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「江戸前の男」—命日に五代目春風亭柳朝や一門のことを思う。

2月7日は、五代目春風亭柳朝の命日。昭和4(1929)年10月29日に新橋は烏森で生まれ、平成3(1991)年の2月7日に旅立った。八代目正蔵(彦六)一門の総領弟子。本名は大野和照で、真打昇進によって春風亭柳朝を襲名するまでは、照蔵を名乗っていた。

 ご承知のように、志ん朝、談志、円楽そして柳朝は、当時「落語四天王」と言われた。ただし、柳朝ではなく今の橘家円蔵を四天王に入れる人もいたが、私は円蔵を入れる案に賛成しない。

 自慢の弟子だった小朝は、さすがに師匠の命日を忘れていない。彼のブログから引用。実際は、もっと行間が空いているのだが、縮めた。十八番ネタや、ネタに関する逸話も少し書かれている。
春風亭小朝のブログの該当記事

本日はうちの師匠の命日であります

脳梗塞で倒れて、長期の闘病生活の末に亡くなったので、晩年はちょっと印象が薄くなったかもしれませんが

いまだに御贔屓がいらっしゃるのは嬉しい限り

得意にしていたのは、宿屋の仇討、粗忽の釘、天災、大工調べ、鮑のし、井戸の茶碗、突き落とし、錦の袈裟、その他、勘定板、浮世床、義眼…

志ん朝師匠が教えたがらなかった火焔太鼓を色んな人に勝手に稽古しちゃった犯人はうちの師匠です

それから、先代の正蔵師匠譲りの文七元結が扇橋師匠を通して若手に伝わってますし

あっさり風味の、ねずみや三味線栗毛、蒟蒻問答に唖の釣りなども、うちの師匠に習った方が多いようです

現在、多くの若手がやるようになった祇園祭は、二朝会(柳朝、志ん朝二人会)でうちの師匠がやり始め

それを正朝さんが習って若手に稽古をつけているという流れです

一番弟子の一朝兄さんはもちろん

正朝、円太郎、玉の輔、そして、現在大人気の一之輔と、寄席で大活躍の人材が育っているので、師匠も喜んでいるんじゃないでしょうか



 先日の命日で彦六を取り上げたが、小朝が書いているように、彦六門下の伝統は、しっかり継承され、今や東京落語界における重要な一門として存在感を示している。柳朝の孫弟子には、一之輔の次に一蔵も控えている。今後も楽しみが続く。小朝はもう弟子をとらないかもしれないので、やはり一朝一門が、今後も彦六から続く系譜の鍵になるだろう。

 昭和53年に落語協会を離脱した後で苦労している“天敵”円生一門との明らかな違いを見て、空の上で“トンガリ”は六代目と、どんな喧嘩をしているのだろうか。

 さて五代目柳朝のことに関して語る時は、どうしても吉川潮著『江戸前の男-春風亭柳朝一代記-』を無視することはできない。この人に関しては、立川流への過度な肩入れや、あの艶っぽい奥さん(小菊姐さん)のことを思うと、個人的には支持することに対する屈折した思いもあるが、作品としての本書を評価しないわけにはいかないだろう。

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吉川潮著『江戸前の男-春風亭柳朝一代記-』(新潮文庫)

まず、なぜ正蔵を師匠として選んだのか、ということ。

 人気絶頂の桂文楽も、満州から帰ってきたばかりの古今亭志ん生も好きだったが、一の贔屓は蝶花楼馬楽であった。人形町末廣で見た高座が印象に残っている。
 馬楽は一席の後で寄席の踊りを踊った。すると和照の後ろで見ていた芸者衆が、「噺家の踊りもオツでいいわねえ」「ほんと。素敵だわあ」と囁き合った。
 その時、和照は思った。
 噺家ってのは花柳界の女にもてるんだ。噺家になるのもいいなと。



 著者が、どれほど取材などを踏まえて、この書を書いたか分からないが、柳朝の正蔵選びの動機としては、なかなかオツな設定だと思う。

 さて、どんな一面が著者に「江戸前」と言わせたのか、まず昭和30年当時の逸話をご紹介。

 五月二十日、落語協会会長の八代目桂文治が七十二歳で没し、文楽が後任の会長に就いた。
 そのころ、正蔵と作家の正岡容の喧嘩沙汰があった。
 落語、浪曲の作者で、評論、随筆、小説などを書く才人の正岡が、新聞の演芸評で正蔵を酷評した。それを新宿末広亭の楽屋で読んだ正蔵がカンカンに怒った。
「正岡の野郎、ただじゃおかねえ」
 得意の芝居噺のごとく見得を切った。
 するとその場に居あわせた照蔵がすかさず、
「師匠、あっしに任せて下さい。正岡は生かしちゃおきません。これから野郎の命を取ってきます」
 着ていた着物を尻っぱしょりすると、たすき十字にあやなして、手拭いでねじり鉢巻きをした。芝居の喧嘩支度というやつだ。
 前座で働いていたさん生はつい笑ってしまった。


