新島襄を支えたもの—福本武久著『新島襄の青春』より。
2013年 08月 18日

福本武久著『新島襄の青春』(ちくま文庫)
今夜の『八重の桜』ラストシーンは、新島襄が明治7(1874)年10月にバーモント州ラットランドで開催されたアメリカン・ボードの第65回年次大会最終日での別れの挨拶だった。日本での学校設立のための寄付を募るスピーチの様子だったが、詳しい寄付の内容などは来週の放送で紹介されるのだろう。
この挨拶とその後の出席者の反応を、福本武久著『新島襄の青春』から引用したい。文中のジョセフが新島襄である。ハーディーとは、密航しアメリカに渡った襄(七五三太-しめた-)を支援してくれたボストンの実業家ハーディー夫妻のご主人のこと。
—日本に帰ってしまえば、おれを助けてくれる者などいない。そうだ!アメリカのクリスチャンに訴えてみよう。
かれは、クリスチャン・カレッジ設立の計画を出席者のまえでのべ、カンパをもとめようと思いついた。
ラットランドにゆくと、ジョゼフはすぐにハーディーの宿をたずねた。ハーディーはジョゼフが話し終わると、
「きみの気持はよくわかる。だが成功は期待できないだろう。みんなが関心あるのは日本での伝道だけだ」
と、いった。
「しかし、ぜひやらせてください。わたしにとっては最後のチャンスです」
「そこまでいうなら、やってみるだけやってみなさい。けれどもあまり期待しないように・・・・・・」
ハーディーはあきれ顔だった。
10月9日、ジョゼフは意気ごんで演壇にのぼった。
かれは、夢中でしゃべりつづけた。アメリカ人からうけた親切に感謝していること、日本を近代化するには、西洋の物質文明をうけいれることだけでなく、自治と自立にめざめた青年を育てることが大切であること。そのため自分は日本に帰り、キリスト教主義の大学をつくりたいとのべ、基金カンパをよびかけた。声がかすれた涙があふれてきた。
「大学を建てる資金なしには、日本に帰ることができません。それをいただくまで、ここに立たせていただきます」
かれは訴えかけた。
アメリカン・ボード(American Board of Commissioners for Foreign Missions)とは、Wikipediaによると、北米最初の海外伝道組織で、会衆派、長老派、オランダ改革派などが加わった無教派的な組織であるらしい。
Wikipedia「アメリカン・ボード」
アメリカにおいて、当時のキリスト教布教者や信者たちにとって権威ある組織と理解して良いのだろう。
その年次大会の最終日における襄のスピーチは、彼の人生にとって非常に大きな“その時”であった。
会場に低いどよめきがもちあがった。
前列に座っている宣教師たちは、こまりはてたように、おろおろしている。
「どうかわたしを日本に帰らせてください。希望を抱いて帰国したいのです」
ジョセフは、もういちど叫んで目を閉じた。胸の動悸が高まってゆく。会場は静まり返り、せきばらい一つ聞こえなくなった。
「きみの学校のために1000ドル寄付しよう」
ふいに静寂をやぶって太い声が耳にとびこんできた。目をひらくとワシントンのバーカー博士が立ちあがり、ジョセフをみつめていた。
「わたしも500ドル寄付しよう」
バーモント州知事のページが立ちあがった。
「わたしも500ドルだ」
ドージが、ハーディーがつぎつぎに立ちあがって寄付を申し出ると、有力者たちがつぎつぎと後につづいた。
こういう場面では、誰かの一声が重要なのだ。その声がかかった後は、我も我も、という好循環が訪れる。もし、その一声がかからなければ・・・・・・。
そして、日本での開校への襄の思いをより一層強くしたのは、次のような心ある支援だったように思う。
「ジョセフ!」
うしろから呼びかける者がある。
おやっと思ってふりむくと、ひとりの老人が立っていた。
「これは帰りの汽車賃だが、費用の一部にしてくれ」
老人はそういって1ドル50セントを差し出した。
「でも、それでは帰れなくなるでしょう」
「なあに、歩いて帰るさ。わしはバーモント州の農民だから、そう遠くない。心配はいらん」
老人は1ドル50セントをジョセフに握らせると、笑みをうかべた。
「ありがとう」
ジョセフは受け取らないわけにはゆかなかった。
かれは大会が終わって、しみじみとよろこびをかみにめながら会場の外に出た。宿舎にもどろうとすると、ひとりの老婆が近寄ってきた。
「あなたの話を聞いて感激しました。わたしは貧しくて、これだけしか持っていませんが、役立ててください」
老婆はそういって2ドルを差し出した。
名もない老婆でさえも、自分の志を理解してくれると思うと、ジョセフは胸が熱くなった。
ジョセフ・新島襄にとって、ハーディー達の高額の寄付は学校設立の資金として、金銭的な支えとして実に大きかっただろう。そして、帰りの汽車賃を削っての老人の1ドル50セント、そして老婆からの2ドルの寄付に込められた“心”は、彼の夢を追い求めるための精神的な支えとして、決して小さくなかっただろうと思う。
金、金、金、競争、競争、自由(?)、そしてグローバルといった言葉が蔓延する日本。
新島襄のアメリカでのスピーチが国籍を越えた人間同士の絆をつくったのは、日本でキリスト教精神に基づく教育を実践したいという彼の“情熱”である。その“心”は国境を超えるのだ。英語が話せても、その道具を使って何を伝えるかの方が重要であるのは、言うまでもない。
そして、彼の心の支えになったのは、汽車賃を削った老人からの1ドル50セントの寄付であり、老婆からの2ドルの寄付に込められた熱い“思い”なのだと思う。
結局、新島襄は5,000ドルの寄付を得て帰国し学校設立に奔走する。
明治4年に1円=1ドルという為替が設定されたことを踏まえ、当時の1円が現在では7,000円相当と考えられるので、5,000ドルは今日で3500万円近い価値になる。帰りの汽車賃が1万円を超えることはないだろうから、単純に老人の1ドル50セント、老婆の2ドルを想定為替に該当させるのは無理があるとは思うが、彼等にとってなけなしのお金を襄に託したことに違いはないだろう。
原発再稼動や海外輸出、TPP参加、憲法改正(改悪)など、あの“集団ヒステリー”への逆行に至りそうな危い兆候を防ぐのも、決して“金”でも“力”でもなく、自分の財布から心を込めた寄付を差し出せる一人一人の人間の意志でしかないように思う。
すでに義務としての税金を払っている国民は、政府や官僚に対し、この国が信頼と尊敬を得られる国になるために働いてもらうことを求める権利がある。それは決して「将来の歴史家の評価」に委ねるようなことではなく、現在の歴史を真っ当な道に引き戻すことが優先されるはずだ。
国禁を犯して渡米した新島襄を支援したアメリカの市民レベルでの友愛の精神は、その後に失われたとは、私には思えない。もし、失われたものがあるとすれば、それは日本人のほうだろう。新島襄のように、異国の地においても情熱をもって自分の愛国の思いを伝え、自分の意思を貫こうとする、あの頃には存在した日本人としての気位や誇りは、まだ残っているのだろうか。
