりとうおました。でも僕、頭が大きいので、鬘が合いまへんのや。
吉坊  いやいや(笑)。 
住大夫 役者はやっぱり、暖簾がなかったらあかんし、暖簾というのは家柄で。それで、役者をあきらめてね、やっぱり浄瑠璃が好きで。僕はもう、文楽のまねごとばかりして遊んでいましたな。
 
 歌舞伎役者になりたかったが、暖簾(家柄)がないのであきらめた、というところは古今亭志ん朝と相通じるものを感じるなぁ。この後を続けよう。

吉坊  そうなんですか。
住大夫 それで子供時分から、文楽の楽屋に行けば皆が(本名が欣一なので)欣坊と言うてかわいがってくれはってね。ますます文楽の世界が好きになって、小学校4年の時から親父に浄瑠璃の稽古してもろうたんです。
 小学校卒業するときに、文楽に入らせてくれと言うたら、親父があかんと言うてね。当時は修業が厳しいし、お金はもうからへんし、うちの親父も若い時分は不遇やったから、そういう思いをさしたくなかったので、学校行けと言われましてな。それで旧制の中学に行きましてん。浪華商業学校、今の大阪体育大学浪商高校へ。
吉坊  スポーツで有名な学校ですよね。
住大夫 僕は野球が好きでね、子供の時分から。浪商のファンで、浪商に入って野球部の試験を受けたんです。その当時、野球部に入るのにも試験がおましてな。
 初めはキャッチボールで。これは通ったんですが、100メートル走らされた。それで落ちたのです。頭重うて、走れまへんねん(笑)。
 旧制中学を卒業するときに、文楽の太夫になりたいと親父に言うたら、あかん。というのは当時、第二次大戦中で、戦争が激しくなってきたから、今やったら工場へ取られるから学校へ行けと、言われましてな。
 学校へ行けって言われても、受験勉強してへんし。学校を二つすべって。今の近畿大学の前身の大阪専門学校、そこが2次募集してたんで法科を受けたら、通りましてん。英語が苦手で、なるべく英語の少ないところ、と法科を受けましてん。どうしても野球部に入りたくて、野球部に入部し、部員が20人ぐらいしかいまへん、戦争中でね。そのころ、全国高専大会予選が甲子園であって、全員甲子園へつれて行ってもらいました。僕は補欠のキャッチャーで、甲子園の土を踏んだ太夫は僕だけで、これは今でも自慢(笑)。

 私も中学時代はキャッチャーだったので、欣ちゃん(?)を身近に感じるのだ。

 予選とは言え、七世竹本住大夫が甲子園の土を踏んだ球児であったことは、間違いがない!

 大正13(1924)年生まれの住大夫は、二十歳の昭和19(1944)年に入隊し、12月に博多から船に乗って釜山に渡り、一週間列車を乗り継いで上海に行く。

住大夫 そして、上海港から出て行く船が皆やられるのでね。
吉坊  危いところろでしたね。
住大夫 上海で3カ月足止め食うて、それで蘇州に転属になり、そこで終戦を迎えました。ちょうど13カ月間兵隊に行って、そのころに栄養失調でもうフラフラで入院しました。軍医さんがよい人で、病院船で早くに鹿児島へ帰らせてもらいました。昭和21年の1月末でした。
 帰ってきて、親父がどないすんねんと。僕はどうしても文楽に入りたいと。親父もわかったと言うてくれまして、わしの手元に置いておいたら甘やかすというので、豊竹古靱太夫師匠、後の豊竹山城少掾師匠に預けられたんです。預けられましたけど、名だけの師匠で一ぺんも稽古してもろうたことはおまへん。
吉坊  そうなんですか。
住大夫 用事をするだけで、一ぺんも稽古してもろうたことはおまへん。けど、文楽というところは結構なとこで、自分がこの人と思うところに頼みに行ったら、みんな稽古してくれはる。竹本だろうが、豊竹だろうが、三味線弾きさんだろうが。それもただで、月謝は取りまへん。その代わり、家の用事から芝居の用事はするのです。
 稽古でえらい怒られましたなぁ。ああ、また向こうへ行ったら2、3時間怒られるわ、嫌やなと、ご飯ものどを通らんときもおました。それでも思い切って翌朝行きますと、また怒られまんねん。けど帰りしなにはいろいろな話をしてくださったり、文楽の話を聞いたり、ああ、来てよかったなと思うのです。それの繰り返しでんなぁ。

 芸の伝承の形、師匠と弟子との関係は、文楽も落語も似たものがあるようだ。具体的な技術指導は、他の師匠やその世界の先輩達の、無償の相互扶助としての稽古が主体。師匠はあくまで“背中”で弟子に何かを伝えるものなのだろうなぁ。

 人間国宝、七世竹本住大夫の強さの背景には、野球大好きな少年時代からの体力と、戦争体験を含め養われた精神力があるのだろう。あらためてなかなかニンな聞き手である吉坊の対談集を読んで、そう思った。
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by kogotokoubei | 2014-05-31 07:56 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Trackback | Comments(0)

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