 文中のさん生とは、現在の川柳川柳である。安藤鶴夫も、その情け容赦のない舌鋒で多くの落語家を敵に回したが、正岡容は、いわばその先駆者みたいな人で、中途半端な評はしなかったようだ。「トンガリ」の口を見事に尖がらせるような直球の評を書いたのだろう。
 弟子であった米朝、小沢昭一、加藤武らの回顧談では、正岡は誰かに対し腹を立てると、すぐに「絶交状」を送りつけたらしい。しかし、そうしてその当人の足が遠のくと寂しがったようなので、半分は稚気からくる“洒落”だったように思う。そのへんは正蔵とも似ており、だからこそ正蔵も、芝居っ気たっぷりに反応してみせたのではないか、とも勘繰りたくなる。
 そして、その師匠の怒りを目の当たりにして、芝居っ気があるところも師匠を真似て「生かしちゃおかねぇ」とねじり鉢巻きという照蔵の様子を想像したら、さん生ならずとも、その場に居合わせたならば、つい笑ってしまいそうだ。

 この時は、さすがに正蔵が照蔵を止めて、刃傷沙汰にはならなくて済んだ。

 江戸っ子の気の短さが、実際に柳朝に災いを招いたことがある。彼は、一度彦六に破門されている。入門して小照の名をもらい、前座仕事にも慣れてきた頃のこと。

 その先輩とは以前から肌が合わなかった。
 お互いムシが好かないと思っているから、相手は先輩風を吹かしていじめにかかる。
 小照は小照で反抗的な態度を取る。その夜もちょとした言い合いから、小照はとうとうケツをまくって啖呵を切った。
「何を抜かしやがる、このクソったれ野郎。こっちとらあ、てめっちなんぞにがたがた言われて、はいさようですかと引っ込んでいるようなおあにいさんじゃねえんだ」
 惚れぼれするようないい啖呵だった。小照は大工の棟梁が因業な大家に向かって啖呵を切る『大工調べ』が大好きで、このネタを得意とする五代目小さんが高座に掛けると耳をこらして聞いた。二つ目になったら稽古をしてもらうつもりでいたので、この場でも歯切れのいい啖呵が切れたわけだ。
 相手は小照の啖呵に一瞬ひるんだが、このまま黙っていては先輩の面子にかかわると思ったのか、「表に出ろ」と怒鳴った。

 売り言葉に買い言葉でつかみ合いの喧嘩となった。小照は小太りでがっちりした体格である。それに対して相手は小柄な上に喧嘩慣れしてないから小照の敵ではなかった。
その場に居あわせた仲間が止める間もなく、あっという間に叩きのめした。
 この一件が協会のお偉方の耳に入った。正蔵は幹部の一人に言われて初めて事件を知り、怒り心頭に発した。小照が自分から「喧嘩をしました。申し訳ありません」と謝れば対処の仕様があったのに、他の幹部に言われるまで知らなかったでは師匠として面目が立たない。喧嘩の原因はどうであろうと、たとえ相手が悪かろうと、前座が二つ目に対して手を上げたとあってはただではすまされない。

「小照。てめいは喧嘩のことをどうして黙っていたんだ!」
 正蔵の雷が落ちた。小照は師匠の剣幕に思わず首をすくめた。

「俺はこんどの一件を他人の口から聞かされて赤っ恥をかいた。なぜすぐに報告しねえ」
「申し訳ありません」
 小照は口のなかでもぞもぞと謝った。
「芸人の世界はな、軍隊と同じように上下の関係が厳しいんだ。たとえおめえの理があっても前座が二つ目を殴っていいわけがない。おめえも兵隊だったんだから、そんなことあわかってるだろうに」
「へい・・・・・・」
「今日只今から弟子でもなければ師匠でもねえっ。破門だ!」
 破門・・・・・・。それは落語家にとって致命的な処分である。
 ああ、俺はなんて馬鹿なことをしてしまったのだろうと、悔やんだがもう遅い。
 この商売も縁がなかったんだ。あきらめよう。
 小照は潔く観念すると、正蔵の顔を見てきっぱり言った。
「わかりました。短い間でしたが、お世話になりました。失礼します」
 小照は手をついて頭を下げるとすくっと立ち上がり、そのまま出ていってしまった。
 遺された正蔵は呆然とした。


