教育再生実行会議の考える“グローバル化”より、“寺子屋化”が大事!
2013年 04月 23日
「教育再生実行会議」4月15日の配布資料
グローバル人材、イノベーション人材についての
委員の主な意見
1.グローバル人材について
【グローバル化を検討する上での視点】
○ 大学教育は、グローバル社会の中で我が国がどのように生き残り、発展するか、その中で大学はどうあるべきかという「国家戦略」としての視点が必要。
○ 日本が如何にして世界に対応するかではなく、如何にして世界に日本を理解させ、日本人の生き方を受け入れさせるかという発想に切り替え、単なる大学の生き残り策ではなく、国家的な文化戦略の一翼を担う政策として大学改革を位置付け直すことが必要。
○ 重要なのは、教育機関のグローバル化と同じ割合で、社会のグローバル化が進むこと。大学で育成した人材が我が国の企業や自治体で活用されないのでは、教育費が無駄。
【大学の機能等に応じた検討の必要性】
○ 大学は多様(①世界水準の教育研究拠点②全国的な教育研究拠点③地域に密着し貢献する中核的存在)であり、個々の大学の性格に応じた対応が必要。グローバル化を担う人材の育成については、圧倒的多数を占める③地域に密着し貢献する中核的存在としての大学においても必要であるかを検討すべき。
○ 相対的に国境を意識しないで済む学問領域と国境を意識せざるを得ない学問領域を区別した上で対応を考えるべき。
【日本人としてのアイデンティティの確立】
○ グローバル人材育成の大前提として、世界が羨む日本の高度で魅力的な伝統や文化、技術、国民性を子どもたちにしっかりと伝え、身に付けさせることを通して、世界の国々から尊敬され、信頼される日本人を育成することが必要。
○ 世界の中で日本人が重要な役割を担い、活躍・貢献するためには、日本人が自らの国や郷土の伝統や文化についての理解を深め、尊重する態度を身に付けることが大切。
○ ほぼ全ての国際的な知識を日本語で学ぶことができるまでにした先人たちの努力の意図に思いを致し、無批判な欧米基準への追随や経済的利益の追求には警戒心を抱き、日本文明の幸福基準を明確に自覚し、その上で外国人と対等に交われる人材の育成を目指すべき。
【大学の国際化】
○ 10 年後、20 年後にはすべての日本の大学が世界ランキング50 位以内から落ちてしまう状況もあり得る。日本の大学に最も不足しているのは国際化。
○ 世界大学ランキングでは、学生や教員の外国人比率が重要な項目であり、大学の国際化推進のため、留学生の受け入れ、海外留学の奨励、語学教育の強化、外国人教員の積極的な登用、英語の授業が必要。
○ 大学における人材の流動性は、学生と教員だけではなく事務にも求められる。教育や研究現場を支える事務部門にも年俸制を導入し、国際的な対応ができる柔軟な組織運営を実現。その際、流動した人材に不利益が生じないよう生涯給料に留意すべき。
○ 英語による学位プログラム(いわゆるグローバル30)の予算が確保されておらず、将来が不透明。教育プログラムには長期的な財政支援が不可欠。
“日本が如何にして世界に対応するかではなく、如何にして世界に日本を理解させ、日本人の生き方を受け入れさせるかという発想に切り替え”って言うけど、それって少し「上から目線」すぎませんか。
もし、日本の伝統的文化を世界に理解してもらおう、という意味なら理解できるが、きっとこれは違うなぁ。
そして、「日本人の生き方を受け入れさせる」という言葉、飛躍すると「靖国」まで行くなぁ。
同じ日本人でも、この文章の本意は分からない。こんな文章を書く委員に、これからの教育のことを考えさせていいの?
