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命日に、松本良順に関する二つの小説や、新島夫妻との縁などを思う。

 3月12日は、少し前に吉村昭の『暁の旅人』で紹介した松本良順の命日。
2013年1月26日のブログ

 同書や司馬遼太郎の『胡蝶の夢』の主人公、松本良順は、天保3年6月16日(1832年7月13日)生まれで、 明治40(1907)年の3月12日に、晩年を過ごした大磯で亡くなった。

 松本良順は、後に順天堂となる私塾を開いていた佐倉藩医佐藤泰然の次男として生まれ、父の友人である幕医松本良甫の養子となった。長崎に海軍伝習所が開設され、教員としてオランダから軍医も来日することを知り、長崎に出てオランダ軍医ポンペに西洋医学を学ぶ。長崎養生所設立にも貢献した後、蘭方医として幕末には幕府の(西洋)医学所頭取となった。新撰組との縁も深く、上京した際には、親交のあった近藤勇を訪ね、屯所にて隊士の回診を行うとともに、隊の衛生管理指導も行った。戊辰戦争では幕府軍のために戦場に赴いて兵士たちの治療にあたった。会津では日新館で負傷兵の手当をし、その後庄内を経て、仙台藩へ。
 松島沖に停泊中の軍艦「開陽」で榎本武揚から一緒に蝦夷へ行ってくれと誘われたが、土方歳三の意見を踏まえ、蝦夷行きを断ったということは、1月のブログで『暁の旅人』の引用を含め紹介した通り。
 幕府方についたため投獄されたが、のちに山県有朋の要請により陸軍軍医部を設立し、初代軍医総監となる。名を松本順と改め、貴族院の勅選議員を務めた。

 長崎大学附属図書館のサイトに、ポンペと一緒に写った良順の写真がある。
長崎大学附属図書館サイトの該当ページ

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 前列の右側にポンペ(本名は、ヨハネス・レイディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メールデルフォールト)、その左に良順。

 シーボルトに比べてポンペの名は馴染みが薄いように思うが、二十代で日本にやって来て、言葉や文化の壁のある異国の地で献身的に西洋医学を教えたポンペの名は、もっと知られてよいと思う。

 さて、ポンペから西洋医学の精神と技術を習った松本良順は、落語にも縁があって、二代目の小さんに「禽語楼」という楼号を名乗るよう勧めたのが松本である。その由来は、江戸の昔、「小さん金五郎」という人情本があり、小さんという芸者と金五郎という旗本崩れが憤死するという艶っぽい物語だったらしい。この「小さん金五郎」を当て込み、もう一方では、二代目小さんが非常に高い声で、鳥がさえずるように喋るところから、「禽が語る」という文字をあてて楼号にしたらどうかと、本人に進めたと言われる。この二代目小さんは、最晩年に弟子の小三治に芸名を譲って、自分は柳家禽語楼となった。よって、二代目と言われるより、禽語楼の小さんとして通っている。

 『暁の旅人』を読了後、本棚から埃をかぶった文庫版『胡蝶の夢』(四分冊)を取り出して読んでいた。
 ボリュームとして、『胡蝶の夢』はざっと『暁の旅人』の四倍。そして、司馬の方は、松本良順一人が主人公ではなく、もう一人司馬凌海(島倉伊之助)についても同時並行的に描かれているし、幕末の状況に関する司馬ならではの幾層にも重なる味付けがされている。松本良順だけに関しては、戊辰戦争での会津で医療活動のことや、晩年の家族の不幸のことや大磯での生活などの記述は、吉村の方が圧倒的に多い。

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吉村昭著『暁の旅人』(講談社文庫)


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司馬遼太郎著『胡蝶の夢』(新潮文庫)

