命日に、色川武大が怖かったものは何だったのかを振り返る。
2014年 04月 10日
色川武大著『寄席放浪記』(河出文庫)
昭和4年生まれである。
昭和61(1986)年に廣済堂出版から初版が発行され、ちくま文庫で再刊された『寄席放浪記』の冒頭を、少しだけ引用。
私は牛込矢来町の生まれ育ちで、私の子供の頃は近くの神楽坂がまだけっこう賑わっていて、映画館が三つ四つ、寄席も小さいのまでいれると二つ三つあった。父親が退役軍人で閑があったせいか寄席好きでね、だから最初は親に連れられて行ったんだろうと思う。
ところがどうも学校というものに馴染めなくて、サボって街の中をうろついていたので、映画や寄席ばかりでなく、浅草のレビュー小屋や東京都内に点々とある小芝居まで、よく見ていなた。十歳ぐらいの頃から約五十年ぐらい、たっぷり見ているから、本人は何の芸もないけれども、見る眼だけは肥えてるんだな。
子供のときの夢は、寄席の席亭になることだった。
見る眼の肥えた人は、若手の才能もしっかり見抜いていた。先日、浅草見番で見事な高座を楽しませてくれた五街道雲助について次のように書かれている。
試験制度第一号の真打になった五街道雲助は私の若い友人の一人だが、私はこの名前をこよなく気に入っている。落語家の名としては大きな実績はないかもしれないが、語感が充分にクラシックだし、五街道とくるからスケールも大きいし、そのうえ不良ッぽくて愛嬌がある。このへんは人によって感じ方がちがうかもしれないが、私の別名阿佐田哲也も、テツヤで遊んでばかりいるというシャレの産物で、しかつめらしい名前よりはよほどよろしい。
「不道徳を名前に背負ってるのは、阿佐田哲也と五街道雲助と、日本じゅうで二人きりだぜ。変えないでこの名前で大看板になってくれよ」
と私はいうのだが、雲助自身はやっぱり、ゆくゆくは大きい名前を継ぎたいらしい。
へぇ、真打昇進当時の雲助は、“ゆくゆくは大きい名前”を継ぎたいと思っていたのか・・・・・・。師匠の名前、あるいは大師匠か。
結果として、雲助は、色川武大の希望通りに、不道徳な名(?)で大看板になりつつある。
色川武大と雲助の接点は、雲助が世話になった居酒屋の「かいば屋」である。このことは、雲助の本について書いた時に紹介したので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2013年11月21日のブログ
伊集院静の『いねむり先生』がNHK BSでドラマ化されたのを観て、読後長らく記事に書くことをためらっていた原作について書いた。
2014年3月3日のブログ
その時、先生(色川武大)とサブロー(伊集院静)の二人で競輪場への“旅打ち”に行く途中の電車の中で、突然先生が発作で震えだす場面があるのだが、ドラマでは“丸い”蜜柑を見て、という設定にしていたことを、原作を引用し、“尖ったもの”が怖いため富士山を見て震えだしたのだ、と小言を書いた。
色川武大著『怪しい来客簿』(文春文庫)
『怪しい来客簿』は最近読んだ本である。初版は、雑誌『話の特集』に連載された内容を同社が昭和52年に発行。亡くなられた平成元年の10月に文春文庫で再刊された。
この本は、空襲後に見た死体を含む悲惨な光景や、その後の怪奇現象を書いた「空襲のあと」から始まる。泉鏡花文学賞受賞作である。
実際は何が怖いのかご本人が書いているので「門の前の青春」の章から引用したい。
私が関東平野で生まれ育ったせいであろうか、地面というものは平らなものだと思ってしまっているようなところがある。まず、地面は平らであって、人はその平らなところに両足で立っているのだと。
したがって、山というものが、怖い。どうしてああなのか、納得がいかない。どの山であろうがいずれも異常であり、凶相に見える。海も不可解である。雲も怖い。だから私は花鳥風月が愛せない。