 正蔵も勢いで「破門」を口にしたが、まさか、本人が鵜呑みにするとは思わなかった。
 こうして、柳朝は、一度破門になっている。芝居がかった短気な江戸っ子という、よく似た師弟のあり様は、この頃から変っていなかったのだろう。
 この半年ほど後で、仲介者に連れ添われあらためて稲荷町を訪れ再入門し、名前は正太と替わった。

 この“破門”の経験は、その後の本人の落語家人生にとって貴重だったのではないかと思う。破門後に心の支えとなった幼馴染や、彼を支援してくれる人々の暖かさが身に染みただろう。もちろん、“復帰”ではなく、あらためて“入門”ということで再出発を許してくれた師匠の彦六への感謝の念も強かっただろう。

 後年、志ん生から「志ん朝を頼む」と言われて、「二朝会」の開催などで何かと志ん朝を支援する役割を担ったことなども考えると、破門なく順風満帆に歩んでいたら、「四天王」と言われる存在になったかどうか怪しいように思う。真打昇進後での“しくじり”では、もう師匠も庇護できようにもなかろう。
 歴史に「IF」は禁物だが、気の短い江戸っ子柳朝は、入門したての“破門”の経験を糧として、その後大きく成長したのだと思う。
 志ん朝と同時期に真打昇進後は、持ち味である江戸っ子の啖呵が効いた数多くの十八番ネタで東京落語界の看板の一人となり、また多くの映画にも出演した。たとえば、渥美清を主役として三代目三遊亭歌笑の人生を描いた映画『おかしな奴』(昭和38年)にも同じ一門の弟子で、歌笑に刺激を与える存在として出演している。『の・ようなもの』には、主人公たち二つ目や前座が深夜寄席の終演後に新宿界隈をトボトボ歩く場面で、女性と同乗したタクシーで通りがかり、小遣いを与える役で短時間ながら出演している。東宝の『落語野郎』という映画にも出演していた。

  
 音源でお奨めはいくつかある。まず、円生が聴いて「師匠より上手い」と語ったことが、“トンガリ”正蔵の耳に入り、“天敵”同士の諍いのタネの一つになった『宿屋の仇討』を収録したCDが良い。
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五代目春風亭柳朝 宿屋の仇討 船徳 浮世床

 ちなみに、Amazonに私自身が書いたレビューを紹介。(2007年11月12日投稿)

スピード感とリズムそして粋、柳朝入門のお奨め作
昭和4(1929)年10月生まれ、平成3(1991)年2月没なので、五代目柳朝の四十台半ばから五十台初期の作品。生前は談志、円楽、志ん朝と併せて“四天王”と呼ばれていた柳朝ならではのスピード感と粋、特に「宿屋の仇討」は代表作の一つであり、これだけでも大いに価値あり。この収録(昭和56年10月)から一年余りで脳血栓で倒れてからの柳朝は、持病の糖尿病にも苦しみ二度と高座に上ることができなかった。「浮世床」は、噺家仲間との旅行ネタのマクラも秀逸だし、床屋で繰り広げられるネタにもこの人ならではのリズムと味わいがある。師匠八代目林家正蔵(彦六)、弟子の小朝のほうが、今では有名だが、孫弟子に六代目が誕生した今年、あらためてこの人の傑作を振り返るのも一興ではないだろうか。もちろん、「船徳」も佳作である。“江戸前の男”(吉川潮作の一代記のタイトルから)の噺の爽快感をぜひ味わってほしい。


 『宿屋の仇討』が昭和56(1981)年10月2日の芸術座での高座、『船徳』も昭和56(1981)年3月13日の芸術座、『浮世床』は昭和50(1975)年9月14日の東宝演芸場の音源。
 昭和57(1982)年1月に師匠彦六が亡くなり、年末に柳朝は脳梗塞で倒れ、それから八年余り高座復帰が叶わぬまま旅立っている。だから、『宿屋の仇討』は、倒れる約一年前の音源なのだが、まったくそんなことは、かけらも思わせることのない素晴らしい出来栄えである。