産業競争力会議と同様、安倍は新自由主義者・競争至上主義者を集めた会議を組織化したような気がする。
中には頷ける内容もないことはないが、その大きな目論見の一つが「教育のグローバル化」である以上、私はこの会議の成り行きを、眉にツバして見続けざるを得ない。
産業競争力会議と同様に、人間をストック可能な“物”や“商品”、“植物”か“魚”のように見なしていることが、文面から強く漂っている。
最近電車でたまに見かける、ある英会話教室の「その国は、英語だけが足りない」という広告が大嫌いだ。この教室は安倍や橋下とグルになっているんじゃないかと思う位、嫌いだ。本質を分かっていないことに加え、どこかのコーヒーのコピーの盗作の匂いもある、センスのないコピーだ。冗談じゃない、英語の前に足らないものがいくらでもある。
もし、日本人が、日本の伝統文化に根差したアイデンティティで世界に誇れるようになるには、教育で必要なのは、「読み書き算盤」が第一であって、次は「四書五経」を学ぶ(暗唱する)ことではないか。そう、“寺子屋”教育こそが日本の教育の原点だと思う。

阿川弘之座談集『言葉と礼節』(文春文庫)
阿川弘之の座談集『言葉と礼節』(2008年8月文春から単行本発行、2012年3月に文春文庫入り)の藤原正彦との座談から引用。
藤原 今の学生なんて、二十年前の学生に比べれば、ロクな個性が育っていません。すぐれているのはせいぜいファッション感覚ぐらいで、個性の尊重などと言っていると個性は育ちません。小学校では「個」より「公」に尽くせと教えたほうが、ずっと個性的て面白い人間が増えるでしょう。それに昭和十五年の尋常小学校の国語は週十二時間あったのに、今は実質四、五時間。三分の一しかないんです。*初出は「文藝春秋特別版」2006年11月臨時増刊号
阿川 そんなもんですか。だから数学者の藤原さんが一に国語、二に国語、三、四がなくて、五に算数と言ってくれるのは実にありがたいんでね。僕が家で子供たちにうるさく言ってたのは商売柄、言葉遣いだけです。「とんでもございません」なんて言葉はございません、とかね。
藤原 要するに本質的なのは寺子屋教育なんですね。江戸時代の寺子屋の先生は教育の基本を知っていたんです。世界中の教育学者が今そのことを見失っている。それを財界なんかが主導して、小学生にお金の話を教えろとか、中学生から株の売買を教えろとかとんでもないことを言い出している。
阿川 え、株の買い方まで教えるの?
藤原 アメリカの小中学校、二万校で教えているんです。実際に買うわけではなくて、コンピューター上で売買のシミュレーションして、どれだけ儲けたかを競争させる。アメリカの教育学者は、子供たちが新聞の経済欄に目を通すようになって社会への目が開かれたと自画自賛しているんです。こういうの、付ける薬がないっていうんですよね(笑)。
阿川 そりゃあ、ほんとに付ける薬がないね。
藤原 小学生が経済欄なんて読む必要がない。そんな暇があったら本を読んで、掛け算をしっかりやったほうがいいです。だからアメリカの公教育のうち、初等・中等教育はほぼ壊滅していますよ。それを真似して日本はゆとり教育で失敗したわけですから。
阿川 そうですよ。読み書き算盤が基本なんです。
藤原 日本の財界や経済界には、ほんと腹が立ちますよ。浅知恵、思いつきで教育に口を出してくる。小学校で起業家精神を育め、金銭教育をしろ、パソコンを教えろ、英語を必修にしろ、大学では卒業して産業界ですぐに役立つ人材を養成しととか。傍若無人です。国賊です。
阿川 いいぞ、いいぞ(笑)
まったく同感である。もし、教育を再生しようというのなら、阿川弘之や藤原正彦などが会議のメンバーに入って欲しいものだが、そういった発想が安倍にはなかろう。「グローバル化」のために英語の授業が増えれば、ますます国語の時間が減るだろう。英語でチャットできる人間が増えても、とても、“世界が羨む日本の高度で魅力的な伝統や文化、技術、国民性を子どもたちにしっかりと伝え、身に付けさせることを通して、世界の国々から尊敬され、信頼される日本人を育成する”ことにはなりそうにない。
教育再生実行会議のアイデアは、まさに、“浅知恵”であり、“思いつき”の“再生論”である。いわゆる「国家百年の計」に立って教育を考えているとは思えない。“グローバル化”という表層的な事象にのみ関心があるが、日本人として誇れる人材を育てる、という“志(こころざし)”がないのだ。
