“地球的”視野に立った“グローバル化”批判—井上ひさし『日本語教室』
2014年 02月 28日

井上ひさし『日本語教室』(新潮新書)
本書は、2001年10月から毎月一回、井上ひさしの母校、上智大学で四回にわたって行なわれた講演の記録。初版は3.11の直後に発行だったので、しばらく読むきっかけを失っていた。
最近、自分の書くブログの文章が、日本語として大丈夫なのかと反省することがある。また、拙ブログや私がよくお邪魔するブログの、特にコメントの文章などで、「えっ、これはどういう意味?」などと解釈に迷うことが続いたので、ちょうど良い機会と、読み始めた次第である。
日本語、相当乱れているが、井上ひさしは、あのカタカタ語の普及について、次のように指摘する。
次に、グローバリゼーション。これを唱えると、水戸黄門の印籠みたいに、みんな、参った参ったとなる(笑)。もう世界はそれで行くしかないというので、グローバル化とか、グローバリズムとか、グローバリゼーション。これは、ほんとに危険な言葉なのです。単純にこれを翻訳すると、世界化、地球化です。その意味は、思想とか行動とか、すべての価値を全地球的規模のものに広げるということです。では、どういう価値を広げるかというと、これは大問題です。文化が広められるのはいい、けん玉が広がるとか、そういう人畜無害なものが世界中に広がるというのは結構ですが、たとえば思想は、どういう思想を広げればいいのか、どういうパターンの行動—あっ、パターンと言っっちゃった(笑)、外来語は使わないように気をつけていたのに—どういう形の行動をすべきか、それを世界中一つにしようというのは、これは相当無理があります。
グローリズムというのは、世界を一つの大きな共同体にしようという主義、あるいは運動で、ある意味ではとても結構ですし、国際連合も、われわれは大事にしなければいけません。それはわかりますけども、思想や行動を、世界中に広げるときの、その主体者は誰か。国連が主体者なのか。そうではないですよね、アメリカです。
だから、グローバリゼーションというのは、アメリカ化ということです。アメリカが大事にするものを、世界中に広めようということです。その一つの極端な、悲惨な表れとして、アフガニスタンの問題もあると思います。アメリカの価値が一番正しい、これが普遍的だと信じているアメリカのある人たちにとっては、やはり、またく異質なイスラム世界があるのはたいへん邪魔でしょう。お金持ちの人たち、金融資本は、世界的に均一にして、そこでマネーゲームができるようにしたいと考えていると思います。そのルールに従わないとことがあると、困るでしょうね。
この方向から考えると、言葉では、英語が世界語ということになるでしょう。それこそJRのグリーン車に一時期「英語は世界語NOVA」と書いてあって、勝手におまえが決めるな、と思いましたけど、事実は、いろいろな外国人たちを交えて会議をするときに、日本語でやるのはフェアでないので、日本人同士が英語で話すなどということもあります。ですから、英語がいけないとは言っているわけではないのです。ただ、どういうときに英語を使うか、どういうときに英語を排除すべきなのか、というような見境がつかなくなってきていることが問題なのです。
安倍や政権の周囲の人々が大好きな言葉、グローバル化、グローバリゼーション。
しかし、政府がTPPや英語教育などの観点で言うグローバル化とは、井上が指摘する通り、まさにアメリカ化である。
本来の意味である、地球的な視野に立って考えれば、これは相当偏った考え方と言える。
この後、スペイン語がなぜ国連の公用語になったかを井上は説明する。
次に、国連の公用語を見てみましょう。第二次大戦の連合国、戦勝国の英語、フランス語、ロシア語、中国語、そしてスペイン語です。スペインは戦勝国ではないのですけど、これは第二次大戦中、戦争以外のことで非常に活躍しました。
(中 略)
第二次世界大戦中、スペインは中立国だったのです。その代わりに、徹底的に戦っている枢軸国と連合国の間に立って、戦争によって生じる悲劇をスペインがカバーして歩いたのです。
一例を申し上げますと、昭和16年(1941)に、太平洋戦争が日本軍による真珠湾奇襲で始まります。その頃、カリフォルニア州にだいたい12万人ぐらいの日系人がいました。もちろんアメリカ市民もいるわけです。日系で、そこで生まれて二世で、市民になっている人。それから一世でがんばって市民権をとった人。あるいは、嫁いで日本に帰って、老後は日本人として終わろうと思っている人もいました。そういう人を含めて12万人を、アメリカは、開戦から二週間後くらいのときに、一万人ずつの単位に分けて、強制収容所へ入れてしまいました。裁判もなにもなしで、財産も全部取り上げるのです。財産といっても日系人は大したことないだろうと思われるかもしれませんが、調べていくと、1941年のカリフォルニアの流通業の六割を日本人がやっています。クリーニングは六割五分です。野菜の栽培は七割です。カリフォルニアというのは農業州ですけど、そこの生産量の70%近くを日系人たちが営々と働いて農場を作って、少しずつ増やして、他の国の人たちが絶対に目をつけないような高圧線の下の農地とか、そういう安いところをたくさん買い足していって、結局は日系人がいないと野菜が食べられないというぐらいの農業園にしていったのです。それなのに、ある日突然、そういう農場をすべて捨てさせられ、汽車に乗せられて、シェラ・ネバダ山脈の向こう側の砂漠に急ごしらえで作られた強制収容所に、一万人単位で入れられたのです。持ち物もきびしく制限されて、80センチ四方に納めなければなりませんでした。
スペインの仕事は、敵味方を問わず、世界中の捕虜収容所、強制収容所で、非人間的なことが行われていないかとうのを見回ることでした。国際赤十字も関係ありますけど、何かそこで必要なものがあればそれを補うという、地味ながらも大事な仕事をしたのです。
国連の公用語になぜスペイン語があるか、ということから、井上ひさしは、日本人が義務教育で学ぶことのない事実を明らかにする。
この後、スイスも敵味方の間に入った連絡係として、第二次世界大戦中に中立国としての重要な役割を果たしたことを紹介し、日本の今後のあるべき姿を次のように語る。
そんなふうに、戦争によって生じてくる様々な不都合を、全部ボランティアで解消していくという仕事がある。その道を、日本は選べばよいと思います。
安倍は、第二次世界大戦時のスペインやスイスの役割、行動など知る由もないだろう。
しかし、原爆やフクシマを経験した国が、今後“グローバル”な環境で存在感を示す一つの姿を井上ひさしは示していると思う。
私も、できる限り外来語をむやみに使うことはやめようと思っている。
今後、グローバル化をアメリカ化と言い換えてみることで、安倍政権の危うさがより際立って見えてくるはずだ。
