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上方落語界分裂危機回避、しかし、暗雲再び。

昨日、昭和二十三年の浪花三友派発足による上方落語界分裂の危機が回避されたことを書いたが、当時の様子について、もう少し紹介したい。

 五代目笑福亭松鶴と二代目桂春団冶が、なぜジャンケンをしていたかも“謎”のままだったので。

上方落語界分裂危機回避、しかし、暗雲再び。_e0337777_11113460.jpg

*朝日カルチャーブックスの一冊として、昭和57(1982)年、大阪書籍より発行

 露乃五郎、と書いていた頃の著作『上方落語夜話』(大阪書籍、昭和57年発行)から引用。

 昭和二十四年、春の曙と供に、松鶴、春団冶の和解をのぞむ声が高まり、時をおなじゅうして留男が二人もあらわれました。
 一は京都富貴の金主方小沢富次郎氏であり、一は、このところ若手落語家たちめんどうを何くれとなく親身になってみてくれる、南区畳屋町、料理旅館「暫」の主人中田昌義でした。
 小沢富次郎氏は仲人役として東京から三遊亭金馬をまねき、金馬、松鶴、春団冶を京都の料亭に寄せて話をし、手をしめて、陽春公演として松鶴、春団冶が十日間一座して、中入りのトリと、トリを、一日交替でつとめる。以後は十日交替で富貴のトリをつとめることになりました。証人が金馬で、松鶴、春団冶は無邪気にジャンケンをして、お互いのトリの日をきめたと申します。
 一方中田昌義氏は、講談の旭堂南陵を仲介に話をすすめ、この機に演芸陣の大同団結をうながすべく漫才界にも呼びかけて、関西演芸協会結成のはこびとなったのでした。
 昭和二十四年四月二十三日、役員は、会長旭堂南陵、副会長笑福亭松鶴、幹事芦乃家雁玉、林田十郎、桂春団冶、花月亭九里丸、顧問に中田昌義、会員は三十六名でした。
 戎橋松竹や京都の富貴へは東京から、正蔵、志ん生、小さん治(現小さん)、金馬(先代)たちが相ついで来演し、これをむかえて、春団冶、松鶴が万丈の気をはき、米団冶は有志の後援を得て、落語会を所々に開く、正に上方落語の花は明日にも咲き匂うかと思われましたが、黒い魔手はすぐ近くまで忍びよっていたのでした。
 昭和二十五年七月二十二日、魔の手は五代目笑福亭松鶴を黄泉へつれ去り、続いて二十六年九月二十三日には立花家花橘を、十月二十三日には四代目桂米団冶を・・・・・・。


 浪花三友派発足による分裂の危機は、さまざまな人の努力で回避されたが、その後、戦前から上方落語界を支えてきた重要人物が相次いで亡くなった。

 上記の中で、あまり知られていないのが立花家花橘だろう。『古今東西落語家事典』から、ご紹介。

 二代目である。明治十七年徳島の生まれで、はじめは素人仁輪加に入っていたが、初代笑福亭福松に入門し、福二。その後、師匠は五代目林家正三、二代目桂文団冶を替え、上京して約十年間三遊派に身をおいて修業。大正元年十月に女ながらも演芸界で重きをなしていた立花家橘之助の一門となって、二代目立花家花橘を襲名。師匠の橘之助は、山田五十鈴が『たぬき』で演じた浮世節の名人。榎本滋民作のこの舞台には志ん朝も出演していた。山田五十鈴が旅立った時に書いたので、ご興味のある方はご覧のほどを。
2012年7月11日のブログ

