今から140年前、なぜ明治政府は改暦を急いだのか。
2013年 01月 14日
今日1月14日は、旧暦で12月3日にあたる。今から140年前の明治5年旧暦の12月3日に当たる日を、明治政府は新暦(グレゴリオ暦)の明治6(1873)年1月1日として改暦した。
この改暦は、布告がその一カ月前にも満たない旧暦11月9日という、非常に慌しいものであった。いったい、なぜ明治政府は改暦を急いだのだろうか。
Wikipediaの「グレゴリオ暦」から引用したい。一部を太字にする。
Wikipedia「グレゴリオ暦」
日本におけるグレゴリオ暦導入
日本では、明治5年(1872年)に、従来の太陰太陽暦を廃して翌年から太陽暦を採用することが布告された。この「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(明治5年太政官布告第337号、改暦ノ布告)では、「來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」として、グレゴリオ暦1873年1月1日に当たる明治5年12月3日を明治6年1月1日とすることなどを定めた。そのため明治5年12月2日まで使用されていた天保暦は旧暦となった(明治改暦、明治の改暦)。
この布告は年も押し詰まった同年11月9日(1872年12月9日)に公布されたため、社会的な混乱を来した。暦の販売権をもつ弘暦者(明治5年には頒暦商社が結成された)は、例年10月1日に翌年の暦の販売を始めることとしており、この年もすでに翌年の暦が発売されていた。急な改暦により従来の暦は返本され、また急遽新しい暦を作ることになり、弘暦者は甚大な損害を蒙ることになった。一方、福澤諭吉は、太陽暦改暦の決定を聞くと直ちに『改暦弁』を著して改暦の正当性を論じた。太陽暦施行と同時の1873年(明治6年)1月1日付けで慶應義塾蔵版で刊行されたこの書は大いに売れて、内務官僚の松田道之に宛てた福澤の書簡(1879年(明治12年)3月4日付)には、この出来事を回想して「忽ち10万部が売れた」と記している。
これほど急な新暦導入は、当時参議であった大隈重信の回顧録『大隈伯昔日譚』によれば、政府の財政状況が逼迫していたことによる。すなわち、旧暦のままでは明治6年は閏月があるため13か月となる。すると、月給制に移行したばかりの官吏への報酬を1年間に13回支給しなければならない。これに対して、新暦を導入してしまえば閏月はなくなり12か月分の支給ですむ。また、明治5年も12月が2日しかないので、11か月分しか給料を支給せずに済ますことができる。さらに、当時は1、6のつく日を休業とする習わしがあり、これに節句などの休業を加えると年間の約4割は休業日となる計算である。新暦導入を機に週休制にあらためることで、休業日を年間50日余に減らすことができる。
もちろん、福澤諭吉など進歩派が改暦を強く支持した背景には、維新を経て海外との交流が活発になり、欧米人と交渉をする場合など、彼らが使う「グレゴリオ暦」を採用しないと、不平等条約の是正などの外交の会議日程を設定するにしても不便だったことは分かる。明治の改暦を考える時、私は数年前に大きな声で叫ばれた「世界基準」という言葉を思い出す。
しかし、「世界基準」に合わせるという“タテマエ”の裏には、コスト削減という明治政府の“ホンネ”がしっかり見える。改暦は実に政治的な判断で拙速に行われたと言ってよいだろう。
