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噺の話

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命日に、“ステテコ”だけではなかった、初代円遊のことを想う。

明治四十(1907)年の十一月二十六日、初代三遊亭円遊が満五十七歳で亡くなった。嘉永三年(嘉永二年、という説もあるが、ここでは三年説をとる)五月二十八日(新暦1850年7月7日)の生まれだったので、師匠円朝の十一歳年下になる。江戸小石川小日向の生まれ、本名は竹内金太郎。

 最初二代目五明楼玉輔に入門したが師匠が廃業(後に復帰している)したため、明治五(1872)年頃に円朝門下に移った。大きな鼻から“鼻の円遊”と呼ばれたが、何と言っても“ステテコ踊り”で一世を風靡したことが有名。
 しかし、この人は“ステテコ”のみならず、高座そのものも優れていたようだし、今の世に残る滑稽噺の創作(改作も含め)において評価すべき人のようだ。

 よく知られたことだが、夏目漱石は『三四郎』の中で、登場人物の一人である与次郎に三代目小さんを礼賛させている。その時に引き合いに出されているのが円遊だ。青空文庫から引用。夏目漱石『三四郎』(青空文庫)

 次に本場の寄席へ連れて行ってやると言って、また細い横町へはいって、木原店という寄席を上がった。ここで小さんという落語家を聞いた。十時過ぎ通りへ出た与次郎は、また
「どうだ」と聞いた。
 三四郎は物足りたとは答えなかった。しかしまんざらもの足りない心持ちもしなかった。すると与次郎は大いに小さん論を始めた。
 小さんは天才である。あんな芸術家はめったに出るものじゃない。いつでも聞けると思うから安っぽい感じがして、はなはだ気の毒だ。じつは彼と時を同じゅうして生きている我々はたいへんなしあわせである。今から少しまえに生まれても小さんは聞けない。少しおくれても同様だ。——円遊もうまい。しかし小さんとは趣が違っている。円遊のふんした太鼓持は、太鼓持になった円遊だからおもしろいので、小さんのやる太鼓持は、小さんを離れた太鼓持だからおもしろい。円遊の演ずる人物から円遊を隠せば、人物がまるで消滅してしまう。小さんの演ずる人物から、いくら小さんを隠したって、人物は活発溌地に躍動するばかりだ。そこがえらい。
 与次郎はこんなことを言って、また
「どうだ」と聞いた。実をいうと三四郎には小さんの味わいがよくわからなかった。そのうえ円遊なるものはいまだかつて聞いたことがない。したがって与次郎の説の当否は判定しにくい。しかしその比較のほとんど文学的といいうるほどに要領を得たには感服した。


 与次郎の三代目小さん、そして円遊の評価は、たぶんに作者夏目漱石自身の思いを反映したものであったろう。
 私には、この部分を読んで、単に三代目小さんを礼賛する文章とは思えなかった。名人小さんを語るのに漱石が引き合いに出したほど、円遊の存在が大きかったのだろうと思うのだ。ちなみに、三代目小さんは円遊より七歳年下。

 円遊の“ステテコ踊り”は、四代目立川談志の“郭巨の釜堀り”、初代三遊亭萬橘の“ヘラヘラ節”、四代目橘家円太郎の“ラッパ”と合わせて、「珍芸四天王」ともてはやされた。

 明治になり、主に“官軍”の長州(中国地区)や薩摩(九州地区)などから東京に移り住んだ多くの人々が、江戸から伝わる人情噺中心の古典落語の良さを分かるには時間がかかる。そういった、新しい“東京人”にとって、円遊らの「珍芸」は、見たまんまの単純な可笑しさで受容された。

 しかし、古典の本格派からは、そういった「珍芸」は毛嫌いされ、そのことが第一次落語研究会の発足にもつながった。
 第一次落語研究会は、明治三十八(1905)年から始まった。速記者の今村次郎、歌舞伎演出家で作家の岡鬼太郎が顧問。今なら「レギュラー出演者」に相当するだろう、「発起人」の顔ぶれは次の通り。

-第一次落語研究会発起人-
 □初代三遊亭円左
 □四代目橘家円喬
 □三代目柳家小さん
 □四代目橘家円蔵
 □初代三遊亭円右
 □二代目三遊亭小円朝

 先日ブログで書いた、“幻の二代目三遊亭円朝”の初代円右も含まれている。2012年11月2日のブログ
 この円右は、円朝の直系の弟子ではない。円遊より十歳年下で、初代円馬、二代目円生、三代目円生とともに“円朝門下の四天王”と言われた二代目円橘門下だった。ちなみに暉峻康隆著『落語の年輪』によると、二代目円橘は、明治三十九年の七月十一日、谷中全生庵における円朝七回忌法会の最中に卒倒したまま、その夜六十九歳で亡くなっている。暉峻康隆著『落語の年輪』

