145年前の旧暦3月13日と14日、西郷と勝会談のミステリー。
2013年 04月 22日
13日が高輪の薩摩藩邸下屋敷、14日が芝の薩摩藩邸蔵屋敷で行われた、ということになっている。同じ芝(三田)にあった上屋敷は前年に焼き討ちされており、会談に使うことはできなかった。
先週土曜に行った三田落語会会場近く、田町駅のすぐ前の某自動車会社のビルのあたりが当時の蔵屋敷で、西郷・勝会談の記念碑がある。昭和29年に建てられたらしい。


記念碑にある会談模様のレリーフ。左が西郷、右が勝。
三田落語会の後の居残り会でSさんから記念碑を撮影したことをお聞きし、少しググってみたら、ちょうど今の時期に会談があったことを知った次第。
この会談があったから、江戸が戦火にまみれることを防いだと言えるが、その後の彰義隊と官軍との戦い、そして会津や長岡での戊辰戦争の悲劇までを防ぐには至らなかった。

吉村昭著『彰義隊』(新潮文庫)
その日の様子を吉村昭著『彰義隊』から引用する。
西郷は、山岡の後を追うように駿府をはなれ、幕僚とともに江戸にむかっていた。大総督府は、三月十五日に江戸へ進入することを決定していたが、その件について旧幕府側と協議するためであった。
三月十三日、西郷は、江戸高輪の薩摩藩邸に入り、江戸城に使者を立てて、その旨をつたえた。それを知った山岡は、すぐに薩摩藩邸に出向き、身辺警護の任についた。
勝が、幕府側の代表者として馬で江戸城から薩摩藩邸に行き、座敷に通された。
西郷が、山岡とともに姿をあらわし、勝と対座した。以前に一度会ったことがある二人は親しげに挨拶をかわし、雑談になった。
かれらは、互いの考え方をさぐるように肝腎のことについてはふれない。西郷は、勝が益満を世話してくれたことに礼を述べたりした。
その日の昼すぎから雷鳴がとどろき、霰が降ったりしていたが、やがて天候が回復した。
勝は山岡と相談して、西郷を薩摩藩邸に近い愛宕山に案内した。山上からは、江戸の町々が遠くまで見渡せた。
勝は、家並みのひろがりに眼をむけながら、
「明後日は、これが焼け野原になっているかも知れませんな」
と、つぶやくように言った。
十五日に朝廷軍が江戸に進撃することを知っていた勝は、西郷がそれを実施するかどうか、探りを入れたのだ。
西郷は、無言であった。
翌日、勝は再び薩摩藩邸におもむいた。
山岡とは、もちろん山岡鉄太郎(鉄舟)。益満とは益満休之助のことで、西郷の命を受けて江戸薩摩藩邸を本拠に浪人を集めて江戸で暴れさせる工作をした男のこと。これが、のちの薩摩藩江戸藩邸上屋敷の焼き討ちにつながり、鳥羽・伏見の戦いのきっかけともなる。のち、幕府方により逮捕され処刑される直前に勝海舟が身請けした。西郷は、そのことで勝に礼を言っているわけだ。益満は山岡の警護役として駿府にも赴いていた。
会談の内容は割愛。それよりも私が気になっていることがある。読んでいただいたように、史実に忠実なことで知られる吉村昭は、翌日の会談場所について“初日とかわって三田の薩摩藩邸(蔵屋敷)”などとは書いていない。この文脈では、初日と同じ高輪の下屋敷で会談があったということになる。
吉村昭が、二日目の会談場所を間違うなどということがあるのか・・・・・・。二日とも高輪ならば、紹介した三田の立派な記念碑はいったいなんなのか。
ちなみに、高輪の下屋敷があった場所は、現在のグランドプリンスホテル高輪(旧高輪プリンスホテル)のあたりらしいが、この一帯に西郷・勝会談を記念するものは存在しないようだ。