改暦前日まで使われてきた「天保暦」は、過去から長い期間にわたって使われてきた暦の改訂版であったが、中国ほかアジアの国における「農暦」と同様に、「太陰太陽暦」という、太陽と月の動きを元に、自然現象と密着した生活を送るためには、非常に良くできた暦であった。
そして、中国も韓国もその他多くのアジアの地域も、あくまで一つの指標としての「グレゴリオ暦」は採用していても、季節を踏まえた祭事などの行事や農作業の準備は、旧暦を元に行っている。また、イスラム文化圏では、生活や宗教上のしきたりの基盤は太陰暦である。
ところが、日本はどうか・・・・・・。何かことが起こると集団でまっしぐらになる、良く言えば適応力の強い日本人、悪く言えば節操のない日本人は、見事にたった140年前に採用されたばかりの「グレゴリオ暦」に、ほとんど染まってしまった。
たった140年と言うのは、例えば中国暦の一つである「宣明暦」を、日本では貞観4年1月1日(862年2月3日)から、貞享元年12月30日(1685年2月3日)まで、823年間も使用していた。日本における旧暦(太陰太陽暦)の歴史は、新暦(グレゴリオ暦)の比ではないのだ。
「女郎の誠と玉子の四角 あれば晦日に月が出る」という、廓ばなしでお馴染みのマクラ、新暦では何のことか分からない。太陰太陽暦では、晦日に月は出ない。
赤穂浪士が討入りした元禄15年12月14日は、満月に近い明かりを吉良邸襲撃の助けにしようとして決めた日取りなのである。グレゴリオ暦では1703年の1月30日。とても満月ということが連想できる月日ではない。
落語や古典も、旧暦を知ることで理解が深まり楽しみも増す。
今年は新暦2月10日が旧暦1月1日、旧正月(春節)である。中国などでは民族の大移動がある。そして、製造業などで日本から中国や旧暦が生活の基盤になっているアジアの国の工場や提携会社に赴任した人々は、旧正月休暇前の社員への「餅代」のことや、新暦正月よりも長い旧正月の休暇のことを、海外赴任で初めて知るかもしれない。
「グローバル化」という言葉には、かつての「世界基準」と同様に、うそ臭い匂いがプンプンするが、その「グローバル」な活動によってアジアで旧暦を見直す日本人が増えて、自然と一体となった生活を尊ぶようになるのなら、「グローバル化」の皮肉な効用と言えるのかもしれない。
旧暦では12月までは、冬。1月から春。だからこそ年賀状で「迎春」と書くのである。140年まえの今日は、本当は旧暦12月3日だった。しかし、明治政府は改暦して、新暦1月1日にしてしまった。
今日の雪が、140年前の改暦について、「おい、まだ冬だよ」と言う“空”からのメッセージのような気がしたので、ついこんなことを書いてしまった次第。
雪は雨に変わってきたが、季節感も月の満ち欠けも海の満ち干にも関係のない新暦中心の日本人の生活は、そう簡単には変わりそうもない。せいぜい、落語を楽しむ中で、私は旧暦による季節感を少しでも味わいたいと思う。
我が落語朋にしてブログ朋の小言幸兵衛さんは博識である。 昨日の雪について面白い記事を書いている。 明治政府が改暦を急いだ裏事情は官吏の報酬節減にあったという、俺は知らな ... more
若者たちに読ませたい。
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詳細に書いてあって、大変勉強になりました。当ブログ(金色の湯たんぽ)で、紹介させてください!