 円朝直系門下の初代円左は、円遊と比べて年齢で二歳上、入門は五年早い。志ん生などが絶賛する四代目円喬は、円遊より十五歳も下だが、七歳で円遊と同じ年に円朝に入門している。四代目橘家円蔵は円遊より十四歳年下で、四代目円生に最初入門している。二代目小円朝は円遊の八歳年下で、最初は初代円馬に入門し、その後円朝門下になった人。

 この第一次落語研究会発足の中心人物は、円遊より年齢も入門も先である円左。円左は、弟弟子である円遊の「珍芸」や滑稽噺が人気を得るのを歯ぎしりしながら見ていて、「このままでは落語は滅びる」といった危機感をもったようだ。
 裏を返せば、それほど円遊の人気が凄かったようで、多い日には一日に三十六軒の寄席を掛け持ちしたと言われる。ほとんどは、“ステテコ”を踊るだけなのだが、それでも客は大いに喜んだらしい。

 しかし、繰り返すが、円遊は“ステテコ”だけではなかった。

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興津要著『落語』(講談社学術文庫)
*リンク先の「講談社BOOK倶楽部」に小言を言いたい。たった八年前の2004年に発行(初版は昭和43年の角川選書)された本書について、どうして「BOOK倶楽部ではお取り扱いしておりません。」と書かれてあるのか!?

興津要著『落語-笑いの年輪-』から引用。

 五明楼玉輔ゆずりの「義士伝などでお茶をにごして売れないユウウツな毎日をくりかえすうち、ふと円遊が気づいたのは、九州・中国あたりの人たちがぞくぞく東京へ入りこんできて、客の種類がだいぶかわってきたことだった。「世の中が追々変わって日増しに進んでゆくのだから、昔の話をありきたりのままで演っていた分にやァ、多くのお客様の御意にいるまいから、なんでもこれは時勢にはまるような落語をやらなければいけない」—そんなことが頭にうかんだ。そして、えらんだのは、人情噺をすてて滑稽落語に徹する道だったが、それが落語繁栄の基礎となり、近代落語への道となった


 このように、私の“座右の書”である『古典落語』(講談社文庫)の作者興津要さんの、円遊への評価は高い。
 

 それはたとえば、若旦那徳兵衛が勘当されて船宿に居候するうちに船頭になり、ある日、昔なじみの芸者お初を船で送る途中で夕立にあい、船をもやって雨やみをまつうちに昔のよりがもどるが、お初に思いをよせる油屋九兵衛のためにお初徳兵衛は心中にいたるという初代古今亭志ん生作の人情噺「お初徳兵衛浮名桟橋」は、新米船頭の若旦那の失敗をえがく落語「船徳」にちあらためられ、二枚目の若旦那も「御当家は遊船宿をしていらっしゃるのを幸いに、おれはどうか船の方へ関係致して、猪牙から荷足(にたり)・高瀬・伝馬・川蒸汽から屋形・屋根船は申すに及ばず、五十馬力、百馬力、二百馬力、五百馬力ぐらいの蒸汽の船長に成って洋航(ママ)をしようと考えておりやす。行く末は海軍で海軍卿とも謂われたいもんで」と三枚目になり、客も「和郎(おまえ)は鉄道馬車や赤馬車が贔屓で車が便利だてえので、幾ら混雑(こみ)合ってても彼の革へぶら下がってグルグル廻る度に他人(ひと)と鉢合わせをして瘤ができるので、和郎の額には鉄道馬車がスーッと並んでいるだろう」—だから、それよりも船に乗ろうという珍妙なセリフを吐き、この客を乗せた若旦那がもやったままの船を漕ごうと骨折ったり、石垣へくっついた船を客の洋傘で突かせ、洋傘を石垣にはさんだまま船をだして客に損をかけたり、船がゆれて煙草に火がつかなかたっりと、明治の新風俗を背景の笑いの世界だった。


 興津さんが紹介する円遊のオリジナルは、言葉づかいが当時のもので、やや難解なところもあるが、「お初徳兵衛浮名桟橋」を改作した「船徳」の、今日でも演じられる円遊の演出を確認することはできるはず。円遊が遺した滑稽噺としての「船徳」は、今や原作から一人立ちした名作落語として、継承されている。
 ちなみに、昨年夏の人形町らくだ亭で、雲助の「お初徳兵衛」と志ん輔の「船徳」を聴いたが、どちらも結構な高座だった。2011年8月23日のブログ
 さて、興津さんの書では、この後に、十三人のベテラン真打たちが、円遊の「珍芸」をやめさせようと師匠円朝宅に乗り込んだが、円朝が彼らをご馳走してなだめた、という逸話が紹介されている。そして、師匠円朝と円遊のことについて、次のように書かれている。

