没後四十年、命日に志ん生の“師匠”について思う。
2013年 09月 21日
『名人長二』のことを書いている時、志ん生の音源を聴いていたが、「名人」のことを語るマクラで、名人と言われた橘家円喬が師匠だった、と語っている。五回に分けた高座で一度ならず語っている
それはきっと願望だったのだろう。そして、その思いが強すぎて本人も自分自身で“刷り込み”をしてしまったかもしれないが、実際は二代目三遊亭小円朝の弟子であって、前座名の朝太が物語っている。
結城昌治著『志ん生一代』には、冒頭にこう書かれている。
*この本、単行本も文庫も古書店でしか手に入らない状態だが、河出か筑摩で文庫で再刊してほしいものだ。
五代目古今亭志ん生、本名美濃部孝蔵、命名には親孝行をして蔵のひとつも建ててくれという願いがこめられていた。
しかし、孝蔵は十五歳のとき家を飛び出したきり両親の死に目にあうこともなく、生涯借家住まいのまま八十三歳でこの世を去った。昭和四十八年九月二十一日、家人も気づかないうちに、とろとろと眠るような往生であった。
その志ん生が三遊亭小円朝(二代目)に弟子入りして、朝太の名をもらったのは明治四十三年(1910)、ちょうど二十歳のときである。
明治後半から大正、昭和、そして戦後しばらくまでは、最後まで一人の師匠につくことのほうが少なかったように思う。八代目文楽は最初に初代桂小南に入門したが、師匠が旅回りに出たため、自分はのこって多くの師匠の下で修業している。芸の師匠として三代目の三遊亭円馬、そして庇護者でもあった五代目柳亭左楽の存在も大きい。
志ん生は、最初は小円朝の門下であったが、円喬を“師匠と仰いだ”ということは間違いないだろう。そして、他にも数多くの師匠がいたと言えるだろう。
立風書房の『志ん生長屋ばなし』には、『びんぼう自慢』の聞書きをした小島貞二と、『落語の年輪』など落語に関する多くの書を著している暉峻康隆の対談が掲載されている。
志ん生の師匠について語られている部分を引用。ちなみにこの本の初版は昭和45(1970)年の発行。
小島 志ん生は芸名も随分かえているけれど、師匠も随分とかえています。師匠と仰いだ人は、名人円喬(四代目の橘家円喬)、初代の小円朝(現小円朝の父)、鶴本の志ん生(四代目志ん生)、それに柳家三語楼の四人ですが、芸の師匠として初代の遊三、めくらの小せんも当然加わってきます。一体、だれの影響を一番うけている人でしょうねえ。
暉峻 それがね、師匠を遍歴したということが、あの人の独特の芸を作った理由だと思うんです。型にはまらない・・・・・・。
あるひとりの師匠に最後までついて、その名前を襲名するというタイプではないんですね。西部劇の流れ者みたいで、至るところで戦っては、自分を鍛えていくというタイプなんですよ。だから結局、自分の持ち味を出すよりしようがない。しょうがないというより、それが強みなんじゃないですか。
小島貞二が「初代」小円朝と言っているが、二代目の誤りだろう。
“西部劇の流れ者”という表現は可笑しいが、当っているなぁ。日本的に言えば“道場破り”のようなイメージに近いが、戦っているのは相手ではなく、自分自身と言えるだろう。
それらの師匠から志ん生はどんな芸を学んだのか。
小島 志ん生の師匠系列では、円喬、小円朝が本筋の芸、めくらの小せんと三語楼がかなり破格です。鶴本の志ん生はその中間・・・・・・。
暉峻 おそらく、みんなの芸が入っているんでしょうね。いつかNHKのテレビで北斎(江戸末期の浮世絵師、葛飾北斎)をやったんだけれども、あの北斎という人は師匠がないんです。あるとすれば、あらゆる師匠について、日本のあるとあらゆる流派を勉強している。破門されたり、喧嘩したりして、あげくの果て、てめえの芸をつくっちゃうんですね。志ん生さんにも同じことがいえるでしょう。
私は、志ん生にとって晩年の師匠といえる三語楼の影響が強いと思っており、このブログを書き始めた頃に三語楼について書いたことがある。
2008年6月12日のブログ
対談では、次のように語られている。
小島 志ん生さんが注目されはじめたのは、甚語楼になってからというはなしがさっき出ましたが、これは芸風がそのころから陽気になったということでしょう。志ん生の身のこなし、特に手ぶりなどは、三語楼流がかなり入っているそうですね。