個人的意見ですが、近代化及び現代生活において改暦自体は結果的に必要なものだったと思います。
もし、今でも太陽太陰暦が法的に使われていたら、情報管理においてかなり面倒なことになっていたでしょう。
むしろ、法的には同時に元号の使用もやめるべきだったと思うぐらいです。
(昭和から平成に変わってまもなく、役所が平成生まれを昭和生まれと勘違いして乳幼児に税金を請求したという事例があります)
太陽太陰暦と元号を使う和暦は法的には使わず、慣習として併用するぐらいで良かったと思います。
良くなかったのは、暦が違うのに日付だけを無理やり当てはめたことですね。
改暦が必要であったことは否定しません。
ただし、日本の拙速な改暦の背景には政府の打算があったことも事実です。
それ以上の問題は、日常生活、なかでも農作業などと密着し生活の指針ともいえる太陰太陽暦を、ほとんど忘れ去ってしまっている日本と、いまだに年中行事などは旧暦を尊重しているアジア各国との違いを言いたかったのです。
「慣習として併用」というコメントでのご指摘に賛成です。
今年も閏九月があります。
どうしても、月単位で修正をすることになるので、たしかに太陰太陽暦は分かりにくい点があるのは、事実です。
しかし、ご指摘の通り、日常生活や、農業、漁業などにおいては、月の満ち欠けと同期している旧暦の良さは捨てがないものがありますね。
今後もコメントをいただけるなら、ぜひニックネームをお付けいただければ幸いです。
新しい暦は、
1月 31日
2月 30日
3月 31日
4月 30日
5月 31日
6月 30日
7月 31日
8月 30日
9月 31日
10月 30日
11月 31日
12月 29日(閏年は30日)
とするものです。
掛かれました文を転用させていただきたく。お願い申し上げます。
常日頃月を見上げては、ガイドのトークで話しておりました。
当方石垣島在住です。こちらではまだ暦を家庭で利用しております。「はり~探検隊」
コメントありがとうございます。
内容の転用、もちろん結構ですよ。
石垣島ご在住ですか。
きっと、自然の流れの中で、人間らしく暮らしていらっしゃるのでしょうね。
落語や他のいろんなことを書なぐっているブログですが、また、気軽にお立ち寄りください。
石垣島には、かなり前のことになりますが、連れ合いとスキューバダイビングをしに、二度ほど訪れています。
本島が次第に都会化するのに比べ、実に時間がゆったり流れていたのを覚えています。
なぜか、五年前のこの記事、アクセスが多いのです。
Wikipediaの引用を含む内容なのに、皆さんが改暦への興味が強い、ということでしょうか。
そうか、五年前、雪だったんですね。
自分の記事で、思い出しています。
ところで、『すなわち、旧暦のままでは明治6年は閏月があるため13か月となる。(中略)しかも明治5年も12月が2日しかないので、11か月分しか給料を支給せずに済ますことができる。』の文中『明治5年も12月が2日しかないので、11か月分しか給料を支給せずに済ますことができる』の箇所は明治5年のお給料支給の話なのか、それとも明治6年の話なのかこんがらがって良く分かりませんでした。
流れから察すると、「明治5年の給料支給は」11か月分で済ますことができるという解釈のようですが、これで大丈夫でしょうか。
お立ち寄りいただき、コメントを頂戴し、誠にありがとうございます。
ご理解の通り、明治5年が11か月分で済む、ということです。
改暦の背景には、こういうことがあったんですね。
旧暦では、今日が一月七日、七草です。
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明治新政府は、いわば英国の傀儡政権とも言えるもので、改暦は留守政府の大隈重信の才覚もあったのでしょうが、背後で英国が操っていたのかもしれません。
記事の中で引用されている『大隈伯昔日譚』には、薩長の新政府軍が叫んだ「攘夷」というのは方便であり、西郷の「征韓論」というのも新政府軍に対する不満を逸らすためではなかったかと書かれています。そして大隈が世に出るきっかけとなったのは、江戸幕府から続く禁教令による長崎四番崩れの件で、悪名高いパークスと一歩も引かなかった談判でした。また、同じ参議であった西郷が完全に鬱状態であったことが読み取れ、大隈は「なぜ西郷が人気があるのかサッパリ分からない」と述べています。失敗続きだった岩倉使節団についても、大久保利通と伊藤博文の二人と木戸孝允が対立して木戸がノイローゼ状態だったとあります。