山脈のように、横にうねうねと長くつながっているものは、まだいくらか眼に慣れるところがある。異常もあそこまでいくと一種の平凡に戻り、こちらもつい寛大になって、いっそそれならば大地全体が山脈と化してせりあがってもよろしいというような気分になる。眼を覆ってしまうのは、にゅっとそびえた個的な山である。
富士山が怖い。このくらい異形なものは他にちょっと考えつかない。今でも新幹線で山裾近くをとおるたびに、どうしてこんな魔境のようなところに平気で人が住む気になるのだろうかと思う。あれはもうあの辺の才能を無駄に吸いとっているのであり、放置しておけば、界隈からすぐれたものが生まれる余地はない。即刻、切り崩しかき均(なら)してしまうがよろしい。
このように、恐怖の対象をご本人が告白しているにもかかわらず、先日のドラマがなぜ、“丸い”蜜柑を見て震えさせたのかが、まったくもって不可思議である。
『いねむり先生』の“尖ったもの”という設定も、近くはあるが、正確ではなかった言える。
このあと、夢に関して次のような文章がある。
私にとって、山が出てくるだけで、すでにして異形の夢なのであるが、これらは幼少時の夢ではない。近年のものである。そうして何故生家の周辺に山が出てくるか、その理由の一端は想像がつかぬでもない。
これらは大戦争のあとの風景なのである。自分は平らなところに居るとあさはかにきめていたのであるが、丸裸になった東京を眺めると少しも平らではなかった。むしろ生家の周辺は山や谷の連続で、何故かそれらを見渡すたびにショックを感じた。そのせいもあるかと思われる。
生家を飛びだしていた当時、寝場所に窮すると、生家のすぐ近所にある神社の横手の石碑のかげで犬のようにうずくまって寝た。そこが崖の上で、谷あいをはさんで音羽台や目白台が見渡せた。
私ばかりでなく、見渡す限りの地面が黒ずんでおり、まともな人家はなく、あっても土の色に呑まれている感じだった。そうして、近くはあったが隆起は存外にとげとげしくて私の眼にはなじまなかった。
私が寝ていた石台の上の大きな石碑は、ある日注視してみると、日清戦役で戦死した氏子の名前が彫りつけてあるものであった。
思い出した。伊集院静の『いねむり先生』の中に、神楽坂近くの公園で“犬のようにうずくまっている”先生の描写があった。
尖った山への恐れは、戦争体験と深層でつながっていたのだ。
平らだと思っていた生家周辺の景色が、空襲によって丸裸になってみると、実は山や谷のつながる異形であった、ということを連想させるがための、山を見ての震えだったのだろう。
NHKのドラマ制作陣が、同じような恐れを持つ人へ配慮して、恐怖の対象を尖ったものから丸いものに替えた、ということも考えられないではない。しかし、富士山を見て震えだした、その恐怖感を誘発する深層心理を考えるならば、たとえドラマにおいても変更が許されない重要な要素ではなかろうか。
色川武大が亡くなった年齢と私もほぼ同じになった。やはりその人生の重さ軽さが表情に現われるもので、あの重厚な味のある色川武大の表情と、鏡に映る私の貧相な姿があまりにも違うことは、どうしようもない・・・・・・。ただ、おかげさまで、山や尖ったものを見て恐怖感をおぼえることはない。
あれっ、“雲”も怖いものの一つに挙げているのだが・・・雲助は可愛かったのだなぁ^^
これからは雲助の高座を聴くたびに、浅草の居酒屋やゴールデン街で、色川武大と一緒にいる若き日の彼の姿を想像することになりそうだ。
麻雀はやったのかな。
当代馬生の襲名披露の時に総領弟子の伯楽が、先代の未亡人の強い意向で襲名が決まったと語っていて、内部では色々あったんだなと思いました。
本来なら今松か雲助だったと思うのですが。
石井徹也さんの本を読んでも、彼等は対談で笑って誤魔化して真意は分かりませんでしたが、伯楽が辞退したら、今松か雲助でしょうね。
実力なら雲助、入門時期なら今松、という捻じれがお内儀さんを悩ませたのかなぇ。