 もう一つお奨めするなら、棟梁政五郎の啖呵が心地よい『大工調べ』と、一門の十八番『天災』が収められたCDを挙げる。収録年月日不詳なのだが、二席とも結構な内容。

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五代目春風亭柳朝 大工調べ 天災

 この二枚のCDのネタ五席の『船徳』以外は、小朝がブログで師匠の得意ネタとして列記しているものである。『船徳』だって、柳朝らしくて結構。だから五席ともハズレなし。

 切れ味の良い啖呵、リズミカルな語り口、噺の筋に沿ったメリハリの効いた演出。まさに“江戸の香り”をふんだんに醸し出す五代目柳朝落語の精神は、しっかり今日にまで継承されてきたように思う。一朝の『祗園会』や『芝居の喧嘩』そして『天災』、そして一之輔の『粗忽の釘』や『浮世床』などを聴くと、高座の後ろに、うすぼんやりと柳朝の姿が見えるような一瞬がある。それは、芸が似ているということではなく、柳朝の精神が宿っていると思わせる一瞬である。柳朝が、昭和25年、志ん生でも文楽でも、円生でもなく彦六(当時の蝶花楼馬楽)を師匠と定めたのも、高座で聴いた落語語り口や、踊りの所作の粋なことに、江戸の精神を感じてのことだったはず。一朝一門には、そういった彦六-柳朝から引き継ぐスピリッツを感じる。

 しかし、そこで思うのは、ブログを紹介した小朝のことだ。三十六人抜きで兄弟子一朝よりも先に真打に昇進した小朝は、今どんな思いで師匠の命日を迎えたのだろうか。数年前、意図的に小朝の落語会に出かけたことがあるが、正直なところ、彼の背中に柳朝の影を見かけたことは一度もない。それは、良く言えば彼自身が強い個性を持った噺家として成長したから、と言えなくもないが、贔屓の客に媚びているように思えるネタ選びや、相も変わらずのギャグ満載の地噺に、師匠柳朝の影が見えようはずもなかろう。
 博品館を一か月満員にした男は、十五歳で入門したためにすでに老成してしまったのだろうか。いや、私と同世代の小朝には、まだまで頑張ってもらいたいし、それが出来る噺家だと思っている。私は、彼が茶髪をやめて、落語会の回数を減らし、古典に再挑戦する日を、気を長くして待ちたいと思っている。過日の落語会の後の居残り会で、ある方が初めて聴いた一之輔の褒め言葉として、「若い時の小朝に似ている」とおっしゃった。まさに、それこそが師匠柳朝のスピリッツではなかったのか。

 五代目柳朝、「江戸前の男」の命日は、本人のことを思うとともに、一門についても、いろいろと考えさせられる日となった。
Commented by 創塁パパ at 2013-02-08 00:35 x
今の小朝は、落語というより、プロデューサーでしょうね。一朝一門に期待するしかありませんね。そして、あの茶髪。だめですね。
落語家の雰囲気がありません。真打になったころの「ピュア」な感じが好きでした。

Commented by 小言幸兵衛 at 2013-02-08 08:50 x
プロデューサーですか・・・・・・。
自分の落語会の「量」はプロデュースしているようですが、「質」が果たしてプロデュースされているのかどうか、が問題だと思います。
36人抜きの頃は、間違いなく芸と人が光っていました。今は、頭の毛のみ光っている^^

Commented by ほめ・く at 2013-02-08 10:12 x
これほど江戸前という言葉がぴったりの噺家はいませんね。
「大工調べ」の啖呵なんざぁ聴いてて惚れ惚れします。志ん朝もかなわない。
若くして病に倒れてしまったのが何とも惜しまれます。

Commented by 佐平次 at 2013-02-08 10:40 x
本書は落語家の実情を教えてくれました(あまり落語関係の本を読んでいなかったのです)。
柳朝の「付き馬」、浅草を歩くところは惚れ惚れします。
昨夜、久しぶりに小朝の「稽古や」を聴きました。
年寄りをバカにするマクラが気になったけれど、踊りや歌の師匠は秀逸でした。

Commented by 小言幸兵衛 at 2013-02-08 11:38 x
昨日の帰宅途中、その『大工調べ』を聴いていました。
おっしゃる通りの切れのいい啖呵が、何とも結構なんですよね。
志ん朝には悪いですが、あのネタは柳朝が上でしょう。

Commented by 小言幸兵衛 at 2013-02-08 11:41 x
悔しいけれど、いい本です^^
小朝の『稽古屋』は、NHKで優勝したネタでしたよね。
あの頃の小朝が今の一之輔とオーバーラップするという方の意見、なるほどと思います。
一之輔には、いつまでも寄席に出て欲しい!

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by kogotokoubei | 2013-02-07 00:50 | 今日は何の日 | Trackback | Comments(6)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


by 小言幸兵衛