『あんけら荘夜話』(1)—五代目文枝の少年時代、“自分の電信柱”
2013年 08月 04日
『あんけら荘夜話』(桂文枝、編集小佐田定雄、青蛙房)
先日、神保町の某古書店で、以前から読みたかった五代目桂文枝の『あんけら荘夜話』をうれしい低価格で買うことができた。
上の写真は一昨年発行された新装版だが、私が買ったのは平成8年発行の初版で、下のように表紙は文字のみ、ご本人の顔写真はない。
新装版は消費税込みで2940円、初版も消費税込み2520円と決して安くはないので、気長に古書店で探していたのだった。新装版が出たので初版の在庫が新古書として回ってきたのだろう、非常に状態の良いものだった。
著者に印税として貢献するには新刊で購入する必要がある。しかし、3,000円近い本となると、落語の木戸銭なども含め財布と相談する必要があり、なかなかそうもいかない。資源の有効活用として著者にはお許しいただき、そのお返しではないが、こうやってブログでご紹介する次第。
『あんけら荘』とあるから、文枝が住んでいたアパートの名前か、といった誤解も与えかねない。実は私がそうだった。しかし、そうではない、ということを冒頭の文枝のご挨拶からご紹介。
あんけら荘由来
「あんけら荘」というとアパートの名前みたいですが、こんな名前のアパート、多分この世におまへんがな。
実を申しますと、「アンケラソ」よいうのは、あんまりええ言葉ではありません。ひとをボロクソに言う時に、
「なンぬかすねん!アンケラソ!」
てな具合に使う、まあ、はっきり言うたら「アホ」とか「ボケ」という意味の悪口なんです。でも、私、この「アンケラソ」という言葉の響きがなんだか好きなんです。のんびりして、とぼけた味があってね。
昔、一門でやっていた勉強会にも「あんけら荘・噺の夕べ」てなタイトルをつけたりしていました。
「あんけら荘」というのは私の心の中にある別荘です。この別荘には、私の思い出やとかがいっぱいつまっているんです。その別荘に、今宵はご招待させていただくことになりました。なんの愛想もございませんが、まあ、私の昔話を肴に一杯飲んどくなはれ。
1996年 初夏
あんけら荘主人 桂 文枝 敬白
「あんけら荘」は、文枝の“心の中”の別荘なのである。
たしかに、「アンケラソ」は、上方落語でお馴染みの科白(?)。私などは、枝雀の『青菜』を思い出す。
本書は落語作家の小佐田定雄による聞き書きである。巻末にある小佐田定雄の「あんけら荘・うら話」から先に紹介。
この本に紹介されている内容は五代目桂文枝というひとりのはなし家の歴史というだけでなく、上方落語の戦後史でもあります。
文枝師匠にお話をうかがいはじめたのは、平成四年(1992)の秋のことでした。それから三年半も歳月を費やしてしまったのは、ひとえに私の責任です。『忠臣蔵』の台詞ではありませんが、
「遅なはりしは拙者が不調法」
と、師匠ならびに待ちくたびれた読者の皆さんに深くおわびをしなくてはなりません。
ここにまとめられた内容は、師匠からうかがったお話の全部ではありません。大阪の玉出にある文枝事務所の和室で十数回にわたって聞かせていただいたさまざまなお話・・・ことに、ネタについての芸談もうかがったのですがページ数の都合もあってほんの一部しかご紹介できませんでした。
お話を数十本のテープに収めさせていただいたのですが、中でも子供時代の夜店のお話が入った一本は、十八番ネタの『天王寺詣り』をサシで聞かせていただいているような名調子で。私の宝物になっています。
文枝の『天王寺詣り』をサシで・・・・・・。なんという贅沢!
まさに、“五代目桂文枝というひとりのはなし家の歴史というだけでなく、上方落語の戦後史”と言える好著で、内容が盛りだくさん。
よって、何回かに分けて紹介しようと思う。
まず、昭和五年生まれ、本名長谷川多持の少年時代からご紹介。戦前の大阪の子供たちの遊びの様子が伝わる。
「遊びに行く」と言っても子供のことですから、ただただぶらつき歩くだけなんです。千代崎橋という橋のたもとに「いろは」という肉屋さんがあって屋根に時計台のある立派な家でした。古い大阪の人やったら、千代崎橋の「いろは」の時計台ちゅうたら知ってはりますわ。そこからずっと商店街に入って行くと、川っぷちにボート乗り場があって、そのボートに乗ったりもしていました。十銭ぐらいの小遣いを握りしめて行けたら上等でね、たまになんかの間違いで五十銭もあってみなはれ、大名気分です。一日遊んでおつりができました。
(中 略)
小学校三、四年になると日本橋(にっぽんばし)に「五階百貨店」という古道具を売っている所があって、ハガネを売ってました。それを買うて来て、自分で研いでナイフにするんです。藁で鞘を造ったりしました。大工さんが仕事してるとこから長い太い釘をとって来て、その先をたたいてつぶして、火で焼いてノミを造ったりもしました。そのノミで電信柱に五センチぐらいの深さの穴をあけます。その上に電柱と同じような色を塗った板を当てて蓋をして自分の宝物を隠すんです。そのころの子供は“自分の電信柱”というのを自分でつくってたんですな。昔の電柱は木の柱でしたから、こんな遊びもできたんですけど、今のはコンクリートですからね。穴をあけようと思うたらドリルが要りますわ。今の子供たちは気の毒ですな。
私も子供の頃の木の電信柱を思い出す。コールタールを塗った黒いイメージ。“自分の電信柱”は、さすがに持っていなかったなぁ^^
文枝は、小学校を大阪、いや日本で暮らしただけではなかった。
小学校は三軒家第二尋常小学校に四年生まで在籍しましたが、五年生の春から釜山(韓国)の叔父の家に世話になって、叔父の家から釜山第一小学校に通うことになりました。日本人生徒だけの学校で、そこで五年、六年の二年間をすごしました。
(中 略)
叔父は釜山で工場をいくつも持っていました。商売も広くやってたし、余裕もあったんで、私に勉強させて上の学校へも行かせてやろうというつもりで呼んでくれたんです。
多持は釜山でどんな少年時代を送ったのか、そして開戦後は・・・次回のお楽しみ。