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なかなか味のある、熟練噺家の半生記—『雲助、悪名一代』。

先日の雲助の会の会場で販売していた本。そのうち読もうと思っていたので、雲助サイン入り本を手拭と一緒に購入。

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五街道雲助著『雲助、悪名一代』

 大きな活字で読みやすく、二日間の通勤時間で楽しく読了。

 最初にこの本を手にしてまず思うのは、“悪名”という文字への疑問だろう。
 
 なぜ“悪名”なのか。落語愛好家の方ならご案内(?)だろうが、蛇足的に本書から引用。

 師匠馬生が、

「俺は隠居したら五開堂雲輔になるよ」
 と言っていたのを思い出し、いい名前だなぁと思っていましたので、師匠にお願いしてその名前をいただくことにしました。


 これが、七番目の弟子だったので前座名“駒七”から、二ツ目になる時のことだ。

 過去に「ゴカイドウクモスケ」を名乗った落語家は何人かいたらしいのですが、表記が「五海堂」だったり「五海道」だったりバラバラで、わたしが何代目になるのか、よくわかりません。
 二ツ目昇進の時には、御挨拶に、名入りの手拭(目次に写真があります)を配ります。書画の腕前はプロ並だった馬生にお願いして絵を描いてもらい、「五街道雲助」と名を入れたところで、馬生がわたしの顔をじっとみて、なにを思ったか「六代目でいいやな」とつぶやき、「六代目」とつけ加えました。
 描き終わってから、「六代目」と「五街道雲助」のバランスがおかしいな、と馬生は首をかしげました。
 こうしてわたしは、「六代目五街道雲助」となりました。
 「五街道」は、江戸時代に徳川幕府が全国の各藩を統治するために整備した、東海道、日光街道、奥州街道、中山道、甲州街道の主要道路。
 「雲助」は、自由な移動がままならなかった江戸時代に、その五街道の宿場から宿場へ荷物を運搬していた人足。
 「五街道雲助」という名前は、日本全国を縦横無尽に駆けめぐるスケールの大きな悪党、というイメージで、自分では大変に気に入りました。



 たしかに、先日の会で本書と一緒に入手した手拭、「六代目」と「五街道雲助」のバランスが、微妙なのだ。

 いたちやさんのサイトにある手拭の画像を拝借した。縮尺が正しくないが、イメージはお分かりいただけると思う。
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「いたちや」さんサイトの手拭の画像


 しかし、馬生の絵、そして字はいいよねぇ。この手拭、大事にしよう。

 さて、時代は遡って学生時代の逸話と入門を志した動機などの部分。

 明大付属高校から明大に推薦入学の相談をした時、先生から人気の高い商学部は無理、と言われたことに一念発起、一般入試で商学部に入学したのはいいが、落研に入部して寄席通い。単位が足らない。

 明治大学の商学部には、二年から三年になるときに、不可が三つあると進級できない落第制度がありました。
 一年から二年になるときすでに七つ、八つ不可があった。これは当時落研の新記録でした、なんてちっとも自慢になりませんが。
 二年の秋ごろになって、これはいけない、とにかく不可は消さないといけないから勉強しようと思ったら、教科書がない。
 なんで教科書がないんだろうとよーく思い出したら、教科書代を全部寄席につぎ込んだので、教科書を買ってなかったんですね。


 あの雲助からは想像できにくい逸話であるし、ユーモアたっぷりの文章だ。電車の中で読んでいて、ついクスッと笑った部分。

 落語家になる考えが起こった時の逸話を紹介しておこう。これが、笑えるのだ。

 実家は元は蕎麦屋だったが大学時代にはすし屋と天ぷら屋になっていた。屋号は父の名である寅吉から「とらや」。
 ある日、人形町の寿司屋で飲んでいたら、そこの板前さんが話の流れで、
「前は本所の寿司屋にいたんですよ」
 という。
「へえ、本所のなんて寿司屋?」
 と聞いたら、
「『とらや』って寿司屋です」
 うちなんですけど、お互い顔も知らない。
「なんでやめちゃったの?」
「あそこはいてもしょうがねぇ。倅ってのが、いるんだかいないんだかわかんねぇ。いつも裏から出入りしててね、この店はどうにもならねぇと思ってやめたんですよ」 
 目の前で言われました。
 店を継ぎたくない。三年にも上がれない。一瞬「落語家、になる?」という考えが頭をよぎりましたが、家が商売をしている。わたしは一人息子。どう考えても落語家になれるわけがない。

