柳家三三にとっての『粗忽の釘』とは—「SWITCH」3月号より。
2014年 05月 10日
2014年2月22日のブログ
表紙写真は同誌のサイトから借用。「スイッチ・パブリッシング」サイトの該当ページ

「Switch」2014年3月号
この本の三三の章は、まさに『粗忽の釘』が主題と言ってよい内容。こんなことが書かれている。
『粗忽の釘』という噺を十五年前に兄弟子に教わったんですよ。大好きな噺で、うちの師匠のも本当におかしい。でも、僕のは全く駄目でした。きちんと喋り、きちんと演じ、きちんと伝えることが、きちんとした落語だってずっと思っていたからなのかもしれない。そうすると、慌て者がとんちんかんなことをするはずが、この人はこの先こう間違わなくちゃって、段取りになっちゃうんです。それが、去年の秋ぐらいからかな、『粗忽の釘』をやるのがとっても楽しくなった。お客さんが、またかよって言うぐらいやってるんです。
きっかけはそのひと月ほど前、師匠がよみうりホールの独演会で『粗忽の釘』をやった時にオチの登場人物の台詞を言い間違えたんです。師匠は「いいんだよ、あいつは慌て者だから別に何言ったって。俺狙って言ったわけじゃないし、たまたまそう間違えて言っちゃったんだから、いいじゃねえか」って。この噺は、出だしから慌て者の主人公がどうなろうと、何を言おうと、別に構わない。逆に、周りの人が、「何言ってんの」って真剣にリアクションを取れば、それでいいんじゃないって思うようになれたんですよ。そうしたら、本当にお客さんが笑ってくれるようになった。
去年の秋ぐらいから頻繁にかけていたようだが、私は三三のおっかけでもないので、たぶん初めて聴いたはず。
師匠小三治の言い間違いは、同じ頁にあるネタの解説部分に明かされている。本来は「明日からここに箒を掛けに来なくちゃいけない」と言うべきサゲを、「明日からここに釘を掛けに来なくちゃいけない」と言ったらしい。
小三治は、箒を釘に言い間違えるのを、“いいんだよ、あいつは慌て者だから別に何言ったって”と意に介さない。“きちんと”した落語を目指すばかりに、登場人物になりきることのできなかった三三にとって、この師匠の言葉は強い衝撃を与えたのだろう。
楽しく演じることのできる高座は、自ずと客席にもその楽しさが伝わるものだ。しかし、三三は浮かれてばかりはいない。先ほどの文章の後に、こう続いている。
でもね、一時は自然に喋れていたのに、もうひとこと加えたらもっとウケるかもって、また悪い癖が出る。で、もう客席の反応を気にしながら喋るようになり始めている。こんなに楽しくて、お客さんも喜んでくれる噺だけど、やらなくなる日も近いのかなって。手に入ったと思ったら、すり抜けてって感じですね。
以前にうまくいかなかった噺を、数年ほっておいたら出来るようになることがある。でもそうすると、今までやってきたネタがいくつかどこでやってもダメになっちゃう。一個手に入れたら、三個失って・・・・・・。そんなことの繰り返しですよ。
一昨日、三三が、まだ『粗忽の釘』をかけてくれたことを幸運と思わなくてはならないのだろう。
また、慌て者の主人公が、隣家で漏らした「これも夫婦の一つの形・・・幸せです」の言葉は、決してウケを狙った無理なクスグリではなく、登場人物の自然な心情の吐露に感じた。だから、このネタはしばらく三三の元に留まり続けそうな気がする。そのためにどんな噺が去って行くのかは、私などが分かりようもない。もしかすると人情噺のいくつかが、今は三三の身近には存在しなくなっているのかもしれない。しかし、それも、いつかは戻ってくるのだろう。
この本をあらためて読んで、噺家さんもいろいろと大変なのだと、つくづく思った次第である。