松浦玲著『勝海舟』(中公新書)
その謎の答えを、松浦玲著『勝海舟』(中公新書)に探してみたら、こんな記述があった。
勝海舟と西郷隆盛の会談は、明治元年三月十三日と十四日との二回にわたっておこなわれた。場所は、江戸の薩摩屋敷。
この薩摩屋敷がどこであったかには、議論がある。海舟自身にしてからが、日記では、「十三日、高輪薩州の藩邸に出張」「十四日、同所に出張」と、二度とも、高輪南町の薩摩下屋敷まで出かけたように書いているのに、『清譚』の方では「西郷はおれの出したわずか一本の手紙で、芝田町の薩摩屋敷までのそのそ談判にやってくるとは、なかなか今の人では出来ない事だ」と語る。
ちなみに、この『清譚』は『氷川清話』と同じ内容である。この著者は講談社学術文庫の『氷川清話』を江藤淳と一緒に編集している勝海舟研究者。この後に、次のように続く。
おまけに、この場所は海舟の方で選定したのだともいう。高輪の下屋敷と芝田町の蔵屋敷とでは、直線距離で二キロもはなれている。両軍の前線がせりあっている状況ではこの二キロはたいへんな違いである。
また別に、前年末幕府の手で焼き払われていた三田の旧屋敷のかたすみで会見したとの記録もある。記念碑は、海舟談話に従って芝田町の薩摩藩蔵屋敷跡に立っている。材料が不足しているので、いまは断定を避けたい。
私は、吉村昭は、記憶の時間的な問題を考え、「日記」を「清譚」より重要視して、高輪にしたのだろうと思う。しかし、あまり大きな声でそれを言うことは憚れたのではなかろうか。
ミステリーはまだ続く。実は、池上本門寺の中にも、西郷と勝の会談を記念する碑がある。

揮毫は西郷従道による。
松涛園という庭にあった四阿(あずまや)で二人の会談が「慶応四年三月」にあった、とされているのだ。ちなみに池上本門寺は東征軍(官軍)の本陣。西郷が本陣にいたであろうことは容易に察せられる。
このあたりは、何とも紛らわしいのだが、次のような推測ができないこともない。
西郷が池上本門寺に入ったのは3月12日ではなかろうか。13日とされているようだが、12日なら辻褄が合う。12日が池上本門寺、ということである。
山岡から駿府での首尾を勝が聞いたのは10日とされている。駿府で9日に西郷と会ってから、途中馬に乗り換えて翌日には江戸に戻っている。
吉村や他の記録に残っている通り西郷が13日に江戸入りしたのではなく、一日早く12日に池上本門寺に入っているなら、勝がその日にすぐ西郷を訪ねても不思議はない。いわば、薩摩藩邸での公式会談の事前協議とも言える話し合いがあったのではなかろうか。
特に勝にとっては協議すべきことが、たくさんある。3月9日の駿府での会談で、西郷から山岡に伝えられた条件は下記の通りであった。
1.徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること。
2.江戸城を明け渡すこと。
3.軍艦をすべて引き渡すこと。
4.武器をすべて引き渡すこと。
5.城内の家臣は向島に移って謹慎すること。
6.徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、処罰すること。
7.暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧すること。
その場で第二条以降は了承した山岡も、第一条だけは絶対受け入れられないとねばったようだが、結果は西郷の預かりとなっていた。これらのこと以外にも篤姫や和宮のことなども含め、西郷としては過激な面々を抑えて、かつ官軍としての実を取るため、勝としては江戸を戦火から救うとともに、徳川家の面目を保つために、両者が検討すべきことは、少なくない。
12日に池上本門寺で会談があったとすれば、その内容は極めて秘密に属することだったように思う。だから、記録も残っていないのではないか。
しかし、勝海舟の日記にも「清譚」にも、池上本門寺で会談があったことは記されていない。松浦玲も吉村昭も、“池上会談”にはふれていない。
13日は薩摩藩邸ではなく池上本門寺での会談、翌4日は三田の薩摩藩邸で会談、ということもありえるか。
少しまとめてみよう。池上本門寺での会談もあった、という前提。
(1)12日に池上本門寺で事前会談、13日は高輪の薩摩藩邸、14日に三田の藩邸で会談
(2)13日に池上本門寺で会談、14日は三田の薩摩藩邸で会談
(3)13日に池上本門寺と高輪の薩摩藩邸で会談、14日に三田の藩邸で会談
高輪か三田か、というミステリーに加えて池上本門寺の会談の有無、これまたミステリーなのだ。これこそ、「歴史秘話」ヒストリーということだなぁ。
会談が“怪談”めいたところで、本日はお開き。
p.s.
後から調べてみたら、どうも(1)が正しそうである。しかし、吉村昭も、松浦玲も池上会談にふれていないのが、不思議だ。
吉村昭は、池上本門寺の記念碑のことを知らなかったとは思えないのですが、裏を取れなかったので割愛したように察します。
もし、勝の「日記」が誤りで、「氷川清話」の高輪が正しいとしたら、三田の記念碑は取り除かなければなりませんね^^