 歴史小説と史伝について、先日も引用した『暁の旅人』の文芸評論家でアンソロジストの吉國善己による解説を再び紹介。
 古い制度を破壊するためにエネルギッシュに働く『胡蝶の夢』と比べると、吉村の描く良順は地味な印象は拭えないが、これは歴史小説と史伝との違いにほかならない。ただ本書には、司馬作品とは異なる魅力があるのだ。
 会社勤めをしていれば、長年受け継がれてきた仕事の進め方が非効率に思えることもあるはずだ。だが、それを変えようとしても、すぐには実行できない。古いマニュアルに慣れた先輩には反対されるだろうし、自分のアイデアが採用されても、それによって業績が劇的に改善される保証もないので、上司も二の足を踏む確率は高い。それでも改革を進めようと思えば、まずこっそりと自分で試して実績を上げ、そのデータを使って賛同者を増やしていくなど、丁寧に根回しをしなければならない。トップダウンで命令が出せる経営者ならいざしらず、組織の中で生きる個人は改革を進めるにも慎重にならざるを得ない。
 これに倣うならば、『胡蝶の夢』は自分の理想を強引にでも進められる経営トップの視線で書かれた物語であり、『暁の旅人』は幕府という巨大組織の一員に過ぎない良順が、改革ブームの後押しを受けながら、少しずつ医療改革を行っていく物語といえるだろう。いってみれば吉村が目指したのは、良順を等身大の人間としたからこそ際立つ偉大さであり、誰もが身近な存在に感じられるからこそ生まれる限りない感動なのである。

 もちろん吉國善己氏は吉村派として、こう書いているのだろう。

 歴史小説は、“劇的”な物語とするため、主役を中心とする人物像をどう描くか、たぶんに作者の思い入れが反映される。そして、史伝は、出来る限り作者の思い入れを排し、遺された記録を掘り起こすことで、等身大の人物像をあぶり出そうとする。

 たとえば、当時の将軍家の医師として江戸城詰めをする奥(御)医師の頂点には、かつてシーボルトに学んだ蘭医の伊東玄朴がいた。この伊東玄朴は、司馬も吉村も、非常に出世欲がある政治好きな人間として描かれている。玄朴は、最新の西洋医学をポンぺから学んで江戸に帰ってきた良順を、自分の立場を脅かす者と見なしていた。

 では、試みとして、伊東玄朴に関する記述から、二つの小説を読み比べてみる。
 どちらも、良順が長崎から江戸に戻ってすぐの頃、良順と玄朴とがからむ描写からの引用。

 まず、『暁の旅人』から。江戸に戻ってすぐの場面。かつて伊東たち八十余名の医者が協力してつくった種痘所の施設を元に、幕府が(西洋)医学所を開設し、二代目の頭取として伊東が緒方洪庵に要請し、洪庵が大阪から赴任して間もなくの頃である。

 翌日、かれは医学所の隣りにある頭取役宅におもむき、緒方洪庵に新任の挨拶をした。医学所に通うようになり、奥医師として江戸城へも日を定めて足をむけた。
 かれは、伊東玄朴が、江戸の蘭方医を支配し、自分の目の前に大きく立ちはだかっているのを感じていた。
 玄朴は肥前藩領の貧農の子として生れ、貧しさから逃れ出るために医家への道をえらび、やがて蘭学をまなんでシーボルトの門下生となった。
 その後、江戸に出て刻苦勉励の末、肥前藩の藩医となり、多くの患者の治療にあたって多額の富を貯えた。
 かれは、大医家としての外観をそなえようとして、下谷御徒町和泉橋通りに表口二十四間(約43.6メートル)、奥行三十間(約54.5メートル)という大邸宅を新築した。それが江戸市中の評判となり、多くの患者が殺到して門外に順番を待って並ぶほどになり、年間の収入は千両以上と噂された。
 その間、かれは積極的に新知識の吸収につとめ、多くの医学書に親しんで、その学識をしたう門下生は百名近くに達していた。
 幕府は、玄朴の学識と実行力を高く評価し、前年の暮れに奥医師最高の地位である法印の座に任じ、名実ともに蘭方医たちの上に君臨していた。
 大きな権勢を持ったかれに、些細なことでもその意向をうかがわなければ、事が少しも進まない。玄朴に話を通さずに処理すると、必ず幕吏を動かして妨害する傾きがあった。
 奥医師の蘭方医たちは、陰で玄朴が異常なほど金銭欲と名誉欲に執着しているち非難していたが、富と名誉を一身に集めた玄朴に抗するすべはなかった。
 医学所のことでも、玄朴は、長崎から帰着してそうそうに頭取助に任命された良順に嫉妬の感情をいだいているようだった。そのため、奥医師最高位の法印であることを前面に押し出し、良順を威圧する。このようなことは、長崎では経験したことはなく、良順は鬱々とした気分であった。