 初代花橘は若くして亡くなった女性の音曲師だったので、襲名には周囲から反対もあったようだ。帰阪して三友派に所属。一時は吉本の所属となったが、のち吉本を離れ、戦後まで活躍した人で、明朗な口調と大きな声で評判が高く、ネタも百数十種と上方随一と言われた人。レコードの発売数は初代春団冶の次いで二位とのこと。『七段目』『お玉牛』『蛸芝居』などの芝居がかった噺うぃ得意とし、一席終わったのちに『夕暮』を弾かせてさまざまに珍妙なポーズをとって踊る『文人踊り』は、噺家の踊りとして一種の徘画的な味わいがあったと言われる。
 戦後の戎橋松竹時代は、自身の高座のかたわら後進の指導にも熱心で、五代目文枝や三代目春団冶も数多くのネタを稽古してもらったらしい。五代目松鶴や四代目米団冶は、名も今に残っていて語られる機会も多いが、花橘は、当時の人気の高さや伝統の継承への貢献を考えると、もう少し知られても良い人だと思う。

 戦前から上方落語界を支えていた名人上手が相次いで亡くなる中でも、若手は桂文枝の命日に紹介したように奮闘していた。しかし、昭和二十六年の三月三十一日に京都富貴千秋楽の夜席をすませた直後、二代目春団冶が心臓弁膜症で入院。五月になんとか健康をとりもどして退院した後、秋頃から開設される民間放送の出演依頼などの仕事の相談がもちこまれるようになる。
 昭和二十六年九月新日本放送(現毎日放送)開局、同じく十一月朝日放送開局。

 春団治は朝日放送と同時に「春団冶十三夜」に出演し、その大衆への浸透力にあらためて目を開き、民間放送を通じて若手の落語家を売り出し、よって上方落語を大衆演芸の王座へもどそうとはかりました。
 新二本放送に働きかけて“演芸蚤の市”という番組に新旧の落語家を採用ときまった時には、自らその人選、演目の選択を買って出るほどの意気込みをみせましたが、その第一回録音に立ち会った数日後、二十七年十二月三十一日、またもや心臓弁膜症の発作におそわれ、除夜の鐘をききながら阪大へ入院の車を急がせなければなりませんでした。


 二代目春団冶の傍にいた著者でなければ書けない内容だろう。大変な大晦日になってしまった。

 さて、この後はどうなるのか・・・は次回に譲りたい。
Commented by shintaromaeda at 2022-11-02 19:50
初めまして。先日亡くなった三遊亭円楽さんが落語の東西交流をしていたという話がありましたので、「落語 東西」と打ち込んだところ「落語 東西 分裂」という言葉が自動的に出てきたので検索したところこちらの記事を発見しました。江戸落語は昭和50年代(1975〜84)に分裂が起こり、現在も複数の団体があることを知っていましたが、上方落語は分裂を免れて今日に至ることを知りました。円楽さんは将来的に上方と江戸双方の落語協会を統合して一つの大きな落語協会にしたいとコメントしていたとのことですが(東西交流はそれを前提としたものだそうです)、いかがお考えでしょうか?よろしければ教えてください。
Commented by kogotokoubei at 2022-11-03 06:39
>shintaromaedaさんへ

コメントありがとうございます。
六代目円楽の思いは分からないではありませんが、ある意味では、不遜な発言とも言えます。
東西、それぞれにさまざまな歴史の末に今の姿があり、違いもあります。
真打制度のある東と、それがない西とか、道具のこととか。
東に限らず西も、上方落語協会に入っている噺家と、入っていない人。
それぞれに理由があるんです。
そして、違っていることを認めることが大事ではないでしょうか。
三代目小さんや三代目円馬のように、西の多くの噺を東に移した噺家もいますが、そこには、真摯に落語と向き合い、それぞれの歴史や偉大な先人への尊敬の念もあったと思います。
そういう謙虚さがあれば、そう安易に東西統合などとは言えないと私は思います。
そもそも、統合する目的は何か・・・・・・。
噺家の東西交流と、協会の統合とは、次元の違う問題だと思います。
落語の他にも、いろんなことを書きなぐっているブログですが、今後も気軽にお立ち寄りください。
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by kogotokoubei | 2014-03-14 21:07 | 上方落語 | Trackback | Comments(2)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


by 小言幸兵衛
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