“再生”という言葉だ妥当だとするなら、かつての代表的日本人を育んだ「寺子屋」や「旧制中学」「旧制高校」を思い出すべきだろう。ハウス野菜や魚の養殖のような考えで人材育成を捉えるのではなく、基礎的な素養をしっかし身に着け、どんな困難にも打ち克てる人材を、どう育てるかが基本になければ、グローバルだろうがインターナショナルだどうが、ローカルだろうが、役には立たない。
私のビジネスの経験からも、まず国語ができていなければ、そして、伝えるべき日本文化についての経験や知識がなければ、英語ができても、何ら深いレベルで海外の人とコミュニケーションなどできない。英語は、あくまで伝える道具。伝える対象、いわばコンテンツが重要なのである。数年前にユダヤ人に江戸時代の長屋の生活や落語のことを説明した時のことを思い出す。たどたどしい私の英語を非常に興味深く聴いてくれたし、相手からはユダヤの文化などについて得難い情報も授かった。
紹介した教育再生実行会議メンバーの「大学の国際化」についても、見当違いの発想が目立つ。
“大学における人材の流動性は、学生と教員だけではなく事務にも求められる。教育や研究現場を支える事務部門にも年俸制を導入し、国際的な対応ができる柔軟な組織運営を実現。その際、流動した人材に不利益が生じないよう生涯給料に留意すべき”とあるが、年俸制が国際的な対応につながるんだ・・・・・・。
ユニクロの発想と近いなぁ。事務員と年俸制って、何かしっくりこない。受験や定期試験などを含め、業務時間に山と谷がありそうだ。時間外手当の枠組みをはずし、低い基準で年俸制導入を進め、その先は正規社員ではない派遣社員化になりそうな筋書きが見えないでもない。教育に携わる人間に、競争の原理をあてはめる無理を感じる。
「グローバル化」と言うキーワードと「教育」の相性の悪さについて、「内田樹の研究室」の記事「学校教育の終わり」から引用したい。内田は「食い合わせが悪い」と表現する。
「内田樹の研究室」の該当記事
経済のグローバル化を強力に牽引しているのはアメリカという国家だが、アメリカの国家戦略を実質的にコントロールしているのはすでに政治家ではなく、グローバル企業である。
国民国家はグローバル資本主義にとって、クロスボーダーな経済活動を妨害するローカルな障壁だが、利用価値がある限りは利用される。
国家資源は、政治家も官僚組織も軍隊もメディアも、もちろん学校教育も総動員される。
だから、グローバル化の進行過程で「国民国家の次世代の成員を育成する」といった迂遠な目的を掲げる公教育機関が存続できるはずがない。
グローバル資本主義は国民国家とも、学校教育とも「食い合わせが悪い」のである。
だから、「グローバル化に最適化した学校教育」はもう学校教育の体をなさない。教育にかかわるすべてのプレイヤーが「自己利益の最大化」のために他のプレイヤーを利用したり、出し抜いたり、騙したりすることを当然とするようなれば、そこで行われるのはもう教育ではないし、その場所は「学校」と呼ぶこともできない。
現に、学校のグローバリスト的再編を求めている当のグローバリスト自身、日本の学校がもう学校としては機能していないことをよく理解している。だから、彼らは平気で自分の子どもには「スイスの寄宿学校で国際性を身につけろ」とか「ハーバード大学で学位をとってこい」というようなことを命じる。日本の学校が「もうダメ」なら、外国の学校で教育を受ければいい。そう言い切れるのは、「学校教育の受益者は本人である」という信憑が彼らのうちに深く身体化しているからである。優秀な人間はどんどん海外に雄飛すればいい。日本なんかどうせ「泥舟」なんだから、沈むに任せればいいというのはひとつの見識である。
だが、そういう人は学校教育については発言して欲しくない。
繰り返し言うが、学校教育は国民国家内部的な「再生産装置」であり、ほんらい自己利益の増大のために利用するものではないからである。
残念ながら今の日本の支配層の過半はすでにグローバリストであり、彼らは「次世代の日本を担う成熟した市民を育てる」という目的をもう持っていない。
教育再生実行会議が進めようとする施策は、ますます競争の世界に「社会的共通資本」である教育を引きずり出す。そうなれば、内田樹が指摘するように、“教育にかかわるすべてのプレイヤーが「自己利益の最大化」のために他のプレイヤーを利用したり、出し抜いたり、騙したりすることを当然とするようなれば、そこで行われるのはもう教育ではないし、その場所は「学校」と呼ぶこともできない”のではないか。