 さて、次は『胡蝶の夢』から。司馬は、良順と玄朴の対面を描く。

 江戸に帰った良順は、四方へあいさつまわりをしなければならない。
 玄朴卓にも、あいさつに伺候した。養父の松本良甫が心配して、
「相手は法印長春院さまであることを忘れぬように」
 と、あらかじめさとしたが、良順は玄朴を単に悪党としてしか見なかった。良順という男は、多分に倫理主義の性癖をもっていた。かれにいれば医師という仕事そのものが倫理的にきわどい。ひとを死や病気から救済しようという点は、これほど倫理に即した職業はないが、それをおどしのたねにしておのれの欲望を遂げることができるという点では、これに似た仕事など地上にありえないといえる。医師だけはいつでも人非人になることができると良順はおもっていた。というより、頭を施(めぐ)らせばそのまま人非人になれるきわどさを自覚しつつ、たえず頑固に目を正面にむけていなければならないしごとであると思っていた。
(中 略)
 玄朴宅へあいさつにゆくと、奥座敷に通された。良順は登城のときの医官の服装である十徳を着て中啓を待っていた。
 やがて玄朴が入って、上座にすわった。良順は本来なら平伏しなければならない。相手はおなじ官位といっても法印長春院であり、位階だけでいえば大名に相当する。
 が、良順は同僚に対するようにかるく頭をさげた。それそのものが挑発である。色の黒い玄朴の顔が、赤黒くなった。
「長崎はどうであった」 
 と、玄朴はやさしくたずねてやろうと思っていたのだが、その言葉が出なかった。
 —こいつは、やはりわしに一物持っておるか。
 と、玄朴はおもった。玄朴はかねて良順が自分に悪意をもちつづけていることは気づいている。しかしこうも露わな態度を示されては黙っているわけにはいかず、
「良順どの、そこもとは夷人になったか」 
 と、わざと目をつぶって言った。目をひらくと生れつき眼光が鋭すぎることを玄朴は知っている。目を閉じたぶんだけ、言葉の激しさをやわらげてやったつもりである。
「夷人の礼なきを真似るようでは、殿中のお役目はつとまるまい」
 といったが、良順はそっぽをむいている。玄朴は、ひそかに復讐を考えた。



 この部分的な引用のみで判断するのは難しいが、歴史小説と史伝の違いを少しはイメージすることはできる。
 吉村は、伊東玄朴邸の巨大さを具体的な数字、彼の権勢や金銭欲を史実に残る記録を用いて示そうとする手法をとっている。まさに史伝的である。そして、良順の玄朴への思いにも、過度な感情移入を避け、「良順は鬱々とした気分であった」と記すことにとどめている。
 かたや司馬は、玄朴と良順の面会の席における良順の態度に、明確な玄朴への悪感情を表現する。そして、玄朴は、その良順の態度を不遜と思い何らかの復讐を企てる、と描く。あくまで、この対面場面は作者の想像による。

 どちらが良いとか悪いではない、と私は思う。どちらも楽しめるのが幸せなのだと思う。


 今回の記事の何とも散漫なタイトルが物語るように、松本良順という人のことを思う時、司馬と吉村の二つの小説に限らず、当節はNHKの大河ドラマ「八重の桜」が描く新島(山本)八重と新島襄夫妻のことも思い起こされる。

