さらば、そして、ありがとう大須演芸場・・・・・・。
2014年 02月 03日
中日新聞サイトの該当記事
大須演芸場に強制執行 賃料滞納で建物明け渡し
2014年2月3日 15時05分
名古屋唯一の常設寄席、大須演芸場(名古屋市中区)は3日午後、建物所有者への賃料滞納のため名古屋地裁に建物明け渡しの強制執行を受けた。半世紀近く続いた寄席の灯が消えた。
3日は朝から芸人が無料公演を行っており、午後1時半に現れた名古屋地裁の執行官は満席の客の大拍手に迎えられた。高座を務めていた落語家の快楽亭ブラックさんが「中止するよう言われましたのでこれで終わりにさせていただきます」とあいさつ。最後の公演は幕を閉じた。
執行官が「執行するので出ていってください」と呼び掛けた後、芸人たちは舞台上から節分の豆まきを始め、観客と盛り上がって演芸場との別れを惜しんだ。
席亭の足立秀夫さん(80)は講演のため、外出しており、強制執行は第三者立ち会いのもとで行われた。
午前中に演芸場にいた足立さんは、建物としての演芸場の今後について「もう関係ないので何も言えない。ご自由に」としながら、「ただ『大須演芸場』の名前は使ってもらっては困る。これからもその名前で外営業していく」と話した。
(中日新聞)
大須、と言えばどうしても古今亭志ん朝なのである。
一昨年の志ん朝の命日に大須のことについて書いたが、再度、席亭の足立さんの思い出話を『まわりまわって古今亭志ん朝』から紹介したい。
2012年10月1日のブログ

文芸春秋サイトの該当ページ
—足立さんが志ん朝師匠を知ったのはいつ頃ですか?
足立 志ん朝さんがまだ古今亭朝太と名乗っていた頃に、新聞に寄席のお茶子さんだか、お囃子のおばさんだかの談話が載っていてね。「六代目春風亭柳橋の前に出た朝太を見て、この人はどこまで伸びるんだろう。恐ろしいような新人が現れた」と出てたの。で、<志ん生の息子か・・・・・・。さすが、蛙の子は蛙だな>って思ったのが、一番最初。
で、その後、NHKテレビのドラマ『若い季節』で見て、<あ~あ、いい男やな>って思ってるうちに、志ん朝さんが道頓堀の「角座」にやってきた。
—生の志ん朝師匠に接したのはその時が初ですか?
足立 志ん朝さんはそれまで名古屋から西へは行ったことがなかったと言うからね。
—その頃足立さんはどんな仕事を?
足立 不動産屋。その頃の大阪は「万国博覧会」があったり、田中角栄の「列島改造論」で大変な時でね、とにかく儲かった。で、道頓堀「角座」、千日前の「千日劇場」なんかに毎日のように入り浸って、祝儀を切ったり、芸人たちを連れて呑み歩いていたの。
—いわゆる「旦那」ですね。
足立 わしが付き合ってたのは、松竹の連中だったな。「庄司敏江・玲児」とか「かしまし娘」とか。あるいは松鶴のおっちゃん(六代目笑福亭松鶴)やった。
そうやって芸人さんと付き合ってると、次第に芸人地図がわかってくる。
例えば松鶴のおっちゃんと付き合う以上は、米朝さんとは付き合いにくい。というのは、松鶴のおっちゃんは米朝さんのことを、
「あんなもん・・・・・・」
と言ってたけど、心の中では<ちょっと・・・・・・>って一目置いていたから。だから米朝さんと付き合うのは意識的に避けて、付き合うのは笑福亭一門・・・・・・。ただ、仁鶴さんは避けてね。
—どんな理由で?
足立 仁鶴さんは人気が出すぎたからね。松鶴のおっちゃんって人は、ひがみっぽい人でね、運も悪かった。
若い時分は、弟弟子の松之助さん・・・・・・この人は明石家さんまの師匠だけど、芝居みたいなもんでちょっと売れてたんだ。自身はまだくすぶってるでしょ、で、松之助がちょっとしぼんできたと思ったら、あろうことか、あるまいことか、自分の弟子の仁鶴が売れはじめちゃった。それも吉本から。
—吉本興業ではまずかった?
足立 松鶴のおっちゃんは、もともと吉本に怨念があるの。大阪では初代桂春團治が死んだ後、落語は左前になってきて、その時、吉本は落語家を粗末に扱ったんだな。で、 咄家は大変苦労するわけ。大看板の五代目笑福亭松鶴や二代目林家染丸を二番目、三番目の扱いにしたから、それに対する怨念を松鶴のおっちゃんはずっと持ち続けたんだわ。
松鶴の吉本嫌いは、父親であった五代目への吉本の仕打ちなどを歴史に持つ根深いものだったことが、よく分かる。だからこそ、仁鶴は七代目を襲名するのを固辞したわけでもある。この後も、米朝と松鶴に関する興味深い内容が続くのだだが、それは割愛して、演芸場の経営状態のこと、そして志ん朝の登場。
—演芸場の経営は順調にいきましたか?
