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噺の話

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江戸切絵図の版元のこと、など。

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大石慎三郎著『大江戸史話』(中公文庫)
(写真はアマゾンから借用。古書店でしか入手できないのでリンクは「日本の古本屋」の同書のページです)

 江戸切絵図のことを何度か書いてきたが、切絵図が出来た背景などをご紹介。

 大石慎三郎著『大江戸史話』は中公文庫で平成4(1992)年の初版発行。「江戸の絵地図と案内書」の章から。

 弘化三年(1846)九月というから、わが国周辺にようやく諸外国船の来航が激しくなり、幕府・諸藩ともにその対応におおわらわになっていたころのことである。“異国船打ち払い令”がでたのが二十年ほど前の文政八年(1825)のことであり、それが実行不能だとわかって撤回されたのが四年前のことであるので、ともかく世をあげて騒然となっていたころのことである。江戸麹町十丁目に店をかまえる荒物屋五平は、来る日も来る日も「旗本何某何兵衛のお屋敷はどう行けば良いのでしょう」と尋ねて来る、田舎風の侍たちの対応にうんざりしていた。今日も朝からもう何人来たことか、全くもう商売もあがったりである。いかに荒物屋とはいえ、五平は“生き馬の目を抜く”といわれた江戸の職人である。番町の絵地図をつくって売りだせば、儲かるにちがいないと思いつくのにそんなに時間はかからなかった。
 調べてみると、今から九十年ほど前に吉文字屋という本屋から、番町の町絵図が出版されたことがわかった。しかしいくら探しても子孫はわからなかった。が、その過程で当時の版木を茂兵衛という者が買い取ったことがわかった。早速問い合わせたところ、もう当時から大分年数もたって状況も大きく変わっているので、お宅で新しいのを出されても一向にかまいません、とのことであった。


 この吉文字屋による宝暦5(1755)年の番町界隈の切絵図が、他の版元の図とともに、東京都教育委員会のサイトの、一昨年東京都中央図書館で開催された切絵図の企画展のページに掲載されている。下記がその絵図である。
東京都教育委員会サイトの該当ページ

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 『大江戸史話』の続きをご紹介。
 それで五平は、伊予奉書紙二枚継の紙に黒・青・黄・橙の四色摺で番町の地図をすりあげ、それを一枚銀一匁で売り出したいと幕府に願いでた。幸いに許可がおりたので印刷して売りだしたところ、それが売りに売れて止まらなかったので、今度は「永田町絵図」「駿河台小川町図」「日本橋並神田辺之図」「日本橋並内神田辺図」「鎧渡柳原両国箱崎辺図」「日本橋南芝口辺地図」と次から次へと出してゆき、ついに三十八図に及んだ。これが近江屋五平版と呼ぶ江戸切絵図であるが、これがあまりに大当たりしたので、それを見た同町六丁目に住む絵草紙屋の清七が、素人の荒物屋がやってもあれだけ大儲けするのだから、本業の自分がだまっているわけにはゆかぬ、と“江戸切絵図”市場に参入した。これが尾張屋清七版である。
 ここに近江屋・尾張屋という両版元による“江戸切絵図”の黄金時代が出現するのだが、近江屋版が本来同家に道を聞きに来た人たちに道順を教える目的でだしたのだから、全体が地味で町内案内図的であるのにたいし、尾張屋版は絵草紙屋がだしたのだから、色のだしかたも上手で観光案内的な華麗さをもっていた。


 江戸時代、金一両=銀六十匁(もんめ)=銭四貫、なので、一両を120,000円とすると、120,000÷60で銀一匁が2,000円となる。切絵図一枚、2,000円が高いかどうか。番町の旗本屋敷はどこも同じような造りで表札などはない。江戸の政治の実務を担当する旗本の家には、数多くの人がさまざまな用で訪ねただろうから、一家に一枚あって重宝することを考えると買う側にとっても高すぎる値段ではなかろう。寄席の木戸銭とほぼ同じ位と言える。

