師匠四代目小さんの教え—『芸談・食談・粋談』、『忘れえぬ落語家たち』より。
2014年 05月 15日

興津要・柳家小さん『芸談・食談・粋談』(中公文庫)
五代目柳家小さんと興津要との対談、いや会話が中心の本。昭和五十(1975)年に大和書房で発行されたものが、中公文庫で昨年の5月に再刊された。
この本については、読んですぐにブログに書いたので、ご興味のある方ご覧のほどを。
2013年6月1日のブログ
四代目小さん入門当時のことから。
興津 師匠は四代目に入門して、内弟子はしなかったんですね?
小さん そう。「内弟子にしてください」つってたのんだら、「内弟子はとらない」っていうんで、通いになった。そのうちに、師匠が、「内弟子にきてもいいよ」なんつったけど、こっちも、やっぱりおふくろの手つだいしたりなんかしなくちゃなんなかったんで、「いや、通いにしてもらいます」って、ずっと通いで・・・・・・。
興津 で、入門したころは、噺、いくつかおぼえてたわけですか?まあ、正式に稽古しないにしても・・・・・・。
小さん そう。聞きおぼえのもんだからね。それで<立花>の昼席で、はじめて(高座に)あがったとき、『清書無筆』—それも、金語楼さんの『清書無筆』をやった。かんがえてみりゃあ、金語楼さんは、あたまが禿げてるからね。それで、清書を書いてるの、なんとかで、「はげめ、はげめ」ってくすぐりがあるんでね。それと自分の禿があれだから、客は笑うわけだよね。噺にでてくるおやじは、あの金語楼独特の(と、下くつびるを突きだし)顔して、笑わせたわけだ。だから、そんなのおぼえてやったわけだけどもね。どうも・・・・・・お客は、ふたりっきりはいってないんだから(笑)。
興津 心ぼそい—。
小さん うーん。それを、楽屋裏へウワーッときて、うちの師匠からみんな聞いてて笑ってんだ(笑)。だから、ぽーっとしちゃってね。そのふたりの客の顔なんぞ、まるっきりわからなかったね。あがっちゃってね。その客よりも楽屋のほうを気にしたからね。笑ってるからね。「やっぱりまずくって笑ってんだね」とおもうから、なおあがっちゃう(笑)。
興津 そのころは、芸名はもう・・・・・・。
小さん いや、芸名は、全然あたしは知らない。それで、亡くなった小円朝さんが、「君、なんだってね、栗之助ってんだってね?」「いいえ、あたしは、クニ之助ってんじゃねえんで・・・・・・」「いや、書いてあるじゃないか」。そしたら、「栗之助」なんだ(笑)。
初高座が金語楼版の『清書無筆』だったとは。
その後の修行時代のこと。昨年の本書の記事の際にも引用した部分だが、あらためて紹介したい。
小さん はじめはね、もう、師匠の噺ばかり聞きおぼえでやってた。そうすると、死んだ玉井長之助の可楽さんなんかは、「いいよ、師匠のだけでいいよ。稽古にいかなくたっていいよ」なんていってた。こっちも、そのつもりで、師匠の噺ばかりをしゃべってた。そしたら、二つ目になってから、師匠が、「もう、おれの噺やっちゃいけない。おれの噺やったら、もう、名前とりあげるから・・・・・・」っていうんだよね。
興津 小きんのころ?
小さん ええ。それから、ほうぼう稽古にいきはじめてね。
興津 どんなとこへ?玉井長之助の可楽さんのとこなんかへ?
小さん そう、可楽さんとこが一番多いですよね。それから、あとは、いまの正蔵さんとこ。
興津 正蔵さんの馬楽時代?
小さん そうそう。あそこへもちょいといってる。やっぱり、なんといっても、可楽さんとこが一番多かった。それから、あとは、ぜん馬さんね。
興津 可楽さんってひとは、どんなふうに稽古つけるんです?
小さん 普通に稽古してくれてね・・・・・・。
興津 全部やっちゃうわけ?