足立 二年で軍資金は底をついたね。<客席は二百五十席あるから、一日に百入れば食っていける>と思ってたんだけど、客は三十人も入ればいいほうでね。それだって東京や大阪から芸人を呼んだ時だけで、地元の芸人だけだったら、その三十人も入らないだから。そうなると旦那時代のよしみで来てくれていた芸人も来なくなるし、無名時代に面倒を見て、名前が売れるようになった芸人は見向きもしてくれない。この時、芸人のいやらしさを目の当たりにしたね。
—最初の危機は、何時頃でした?
足立 1978(昭和53)年かな。金目の物はすべて売り飛ばしてしまって、もう金融業者も金を貸してくれない。芸人さんに出演料は払えないし、電気代や水道代も払えない。仕方がないから社員は全部リストラして、芸人が切符を売ったり、掃除をしたりして、なんとかやりくりしていた。
—そんな大変な時に志ん朝師匠が来たわけですね。
足立 ふらーっと入ってきて・・・・・・。
—何の予告もなしに?
足立 そう。
「足立さん元気?」
って。わしはビックリしてね。
「どうしたの朝さん?」
って言ったら、
「ちょっと頼みがあるの」
「何?」
「悪いけど、高座に上がらせてよ」
「客、おらへんよ」
「いいから、いいからやらせてよ。稽古させて」
「じゃあ、どうぞ」
で、その時志ん朝さんがやったのが『小言幸兵衛』
志ん朝さんが、
「稽古させて」
って言ったのは嘘やと思う。多分、大須が危ないって聞いて心配になって、<どうしてるかなあ・・・・・・>と思って、来てくれたに違いない。で、志ん朝さんが帰る時、わしも見栄があるから、幾らか包んで、
「これ、タクシー代」
って渡したら、
「こういうことするから、駄目になるんだよ」
って、なかなか受け取らないんだ。結局、
「いいんだよっ」
って強引に渡すと、
「俺で役に立つことがあったら、いつでも電話をくれ」
って言って、すーっと帰って行ったんだけど、あの時は本当に嬉しかったね。ほかの芸人さんのいやらしさをいやというほど見せられてた時期だったから。
—結局、そのままで?
足立 余程頼もうかと思ったんだけど、<志ん朝という看板を掲げて客が来なかったら、志ん朝さんの名に傷をつけることになるし・・・・・・。志ん朝さんだけ来てくれても、他がセコいと一過性になっちゃうからなあ・・・・・・>ってゴチャゴチャと悩んでたとき、労音かなにかの仕事で志ん朝さんが名古屋に来たんで、顔を出したの。
その時に志ん朝さんが演ったのは、『鰻の幇間』だった。志ん朝さんはわしの顔を見ると『鰻の幇間』をやって、からかうんだ。で、帰る時に、志ん朝さんが、
「足立さん、一遍行くよ」
って言ってくれたの。
で、丁度うまい具合に、五十年ぶりに大須観音の御開帳があったから、その時は客も結構来るに違いないと思って、志ん朝さんに来てもらって、一週間くらいやってもらったの。もちろん、たいしたお金は出せなかったけど、ちゃんと出演料は払えたし、冷房装置を新調することもできた。さすが志ん朝さんだと思ったね。
—それからは、たびたび志ん朝師匠が出演するようになったんですか?
足立 頼みたかったんだけど、あの人には頼みきれなくて、結局、疎遠になっとったんだわ。
その後も大須演芸場の経営危機は続くが、足立席亭は周囲の支援もあって何とか踏ん張る。そして、1990(平成2)年6月のある日、足立さんを訪ねる一人の女性がいた。その人の訪問がその後十年続く「志ん朝三夜」のきっかけになるのだった・・・・・・。
大須演芸場を足立さんが経営することになったのが1973(昭和48)年の11月1日なので、昨年が40周年だった。
足立さんは、ご自分が亡くなったら演芸場の舞台に棺を置いて、そのかたわらで志ん朝が『小言幸兵衛』を一席語ってもらうのが夢だったようだが、それは叶わなかった。
昨今、東京や上方の噺家さんや、協会主催による大須での会もあったようだが、そういった支援も及ばず、ということだったようだ。結局、一度も行く機会はなかった。
しかし、大須の話題が出るたびに、私は足立さんと志ん朝との間の、言わば大人の友情のことを思い、何とも言えない清々しい気分になるのである。
しばらくは、その場に駆けつけた人だけの幻の高座だったが、2012年に足立さんの所蔵の音源が発売された。
発行元の河出書房新社のサイトから演目を引用。
河出書房新社サイトの該当ページ
(◎は初CD化音源の七席)井戸の茶碗/試し酒/搗屋幸兵衛/今戸の狐/三方一両損/寝床/明烏/夢金/浜野矩随/紙入れ/化け物使い/大工調べ/文七元結/干物箱/二番煎じ/蒟蒻問答/三年目/錦の袈裟/黄金餅/時そば ◎/柳田格之進/碁どろ/妾馬/坊主の遊び/お若伊之助/火焔太鼓/藁人形 ◎/強情灸 ◎/付き馬/水屋の富/四段目/首提灯/お化け長屋/厩火事/お見立て/そば清 ◎/富久/宗珉の滝/唐茄子屋政談/へっつい幽霊/中村仲蔵 ◎/品川心中/粗忽の使者/蔵前駕籠/火事息子/王子の狐/締め込み/あくび指南 ◎/子別れ 上・下/宿屋の富/崇徳院/ぞろぞろ ◎/芝浜/風呂敷/五人廻し/抜け雀/もう半分/替り目/居残り佐平次 ※初版特典 愛宕山/宮戸川・予約特典 酢豆腐/風呂敷(別テイク)