 近江屋の屋号の別名は五平の名の字を替えて「近吾堂」と言われている。ちなみに尾張屋は別名、金鱗堂。切絵図の版元は、他に平野屋、須原屋などもあるが、その対象地域の多さや今日の歴史的な価値などを考えると、近吾堂と金鱗堂が二大版元と言えそうだ。

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池波正太郎著『江戸切絵図散歩』(新潮文庫)

 以前紹介した(2014年3月29日のブログ)池波正太郎の『江戸切絵図散歩』(新潮文庫)から引用。「第一章 上野界隈」の最初のあたりに、こう書かれている。

 私が、はじめて切絵図を買いもとめたのは昭和三十年の秋だ。そのころの私は、まだ小説を書いてはいず、芝居の脚本・演出をしており、折柄(おりから)、名古屋の御園座へ出演している新国劇の稽古に行き、近くの古書店で買った。
 嘉永二年(西暦1849年)、麹町十丁目の近吾堂が蔵板(ぞうはん)したもので、保存もよく、桐箱に三十余の切絵図が入っているのを見ると、衝動的に買ってしまった。
 当時でも古地図は高価なもので、保存もよかった所為(せい)か、切絵図一揃が、私の脚本料より高かったことをおぼえている。その日、ちょうど脚本料を手にしていなかったら、おそらく買わなかったろう。
 その後、小説を書きはじめ、数種の古地図や切絵図を入手している私だが、このときの切絵図は、いまも使用している。木版の刷りも、堅牢な紙も、びくともしていない。手許において、一日に何度となく手に取る、この切絵図を見るとき、私は、江戸の文化を想わずにはいられない。

 池波正太郎が長らく愛用した近吾堂の番町界隈の切絵図を、先ほどの東京都教育委員会ののサイトから拝借。

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 なんとも密集した地域であることか。次に紹介する尾張屋版と向きが違っており、吉文字屋版と同様で上が東、下が西、右が南で左が北方角となっている。

 これまでこのブログで紹介してきた切絵図は、ほとんど尾張屋版である。

 絵草子屋だった尾張屋版の色合いが鮮やかなので、切絵図の本ではほとんど尾張屋版が使われているが、池波正太郎が初めて買って長らく愛用したという近吾堂版も味わいが深そうだ。ただし、池波正太郎の本に掲載されている切絵図も、その数では尾張屋版の方が圧倒的に多い。カラー図版の場合は、やはり色合いがあって分かりやすいということは間違いない。

 江戸切絵図誕生の元となった、番町。名前の由来は、旗本のうち、将軍を直接警護するものを大番組と呼び、その大番組の住所があったことから番町と呼ばれた。

「いい東京」サイトから尾張屋の番町界隈の絵図をご紹介。「いい東京」サイトの該当ページ

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 このように同じような家並みが密集し、表札もなければ、訪問者は苦労したはずだ。川柳にも、「番町にいて番町知らず」「問わぬは恥ぞ番町の道」などがある。

 この図の下(南)の右(東)端に半蔵(御)門がある。半蔵門から左(西)に向かって麹町一丁目から十丁目と地名がふられているのが確認できる。近江屋五平の住まいは十丁目。その少し西には四ツ谷御門(四ツ谷見附)-現在の四谷駅界隈-となるので、五平の荒物屋が、見附から番町にやって来た人々にとって、まさに道案内を聞く絶好の場所にあったわけだ。そういった人々から道や旗本屋敷の場所を尋ねられる煩わしさを、切絵図の商売に結びつけたところが、なんとも憎い。

 江戸には参勤交代でやって来る田舎侍も多かった。彼等に加えて、日々の商いや、付け届けのために商人が通うことも頻繁だっただろう。そういった人々にとって切絵図は、番町の旗本屋敷を訪ねるには必須だったのではなかろうか。

 そして、その江戸切絵図、今日では時代小説家にとって必須となり、江戸好きや落語好きにとっても散策の楽しいお供となっている。

 場所にもよるが、まだ江戸切絵図の名残りを東京に見出して楽しむことはできる。今後、2020年の東京五輪のための、建設という名の破壊で、切絵図の面影が今以上に消え去らないことを祈るばかりだ。
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by kogotokoubei | 2014-05-07 00:53 | 江戸関連 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