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噺の話

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濠を埋め高速を架け、地名を奪ってきた歴史—『江戸切絵図散歩』より。

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池波正太郎著『江戸切絵図散歩』(新潮文庫)

 今日も、この本から。「第八章 皇居周辺(二)」より。

 江戸城の大名小路とよばれる切絵図は、つまり、皇居前広場のことで、この広場を埋めつくしている大名屋敷は、何らかのかたちで、幕府の要職についているか、将軍家と関係の深い人たちのものといってよい。
 慶応元年の切絵図をひろげて見ると、桜田門を入った右側、坂下門の近くに歩兵屯所がある。
 幕末も押しつまり、時代の様相が切迫して来たことが、この一枚にも看てとれる。
 歩兵屯所は、大手門の前にも設けられている。



 本書に掲載されているものと同じ切絵図を、昨日と同じ「いい東京」のサイトより拝借。
「いい東京」サイトの該当ページ

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 二つの歩兵屯所の場所が確認できる。

 さて、この図には“二つ”の奉行所も存在する。

 切絵図の下方には、呉服橋御門内に北町奉行所、数寄屋橋御門内に南町奉行所がある。
 評定所、伝奏屋敷など、幕府にとって重要な建物も、この大名小路の中に入っている。
 南町奉行所の所在地が旧朝日新聞社あたりだったことをおもえば、いかに大名小路が宏大なものだったか、わかるだろう。


 切絵図の南端、中央から少し右よりに北町奉行所があって、場所は現在のJR東京駅あたり。絵図の南端の左側にある南町奉行所は、朝日新聞社の移転後は、有楽町イトシアとマリオンのあたりになる。

 南町奉行所や大名屋敷の痕跡は、有楽町駅前再開発のための地下発掘で多量に発見された。

 有楽町イトシアのサイトに次のように書かれている。

「有楽町イトシア」サイトの該当ページ

大岡裁きで有名な南町奉行所の遺跡が発掘

 本再開発事業計画にあたって、2004年に千代田区教育委員会が遺跡確認の試掘調査を行い、その結果南町奉行所などの遺跡の存在が確認され、 2005年4月より発掘調査を本格的に実施しました。
 発掘調査では、江戸時代はじめの大名屋敷跡や1707年以降この地に置かれた南町奉行所跡が発見され、「堀」「信濃」(飯田藩)「井伊」(彦根藩)「大岡」 といった調査地点に屋敷を構えた大名の名が書かれた荷札など、屋敷内での生活を彷彿とする多数の遺物が出土しました。特に南町奉行所の遺跡は、屋敷の表門から 裁判を執行する役所部分に該当し、石組の溝や井戸、土蔵の跡などが発見され、書物所の穴倉(地下室)から「大岡越前守様御屋敷」と書かれた札など貴重な資料が出土しました。


 発掘されたのは、大名小路という“江戸の墓石”の数々、ということだろうか。

 池波正太郎は、先ほどの文章の後に、次のように続けている。

 いまは、隙間もなく、ビルディングに埋めつくされていて、旧江戸城の外堀内は各種のビル群に占領されてしまった。
 それでも、外濠のかたちは、太平洋戦争が終わったころまで、どうにか残っていたのである。
 それが、例のごとく、意味もなく埋めたてられ、そのビルの上が高速道路となり、外濠に架けられた多くの橋が消えた。現在の東京の道は、住民のためではなく、すべて車輪のために存在するといってよいのだ。
 常盤橋、呉服橋、八重洲橋、鍛冶橋、有楽橋、数奇屋橋、山下橋などがそれで、この外濠と各橋の消滅は、皇居前面の町の様相を全く変えてしまった。
 橋や川ばかりではなく、むかしの町名も消えてしまった。戦後の町名改変の流行は、昭和十年代まで辛うじて残っていた町名を、ほとんど抹殺してしまったのだ。



 この本は、池波正太郎が切絵図を元に東京を巡る優雅な散歩の記録などではなく、開発という名の破壊で失われた江戸への鎮魂歌であるように思いながら読んだ。

 そして、ほぼ四半世紀前に本書が書かれてからも、“木端役人”や“悪徳商人”などによって、江戸の名残はことごとく消され続けている。

 次の東京五輪のために、その悪行がもっと加速されるかもしれない。悪代官と越後屋の会話が、再開発という名のもとで今も交されているだろう。残念ながら、密談の場に鬼平が乗り込んで捕まえてくれそうにはない。
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by kogotokoubei | 2014-03-30 07:01 | 今週の一冊、あるいは二冊。 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


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