この大須演芸場の独演会は1990(平成2)年から1999(平成11)年までのちょうど十年間に開催された。志ん朝の五十二歳から六十一歳、亡くなる二年前までの十年間にあたる。
初CD化の七席はもちろん貴重だが、他にも希少価値の高い音源が少なくない。たとえば『坊主の遊び』は、1970年代のTBSラジオの音源がソニーから発売されているだけである。また、『蒟蒻問答』も、「東横落語会」と、この大須だけのネタである。
すでにソニーなどで発売されていて、その評価が定着した演目にしても、大須にはマクラの楽しさに加え、五十代を中心にした円熟した芸を楽しむことができる。東京での伝統あるホール落語会と比べて随分とリラックスしているのが伝わるし、寄席の香りがする。
もし、将来市販されることを前提で臨んでいたら、こうはならなかっただろう、というマクラの楽しさは、他のシリーズと一線を画している。
各年の公演日と演目の一覧表を、『よってたかって古今亭志ん朝』の巻末資料を元に作ってみた。


*印が、初CD化のネタである。
今日は帰宅の途上、携帯音楽プレーヤーで平成5(1993)年11月の『富久』を聴いていたのだが、マクラが楽しい。住吉踊りのメンバーでもある三遊亭歌る多(その年の三月に女性初の真打昇進を果たした)が楽屋で踊りの稽古をするのを、林家たい平(当時二ツ目)に「志ん朝師匠が来たらガードして、お見せしないでね」と頼んでいたようだが、「私はなんとかして見るんです」という話が楽しい。この『富久』も、実に結構なのだ。客席も非常に暖かい。ホール落語会では出ない味がある。
大須が幕を降ろした今夜は、実に寂しい節分だが、大須は得難い財産を遺してくれたことに感謝である。
落語会では無い、寄席の志ん朝師そのままです。
録音状態が悪いのも気になりません。
肩の力の抜けた、師匠の何時もの良さがそのまま出ています。
私は出来たら普段の寄席の音源(TBSのラジオ寄席以外)があればそれが一番よさを伝えていると思っていました。
大須の志ん朝師にはそれがありますね(^^)
足立さんは、まだご健在なようなので、ぜひ「大須」の看板で東京で会を開いていただきたいと思います。
大須のノイズは、逆に寄席の臨場感を演出する効果さえあるように思います。
私、一昨年の11月に初めて大須演芸場へ足を運びました。お書きになられている様に『志ん朝師所縁の大須』を一度見ておきたかったのが、名古屋行きの理由の一つでした。
ひとことで言いますと見やすい寄席、新宿末広亭の桟敷席をなくしたような感じの好ましい小屋です。
地権者、建物所有者、経営者それぞれの言い分はあるのでしょうけれども、別経営でも是非再開して欲しいなぁ、と願っています。
あの時元気な高座をみせてくれた雷門獅籠さん、どうしているかしらん。
心配です。
足立席亭と地権者や建物所有者の間にあったことの真相は分かりませんが、察するに、席亭の力及ばず、ということなのでしょう。
大阪のように上方落語協会というバックがあるわけでもありませんしねぇ。
東京(江戸)落語、上方落語という伝統の力は、やはり大きいと思います。
「大須」を冠した落語会、ぜひ席亭がお元気なうちに東京で開催していただきたいものです。
思い切っての途中下車、ですか。
私はここ数年出張のほとんどない仕事なので、なかなかそうもいかなかった。
相当前には名古屋にも頻繁に出張していたのですが、その当時は“生落語”ではなく“生ビール”と“生酒”にはまっていました^^
志ん朝の音源を聴きながら、大須のイメージを膨らませる日々が続きそうです。
建物の醸し出す「ムード」は、「この小屋についての全ての噂は誇張ではない」と思わせてしまうものでした。
写真や漫画で存じ上げていた足立席亭やお茶子「姫ちゃん」に「おお、本物や」と感動しながら、声をかける勇気はありませんでしたが・・・。
満員とは言えない中で芸協の師匠方は真摯に演じていました。中でも金遊師の『心眼』は忘れられません。
末広亭と並ぶ?「匂い」を持った小屋を残し、再興につなげて欲しいものです。
たしかに、足立席亭による会の復活、ということへの期待もありますが、大須演芸場という「場」の継続もぜひ望みたいですね。
「小屋」として残してもらえるのなら、私も近い将来に行く機会をつくりたいものです。
末広亭も、できるだけ大きな改装などして欲しくないものです。たぶん、やらないでしょうが。