宇沢弘文著『社会的共通資本』(岩波新書)
宇沢弘文著『社会的共通資本』(岩波新書、2000年初版)の「第4章 学校教育を考える」から引用したい。
教育とは何か
教育とは、一人一人の子どもがもっている多様な先天的、後天的資質をできるだけ生かし、その能力をできるだけ伸ばし、発展させ、実り多い、幸福な人生をおくることができる一人の人間として成長することをたすけるものである。そのとき、ある特定の国家的、宗教的、人種的、階級的、ないしは経済的イデオロギーにもとづいて子どもを教育するようなことがあってはならない。教育の目的はあくまでも、一人一人の子どもが立派な一人の社会的人間として成長して、個人的に幸福な、そして実り多い人生をおくることができるように成長することをたすけるものだからである。
今、教育再生実行会議とやらがやろうとしていることは、著者が「あってはならない」と指摘する中の、“経済的イデオロギー”にもとづいて教育しようとする試みと言ってよいだろう。
同じ章の「大学の自由」の部分からも少し引用する。
今、世界の大学人が共通してもっている問題意識は、政府からの圧力に対して、大学の自由(Academic Freedom)をいかに守るかということである。これは、国立大学はもちろんのこと、私立大学も、国からの財政的援助に対する依存度がきわめて大きくなってきたことに起因する。
もともと、大学は、重要な社会的共通資本として、一国の文化的水準の高さをあらわす象徴的な意味をもち、その国の将来の方向を大きく規定するものである。このとき、国(Nation)の統治的な機構としての政府(State)からの力に対して、大学の自由をどのようにして守るかということが重要な課題となる。
まさに、日本の教育はTPPを含めて、“グローバル経済”という政府のイデオロギーによる圧力の危機を迎えている。財政的な援助を求めるあまり、本来個々の大学が持っていた大事な大学としての個性や文化、そして自由を失ってはならないだろう。
教育の危機を考えると、大河ドラマではないが、「ならぬことは、ならぬ」と譲れぬ一線を守るために教育界の連携や毅然とした大学人の存在を期待しないわけないはいかない。
教育“再生”というからには、もう一度生まれるための理想とする姿が過去にある、という前提のはずだ。その理想像をどう表象化するか、ということから議論が始まらなければならないのではなかろうか。
私は、江戸以降の寺子屋的な学習経験を経た数々の偉大な明治人を、まず理想像としてイメージする。自国の文化に誇りを持って、世界を相手にひるむことなく堂々と渡り合いながら、自己の利益ではなく、より良き国づくりのためを第一に生きた多くの先人たちが、どのような教育によって育ったのかを振り返ることから、“再生”を考えるべきだろう。そうした場合に、先に“グローバル化”というキーワードは存在しないはずである。それは、あくまで結果として“グローバル化にも対応できる人間”であるわけで、その人間は国語教育を無視した英語授業氾濫の中では育つわけがない。国語は、日本人として生きること、考えることの基本であるが、英語はあくまで“手段”であり“道具”である。
教育の成果とは、非特定の道具を正しく使うための基礎的な知識や知恵、経験の場を提供し、一歩進んで道具をより使いやすいように工夫したり、新たな道具を生み出すことにこそ求められるのであって、専門教育ではない分野で、ある特定の道具の使い方を学ぶ授業に偏重したカリキュラムは、基本的には書道や、絵画やピアノ演奏などの授業に偏重したカリキュラムと同じように、誤りである。教育再生実行会議の示す道は、“グローバル化”を唱えながら、成長の後、自国の文化への誇りもなく、自己利益ばかりを考え世界、国家、社会という枠組みで考えることのできない“ローカル”な人間をつくるだけではなかろうか。
その上を行くのが坂本龍馬でしょう。
「船中八策」「藩論」などにも残されていますが、龍馬の考え方のスケールこそ“グローバル”と言ってよいと思います。
その彼が、どのような教育を肉体化してあのようになったのか、ということを考えれば、英語の授業を増やせばいい、などという馬鹿げた発想にはならないはずです。
たとえば、乙女姉さんの厳しい中に愛情溢れる弟への教育こそ、今日求められているものではないでしょうか。
