『忠臣蔵』の史実と虚構。
2013年 01月 25日
よく指摘されていることだが、実際の赤穂浪士の討入りの史実と、歌舞伎や通説としての「忠臣蔵」とでは、結構相違点がある。芝居などでは、人物や逸話などに、面白い物語とするために数多くの枝葉が付いている。
樋口清之さんの『江戸と東京』(全五巻、芳賀書店刊。*私が持っているのは、昭和51年10月発行の改題新装版。)の第一巻で次のように指摘されている。
嘘忠臣蔵
元禄の快挙として、忠臣蔵程芝居講談で人気のあったものはなく、又、それだけに脚色に脚色が加えられて真実の誤りを伝えられているものも少くありません。
殊に「仮名手本忠臣蔵」をはじめ、戯曲の忠臣蔵類は、芝居としての舞台変化と、ストーリーの曲折をねらって、良くもあんな嘘が言えたものと思う程に、色々と妙な話が附随してしまいました。いわゆる赤穂浪士には私も十分の同情と、理解を持っているつもりですが、それだけに、俗説忠臣蔵には一方甚だ憤りを感じています。今後機会を得てできるだけその真相を詳しくお話申し上げたいと存じます。
第一堀部安兵衛高田馬場の仇討も十八人斬どころか相手は僅かに五人、味方は四人でありましたし、討入りにつきものの山鹿流の陣太鼓も実はただの銅鑼でありましたし、上野介が斬られたのは松の廊下ではなく大廊下でした。豪酒家といわれる赤垣源蔵は全然酒を飲みませんし、本所松坂町などという名の町は討入りの頃にはまだありません。一行が勢揃いした楠屋というそば屋はなく、勢揃いしたのは実は堀部安兵衛の私宅でした。それに第一討入りの正確な日は元禄十五年十二月十五日午前四時で、十四日ではなく、かつ雪等は降らず月夜でした。天野屋利兵衛は義士と何の関係もなく、忠僕直助等は実在しません。
天候については、十三日には雪が降ったとされるが、十四日は晴れで月夜。映画で雪が降る中を討入りに向かう長谷川一夫の姿は、史実としてはありえない。
天野屋利兵衛について、三波春夫、そして柳亭市馬が唄うのも、まったく虚構の上に立った熱唱^^
同書では、この後に、上野介の最後についても、炭小屋ではなかったことなどが説明されている。
あまり、通説に反する内容ばかりを並べると、「それじゃドラマチックじゃない」とか「夢を壊す」と指摘されそうだが、芝居は芝居、史実は史実である。脚色のレベルならまだよいが、虚構と史実の違いは分かった上で、芝居も楽しんだほうがよいように、私は思う。
今日の日本においても、マスコミや声の大きな政治家などが、事実を矮小化して自分の都合の良いような虚構の世界を信じさせようとしている。真偽を見極める姿勢、態度を忘れないようにしないと、人の良い市民は騙されるばかりである。
史実だと知ったのはずいぶん後です^^。
私は、史実と思っていて、その後いろいろと実際とは違うのを知った口です^^
佐平次さんのような考え方をしなくてはならないのかもしれません。
まず、疑ってかかれ、ということなのでしょうね。
その後、当時の政治状況からして幕府の暗黙の了解が無ければ、あの仇討は不可能だと確信しました。
この事は拙ブログのカテゴリー「忠臣蔵の謎と真実」にまとめていますので、宜しければご笑覧ください。
ご指摘の通り、討入りは、幕府側の了解(支援か?)がなければ、とても実現しなかったでしょうね。
史実→脚色→芝居(ドラマ)→通説、という過程の中で、「えっ、それはありえない?」という疑問がどんどん希薄になっていくのでしょうか。