 松本良順は、新島夫妻と次のような縁で結ばれている、と思う。

 まず、八重とは、戊辰戦争の際に会津に赴いた良順が、日新館で会津の負傷兵を手当てする、という縁がある。もちろん、幕臣として最後まで徳川のために自分の医術を駆使した良順と、女だてらに鶴ケ城から官軍に向かって鉄砲で応戦した八重には、戦友としての縁がある。

 そして、新島襄との縁は、二人とも人生の最後を大磯で迎えていることだ。良順は、晩年、かつてポンぺから海水浴が人体に良いことを聞いていた。『暁の旅人』から引用。

 陸軍軍医総監を辞する前年、かれは伊豆の熱海温泉に遊び、帰途、大磯の宮代屋という宿屋に泊り、その地を調べた。
 大磯は潮の干満が大で、気候温暖、砂地が広く清潔であり、海水浴場としてのすべての条件をそなえているのを知った。
 かれは、宮代屋の主人宮代謙吉に大磯を海水浴場とすることを強くすすめ、宮代は僻地である大磯が繁栄することにもなると奔走したが、その効は薄かった。
 順は、折にふれて海水浴の効能を説き、大磯が海水浴場として最も適した地であると説いてまわった。しかし、大磯は僻地であることから、足を向ける者は稀であった。
 明治二十年(1887)七月十一日、横浜、国府津間の鉄道が開通し、東京から大磯まで汽車で行くことが可能になった。
 これによって京浜地区から大磯に海水浴に行く者が増し、年々にぎわいをきわめた。これに伴って政財界の者も競うように別荘を建て、むろん順もその一人であった。


 毎年七月一日の大磯の海開きは、まず松本順の碑で黙祷を捧げることから始まる。大磯海水浴場の祖、なのだ。

 その大磯の別荘で松本順が明治40年3月12日に亡くなる17年前、明治23年の1月23日に新島は大磯で満46歳で亡くなっている。同じ天保年間の生まれだが松本より11歳も年下だった新島襄は、同志社設立運動中の旅の途中に前橋で倒れ、まだ良順の勧めで海水浴場として開発される前の大磯の旅館百足屋で静養中に、旅立った。

 漫画を元にしたテレビドラマ「JIN-仁」に松本良順や伊東玄朴も登場したようだが、私は見ていないので、このドラマに関連して松本良順について書くことはできない。どうも、ああいうSF的なドラマは苦手なのだ。

 
 松本良順について考えると、どうしても二つの小説のことと、会津と大磯という地で縁のある新島襄と八重夫妻のことに思いが至る。

Commented by 佐平次 at 2013-03-13 10:19
越前の旅に司馬はいいガイドを務めてくれました。
しかし小説としては吉村の方が好きです^^。

Commented by 小言幸兵衛 at 2013-03-13 11:25
佐平次さんが吉村派なのは、十分存じております^^
越前行脚は良い旅だったようですね。
後日、ぜひ土産話をお聞きしたいものです。

Commented by balaine at 2014-10-31 03:16
医師として良順について興味を持っています。また、山形の庄内地方の遊佐出身である佐藤籐佐の孫としても興味あり、少し調べ物をしております。そんな事で貴ブログに巡り会いました。

Commented by 小言幸兵衛 at 2014-10-31 09:05
お立ち寄りありがとうございます。
佐藤藤佐-佐藤泰然-松本良順、ですね。
名前を回文にしてしまうあたり、良順のお祖父さんは、ずいぶん洒落っ気があった人なのでしょうか。
落語や好きな本のことなどを書きなぐっているブログですが、今後も、お気軽にお立ち寄りください。

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by kogotokoubei | 2013-03-12 07:29 | 今日は何の日 | Trackback | Comments(4)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


by 小言幸兵衛
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