 この後で名乗るわけにはいかないわなぁ。
 
 さて、この窮地をいかに脱したかについては、結構シリアスな家族の物語があるのだが、ぜひ本書で確認していただきたい。

 次に、この本の帯で登場する野坂昭如との関係は・・・・・・。

 雲助が、“もうひとりの師匠”と呼ぶ方の存在が、野坂や色川武大さんなどとの接点になる。
 落語の師匠が馬生なら、酒の師匠はおやっさん。
 馬生も酒は好きでしたが、わたしの兄弟子に酒乱がいて、それを嫌がっていたので馬生の前では酔っぱらうことができません。
 二ツ目になって、馬生の目の届かないところで飲みまくる楽しさ。
 かいば屋で、おやっさんを通して、いろんな人と知り合いました。
 早稲田大学を中退したおやっさんは野坂昭如さんの食客をしており、『かいば屋』という店名は、おやっさんの競馬好きにちなんで野坂さんがつけたそうです。
 のれんを新しくしたときに、『かいば屋』の字を書いたのは、殿山泰司(1915~1989)さん。
 田中小実昌さんも、もちろん常連です。
 おやっさんは野坂さんの『酔狂連』という文化サークルのメンバーでもありましたから、そういった人たちが、かいば屋に出入りしていました。


 錚々たる顔ぶれ。雲助が、かいば屋に行くきっかけは、田中小実昌が『小説推理』の巻頭グラビアに書いた「私の最も好きな場所」を読んだからのようだ。推理小説が好きなんだなぁ、きっと。

 このおやっさん、雲助を新宿のいろんな店にも連れて行って、雲助の酒の修行は、落語と同様に深~いものだったらしい。

 これ以上書くとこれから読まれる方の愉しみが減るので割愛するが、本書には次のような疑問に答える興味深い内容が書いてある。

・馬生よりも先に弟子入り志願して入門を果たせなかった噺家とか誰か
・入門時、前座修業でお世話になった同門の兄弟子は誰か
・最初にとった弟子白酒の前座修行中のとんでもないしくじりは何か
・滑稽噺が好きだった雲助が、円朝ものを演じ始めるようになったきっかけとは
・ある高座を舞台袖で見ることで“芝居がかり”について学んだ、その噺家は誰か
・雲助流「成り下がり十戒」とは何か

などなど。

 ご興味のある方は本書を、できることなら、いたちやさん主催の雲助の会の会場で、ぜひサイン入りで買って読んでいただきたいものだ。
 いたちやさんのサイトに、本書の紹介と著者の動画も掲載されているので、ご参照のほどを。
「いたちや」さんサイトの該当ページ

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矢野誠一著『にっぽん芸人伝』

 最後に、若かりし日の雲助について、矢野誠一さんの『にっぽん芸人伝』から引用したい。

 この本は昭和53年から翌年にかけてスポーツニッポンに連載された内容。だから34年前。昭和54年に単行本化されたが、今年6月に河出文庫から再刊された。

 34年前だから、矢野さんが見て聴いた雲助は、まだ二ツ目。
 五街道雲助は、ユニークな芸名を選んだ瞬間から、ユニークな落語家に成長するべき宿命を背負わされてしまったといっていい。なみの落語家であってならないわけで、これからだんだん芸名の重みを感じていかざるを得まい。できるだけ楽な、やさしい近道を通って、一人前の落語家になろうとする若手が増えつつあるなかで、あえてそんな宿命をたずさえて歩き出してる姿が、ひとの目にうまくとまればいいのだが。
(中略)
 六本木の自分の店「夕雨子」で、ミニ・ミニシアターを開き、自らプロデューサーになっている踊子の水原まゆみは「古典の明日をになう噺家の会」という催しに五街道雲助を起用したのだが、彼のことを「変に媚びず、透き通った感じのひと」と手紙に書いてきた。「透き通った感じ」という表現に、いかにも踊子の目が感じられて面白かったのだが「透き通った」落語も悪いものじゃないなどという考えが、近頃頭に浮かぶのである。

 ちなみに、水原まゆみさんは、三浦哲郎の小説『夕雨子』のモデルだった人。

 昭和53年のあの大騒動の後、雲助は昭和55年に行なわれた第一回真打昇進試験を受けて合格し、翌昭和56年3月に真打昇進となる。

 当時、三十を過ぎたばかりの雲助だが、矢野さんや水原まゆみさんの芸人を見る目の確かさが分かろうというものだ。

 今でも雲助の高座には「透き通った」という形容が当てはまるように思う。もちろん、客に媚びることもない。そして、矢野さんが書いている芸名の重さにも、もちろん負けずに我が道を行っているように思う。そのことについては、彼の本を読めばいっそう理解が深まる。
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by kogotokoubei | 2013-11-21 00:34 | 落語の本 | Trackback | Comments(0)

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