この岩倉使節団とは対照的に、12年前の万延元年遣米使節は大成功でした。結果として世界一周をしたのですが、米国での大歓迎の様子が今も現地の新聞記事で確認できます。幕末の偉人であった小栗上野介も、目付として派遣されて大活躍をしていますが、明治の歴史ではその存在を抹殺されました。小栗は、新政府軍によって惨殺されたのです。現在国会図書館デジタルコレクションで、国際法学者で小栗の義理の甥にあたる蜷川新が書いた『維新前後の政争と小栗上野介の死』と『続維新前後の政争と小栗上野』が閲覧可能です。明治維新の多くが、正邪が逆になっている歴史ではないかと思わせるものです。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1170288/1 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179005/1
動画を作っていますので、よろしかったらご覧ください。
【決定版】小栗上野介① イントロ(導入編)https://youtu.be/0e4mw7qKpjo
【知られざる歴史①】お伊勢参り(感動の物語)https://youtu.be/gRI_dGkO95g
歴史は勝者によって捏造される、ということを裏付ける内容のコメント、ありがとうございます。
小栗上野介は、もっと評価されるべき人でしょうね。
ご推奨の本、読みたいと思います。
また、動画も拝見しますね。
とはいえ、今は、諸般の事情でゆっくり時間が作れないので、しばさく先になりますが。
「晴天を衝け」、そろそろ見るのをやめようかと思っています。
どうも、役者さん達に馴染めない。
岩倉だけは、見ていて楽しいんですけどね。
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史上最悪の犯罪者の如く貼られたヒトラーのレッテルも、捏造されたものではないでしょうか。国会図書館デジタルコレクションで彼の『我が闘争、第2巻上』を閲覧できます。これを読むと、確かにP166「人間は平等でその間に差別はないと言うが、我々はそうではなく、人種の優劣を認め、人種の優劣に従って人間の値打ちに差別をつける 。」などとトンデモナイことが書かれているのは事実です。しかし、当時祖国ドイツがユダヤ人の姦策によって破滅し、彼らドイツ人は天文学的な賠償金を背負わされ、300億倍を越えるインフレになってしまったことが背景にあります。
そして、次の言葉は世界中の現代人に届いてほしいと思います。P153「報酬に差別をつけなくなったら大きな仕事をする者がなくなるという人があるかもしれぬが、それは杞憂である 。高い報酬を貰わねば大きな仕事をしないというのは時代が腐敗堕落している証拠で、昔から今に至るまで報酬の多寡が人間に仕事をさせる唯一の動機であったなら、世の中に今日見るが如き立派な科学も文化も生まれなかったであろう。古来の大発明や大発見、或いは学問上の大業績や人類文化の金字塔など、これらは概ね金を欲しがり金を命とする人々によっては為されず、富を願わず、現世の幸福をあきらめた清貧の人々によって成されたものである。」
この本を読むと、ヒトラーの人柄がこの言葉に集約されているように思えてなりません。ヒトラーを極悪人に仕立て上げた勢力こそが極悪人であり、今の世界を支配している勢力だと思います。彼らは、TV新聞などのマスコミを支配して情報をコントロールしています。私は、もう10年近くTV新聞ラジオ一切視聴せず、彼らに踊らされることもなく、彼らが伝えるニュースも信じておりません。幸いネットのお陰で、戦前の本や新聞が読めるようになって毎日驚きの連続であり、時間がいくらあっても足りないといったところです。
『我が闘争. 第2巻上』P153 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1438954/86
『ユダヤの陰謀② 平和の敵は新聞&『我が闘争』』https://youtu.be/XoUdz6oJAbU
連続投稿、大変失礼致しました。
日本が旧暦、太陰暦を取り入れたのがいつなのかは知らないが、その時にも
こんな頑固なアカい石頭が反政府正義よろしく小言を撒き散らしていたのだろうか。
そもそもそんな時代に暦の概念があったかどうかも不明だが。
太陰太陽暦の歴史は、紀元前2000年のメソポタミア文明まで、遡ります。
グレゴリオ暦などは、ついこの前、ということです。
月、星、太陽など自然を踏まえた暦を愛すことは、右とか左という次元で語るものではありません。
10月8日は、十三夜です。
月を愛でましょう。