暉峻 もともと下地が出来ているところへ、三語楼の受ける芸のエキスが入ったということはいえましょうね。
小島 志ん生さんに芸の話をきくと、一番多く出てくるのが名人円喬です。円喬のうまさを語るときは、きわめて感動的なんです。若いころ、円朝まさりといわれた円喬の名人芸を肌で感じている。それから小円朝が入り、遊三が入り、鶴本の志ん生が入り、めくらの小せんが入り、三語楼が入って、そのカクテルの中から、先生がさっきおっしゃった、型にはまらない・・・・・・
あるいはすべての型を破って、あの一種独自の志ん生が生まれたんでしょう。
あの志ん生の芸には、個性の違うそれぞれの師匠のエキスが見事にブレンドされていた、ということか。
志ん生の好きな日本酒は、あまりいろんなものを混ぜると不味くなる。志ん生が洋酒を飲むことはほとんどなかったと思うが、自分の芸は“灘の生一本”ではなく、スコッチの絶妙なブレンドのようだったと思うと、なぜか可笑しくなる。
志ん生の師匠たちのことを思うと、さて今日の噺家さんは、さまざまなエキスのブレンドに努めているのか、と思わざるを得ない。特に協会を離れた立川流や円楽一門の噺家さんは、よほど努力しないと他流派の師匠から学ぶ機会をつくることができないだろう。それに比べて、たとえば一之輔の著作を読むと、数多くの先輩達から稽古をつけてもらっていることがわかる。
若手の成長株には、ぜひ“西部劇の流れ者”“道場破り”で、芸を磨いて欲しいものだ。
志ん生の命日、そんなことを考えていた。
最近、某所で志ん生師が紫綬褒章を授与されて時のTV番組のインタビュー(対談)を見ましたが、確かに円喬師のことを語っていましたね。
売れる要素は三語楼師からのものだと私も思います。
噂話しですが、三語楼師の葬式の時に師のネタを書いたノートを志ん生師が持って帰った。という話があるそうです。
でも、それをきちんと、いやそれ以上に開花させたのは志ん生師の凄い処だと思っています。
志ん生師は最初に聴いても良いがずっと聴き続けてはイケナイ。
色んな噺家の噺を沢山聴いた後で志ん生師の噺を聴くと本当の凄さが判る。
私はかってそう言われました。
そして、それは全くその通りでした。
少しでも、その本質に触れられただけでも幸せだったのかも知れません(^^)
『名人長二』の音源では、「私の師匠、円喬は~」と言っていますが、「私は円喬の弟子でして~」とは言っていないので、あくまで憧れの師匠ということでしょうか。
『びんぼう自慢』には円喬と九州へ旅回りをしたことなども書かれていますので、目をかけてもらったことは事実かもしれません。
三語楼の「ネタ帳」を、何らかの方法で(?)手に入れたのは事実のようです。
『風呂敷』の中の「おめぇなんかシャツの三つ目のボタンだ」などのギャグは三語楼譲りと言われていますね。
なるほど、志ん生ばかり聴いていては、「えっ、落語ってこういうもの」と間違えてしまう^^
円生、文楽、正蔵、三木助、小さんなど他の芸達者も聴く中で志ん生を聴くと、その名人芸が一層分かろうというものでしょう。
残念ながら、生の高座にはお目にかかっていません。亡くなった昭和48年は、まだ北海道で高校に通っていました。
音源は結構持っています。中でも『風呂敷』『替り目』『鮑のし』は、携帯音楽プレーヤーの定番です。
あんな噺家は、もう出ませんね。
しかし志ん生だけは有り得ない。後にも先にも志ん生一代の芸です。そこが凄いとしか言い様がありません。
『名人長二』の(五)のCDには復帰後の『芝浜』も入っていますが、たしかに一部ロレツが回らないところがあっても、何とも言えない味があります。東横落語会の『疝気の虫』も良いですね。それもその場でネタを替えての高座でした。
『鮑のし』は志ん朝も、父の十八番の中の十八番と言っていたはずです。
志ん生は偉大です!
若い時分に円喬に憧れて基礎をきっちり作っておいて、そこに小せん、三語楼といった個性派のエキスが、本来持っている志ん生のDNAに注入されたと言えるのでしょう。
そして「座っているだけでいい」と客に思わせる存在感、というかオーラは、真似のできるようなものではありませんね。
志ん朝も、「親父は真似できない」と考え、円生、文楽の芸を下敷きにしたのだと思います。