小さん ええ、やる通りにず—っとやってくれる。それで、あとで、ちょいちょい、ちょいちょい、ここは、こういうふうにしゃべったほうがいい、ああいうふうにしゃべったほうがいい、なんていってくれてね。で、いまの馬楽といっしょに稽古にいったんだけど、馬楽のぶんまでおぼえちゃった。
本書の「注」によると、ぜん馬は五代目立川ぜん馬で、奇術師・曲芸師から落語家に転身した人らしい。高座にはほとんどあがらず、稽古台に専念した人とのこと。一緒に可楽に稽古をつけてもらったという馬楽は六代目蝶花楼馬楽で小さんの兄弟子。
四代目のことや修行時代のことを、同じ興津要著『忘れえぬ落語家たち』から補足したい。

興津要_忘れえぬ落語家たち
本著は、かつて旺文社文庫で発行された3冊の著作から昭和の落語家に関する内容を中心に再編集され、2008年に河出文庫から発行されたもの。
「四代目柳家小さん」の章からの引用。
ます、五代目の師匠の回想から。
歌笑がバリバリで売れている時分でね。みんな、歌笑のあとに(高座へ)あがるのを、いやがるんだよ。わたしだって、いやだった。歌笑のいくつかあとへあがっても、お客(の調子)はおかしいんだものね。うちの師匠が、「あれは、いかものだ。おれの前で出しておけばいい」なんて言ってね。あたしの真打披露のときだったか、歌笑が、ワーワーひっかきまわしたあとへ師匠が出ていって、「付き馬」だったかなあ、お客をバッとおさえて、おりて来た。そうすると、浪曲の林伯猿が楽屋へはいって来てね、「おまえの師匠は、やっぱり名人だなあ」って言ったことがありますよ。
歌笑についても書いたことがあるのでご興味のある方はご覧のほどを。2009年5月28日のブログ
その時分、ラジオの普及と相まって、歌笑は「爆笑王」「笑いの水爆」と呼ばれたほどの人気を誇っていた。歌笑が客席を笑いの渦にした後に、その空気をおさえて客に聴かせることのできた四代目小さん、なるほど名人だったのだろう。
そんな四代目に惚れ込んでいた栗之助に師匠が命じたことがあった。。
五代目が栗之助を称した前座時代には、四代目の落語ばかり演っていた。
すると、「小さんに生き写しの影法師みたいな弟子がいる」ということが評判になった。
これが四代目の耳にもはいったらしく、栗之助が、二つ目に昇進して小きんと改めたさい、
「おまえ、おれの咄をやちゃいけない。おれの咄をやると、もう、小きんの名前をとりあげるぞ」と釘を刺した。
師匠の物真似ばかりやっていては大成しないという意味だったわけで、五代目は、ほうぼうの師匠のところへ稽古を受けに行くようになったが、とくに七代目三笑亭可楽のもとへはもっとも多く通った。
七代目可楽というひとは、三代目小さんを尊敬して、若いときには<小さんの影法師>と言われたくらいだから、三代目の咄は数多く持ちネタにしていた。
三代目小さんは、昭和五年に亡くなり、五代目小さんは、昭和八年に四代目に入門したにもかかわらず、「猫久」「大工しらべ」「宿屋の富」「高砂や」など、三代目の咄を得意にしているのも、可楽の稽古をい受けたおかげだった。
四代目の<束縛せぬ方針>によって、三代目の咄が五代目に受け継がれたのだから世のなかはおもしろい。
弟子の個性を尊重した四代目は、自分の個性も熟知していて、弟子には、自分にない佳さを他の師匠から吸収させた。
「おまえの芸には、ずうずうしさ(著者注、度胸のよさの意)がない、色気がない。だから、金馬(三代目)のとこへいって、そのずうずうしさをおぼえて、文楽のとこへいって、その色気をおぼえて来い」と五代目に言い、それを実行したことで五代目は成長したのだった。
三代目→四代目→五代目の小さんは、このように三代目→七代目可楽→五代目、などの迂回経路を含めて繋がっているわけだ。他の一門の先輩から自分の師匠のネタを教わる、ということは、ある意味では非常に優れた伝承の形式なのかもしれない。
ある程度はこの構造が今日の落語界にも当てはまるのだろう。師匠が一門よりも他の門下の噺家に熱心に稽古をつける、ということがあの世界では常識のようだから。
四代目小さんが栗之助の将来を案じ、自分の真似を禁じて他流試合をさせたからこそ磨かれた五代目小さんの芸。今後もぜひ一門の身内のみならず、外にも伝え続けて欲しいと思う。
