廓は遠くなりにけり。—『志ん生廓ばなし』の「廓ばなしご案内」より。
2012年 12月 22日
柳家小満んの目白庭園・赤鳥亭での「おさらい会」で初めて『大神宮の女郎買い』を聴いた翌日、志ん生の最初の速記本である立風書房版『志ん生廓ばなし』(昭和45年1月10日初版発行)を久し振りに開いた。
装丁・さし絵が清水昆、題字が橘右近、という古書店でもなかなか手に入らない書だが、この本に小島貞二さんの志ん生への聞書きを元にした「廓ばなしご案内」があって、『大神宮』の説明があったのを発見(?)し、ブログに書いた。
2012年12月15日のブログ
「廓ばなしご案内」には、他にも今ではほとんど演じられない廓ばなしが紹介されている。
まず、冒頭部分から引用。
“廓大学”入門案内
落語の中に“廓ばなし”という、たいへんに珍重すべき分野がある。この本にえらんだ十五篇は、その中でも代表的なものであるが、決してすべてというわけではない。
同書にニッポン放送の音源を元に収録された十五篇は、次の通り。
五人まわし・首ったけ・坊主の遊び・錦の袈裟・居残り佐平次・品川心中(上・下)・つるつる・茶汲み・付き馬・三枚起請・文違い・お直し・干物箱・二階ぞめき・子別れ(上・中・下)
『子別れ』を通しで“廓ばなし”として初の速記本に加えたところが、志ん生らしい。『首ったけ』や『坊主の遊び』などは、今日ではなかなか聴く機会がない。ぜひ、小満んや他の噺家さんにかけてもらいたいものだ。
小島貞二さんの文章は、次のように続く。
今の人から見ると、廓などというものは、およそ縁遠いもののようだが、ひと昔前の男性にとっては、廓は成人式の場所であり、セックスの戦場であり、浮世のうら表や、人情の機微を学ぶ社会科大学でもあった。
そこで、この廓ばなしというのは、けっこうその大学案内、つまり廓についての予備校みたいな役割を果たしたものである。
たとえば、この本に収録されている志ん生廓ばなしの、随所にまくらとして使われている吉原を素見(ひやか)して歩く風景など。実は『廓の穴』という独立したスケッチものとして演じられることもある。
昔、浅草に紙漉きの職人がいて、浅草紙をつくっていた。原料が玉になっていて、長く水につけておくと、これが冷やけてきて、紙を漉くのに都合がよくなる。この冷やけるまでの時間を利用して、近くの吉原を一まわりしてくるよいうところから、“ひやかす”という言葉が生まれ(『首ったけ』のまくら)などは、シャレではない、文献にものこっている本当のはなしである。
今や、廓という“社会科大学”がなくなって久しい。しかし、その当時のことを少しでも偲ぶことのできる廓ばなしは、ぜひ遺して欲しいものだ。
今日では珍しい廓ばなしについて、ご紹介。
かわったところでは、『三助の遊び』では、田舎出の湯屋の三助が、釜がこわれて休みになったのを利用して出かける。そいつを野幇間の次郎八というのが取りまいて、質両替屋の若旦那というふれこみにする。そして最後に、「はい、釜が損じて早じめえ」と、正体を出してしまう。
『三助の遊び』、ぜひ、聴きたいものだ。
生きている人間ばかりではない、幽霊まで吉原へゆくのが『幽女買い』で、甚公に半公の二人が、冥土でバッタリ会い、冥土の遊郭へくりこむが、夜あけにふられるという他愛ないもの。
落語は“他愛ないもの”ほど、可笑しいのである。
廓ばなしが日常のネタとして受け容れられていた時代、それを語る噺家も、いろんな達人(?)がいたようだ。
こういう廓ばなしを演じる以上、落語家自身もその道のベテランでなければならない。
『とんちき』というのがある。以前嵐の晩に、客がいなくなってえらくモテた男が、“夢よもう一度”とばかり、大嵐をねらって出かける。ところが案に相違して、もう一人別な客が来ている。向こうも同じ思いの男らしい。「誰だい?」ときいてみると、「前に、階下(した)でおまえさんと、出会った客だよ」という。「あァ、あのトンチキか」とセセラ笑うが、実は向こうの客も、「あのトンチキか」と、同じことをいっているという短篇。つまり、こちらは人間誰もウヌボレがあるという、客の心理をたくみにとらえている。
この『とんちき』は、本文が短いので、マクラで演者自身の廓遊びのザンゲを、漫談風に入れるのが普通のようだ。得意にしていためくらの小せんは、
「正直なところをいうと、私はお女郎買いに参ったことが、八度半ございます。半というのはおかしいようですけれども、それは、友達と一緒にお女郎買いに参りまして、引き付けへ通って、ご酒を頂いているところへ、宅から電話がかかって参りまして、急用が出来たから、すぐ帰れというので、よんどころなく帰宅をいたしました、それが半なのでございます」
この後に、小せんの“女郎買いの決死隊”の体験談が続く^^
他にも、小せんや、小せんの先輩であった橘家米蔵がよく演ったらしい『白銅』、そしてその名も『廓大学』など、今日ではお目にかかれない廓ばなしが紹介されている。
親の命日は忘れてもこの日は忘れない、と噺家がよく言う昭和三十三年三月三十一日は、私は小学校に入学する前、だから赤線も知らない。もっと言えば、その時にいたのが北海道では行きようもない^^
廓は遠くなりにけり、であって、江戸以来の“社会科大学”吉原を知るのは、落語の世界だけである。ぜひ、埋もれたままの廓ばなし、小満んに限らず多くの噺家さんが演じて欲しいと思う。