 円朝がめざすのは、円遊とゆきかたはことなるものの、やはり新時代むきの噺だった。かくて円遊はその努力がみとめられ、明治十五年、真打に昇進した。
 円遊は、「素人洋食」「金魚の芸者」などの新作も数多く手がけたが、それよりもむしろ、明治の新風物を詩情ゆたかにあしらったり、ギャグにつかったりした古典落語の現代化に本領を発揮した。「転宅」では、活発な女性をえがくのに、「女のくせに瓦斯灯へ昇って煙草を吸い付け」などとやったかと思うと「ずっこけ」では、酔っぱらいのセリフが、「そこに何かおちてるよ、何だい、これは、男帯がおちてたよ(中略)、よくよくみれば鉄道馬車の線路でございました」「オヤうれしいネ、ダイヤモンドがおちてたよ(中略)、よくよくみたら電気がぬかるにみ映ってたんだ」と、明治の東京の夜の詩情をうつしだし、「穴どろ」では、年末、金の工面につまった男をえがくのに、隅田川をゆく蒸気船にうつろな目を投げかけ、日暮れに上野公園のブランコでやるせなく憂さをまぎらす設定にするなど、ギャグを通じて明治の東京風俗詩絵巻を展開した。そんな円遊の手腕によって多くの噺が面目を一新し、とくに、仏教色のつよい陽気な噺といわれた「野ざらし」は、円遊の改作が原話を追放して、原話のほうは跡もとどめないほどのていたらくとなった。円朝が江戸落語の完成者とすれば、円遊は近代落語の祖だった。



 本書には、夏目漱石が正岡子規宛てに送った手紙が紹介されており、円遊に関して書いてある件があるので引用したい。明治二十四年、漱石二十四歳の時の手紙と、その後の部分をご紹介。


 観劇の際御同伴を不得(えず)残念至極至極残念(宛然-さながら-子規
 口吻)去月卅日曇天を冒して早稲田より歌舞伎座に赴く(中略)一軒
 おいて隣りに円遊を見懸けしは鼻々おかしかりしなあいつの痘痕と
 僕のと数にしたらどちらが多いだろうと大いに考えて居る内春日局は
 御仕舞いになりぬ公平法問の場は落語を実地に見たようにて面白くて
 腹の痛みを忘れたり。

 と、円遊の売り物の鼻のダジャレをとばしたり、のちに自分の鼻のアタマのそれを気にして、中根鏡子との見合い写真に大修整をほどこしてそれを消したといういわくつきのアバタを、円遊のそれとかぞえくらべたなどとふざけたり、円遊中心の文章を見せていた。
 円遊がはじめてステテコを踊ったのが明治十三年、真打昇進が十五年で、とくに人気が絶頂だったのは二十年代前半だった。この時期は、金之助の寄席がよいがさかんだった十四歳から二十五、六歳にあたっており、彼が日の出のいきおいの円遊に魅せられたのも当然で、作家漱石となってからも、その高座と無縁ではいられなかった。
『吾輩は猫である』は、漱石が自分の育った環境を「全体にソワソワと八笑人か七偏人のより合の宅(いえ)」と言ったように、その意識のなかにあった『八笑人』や『七偏人』など、のらくら者の遊戯をえがいた幕末の退廃的滑稽本の匂いがあった。これは、漱石にとってはじめての創作であってみれば、専門の英文学の知識や手法のほかに、彼にとって郷愁の世界でもあった江戸文学や円遊を代表とする滑稽落語の手法が駆使されて当然だった。彼が『猫』において、底の浅い文明批評を展開するにあたって、底の浅い文明開化の笑いの芸術家円遊のくすぐりをとりあげたのは偶然ではなかった。

  *卅日は三十日。
 
 この後に、『猫』を中心に、漱石作品の円遊をはじめとする滑稽落語からの影響が説明される。
 
 漱石作品への落語の影響は顕著で、『猫』には、泥棒に入られた後の「花色木綿」そっくりの夫婦の会話がある。その会話の引用を含め漱石と落語について以前に書いたことがあるので、ご興味のある方はご覧のほどを。2009年2月9日のブログ

さて、爆発的な人気を誇った円遊にも、黄昏はやって来る。

 明治四十年十月十五日、人気もすっかり落ち目になった円遊は弟子の福円遊をつれて、谷中の天王寺へ亡くなった子供の石塔を建てにいったが、彼は「おれももう、ちかぢか此処へくるんだ」と言った。えんぎでもないとおもった福円遊が、「師匠、つまらないことを言うもんじゃありません。そんなことがあってたまるもんですか」と言うと、円遊は、「いや、そうでない。もうちかぢかだろう」となおもくりかえした。すっかりなさけなくなった福円遊が、「師匠、なぜまたそんな心ぼそいことを言うんですか」ときくと、円遊は、「いまおれは、この墓地へ来て、ふとあのステテコの唄をおもいだしたら、急に心ぼそくなってきた。あの唄は、『さても諸席の大入は、立川談志の十八番、郭巨の窯掘り、オイテロレン、万橘ヘラヘラ、円太郎ラッパで、お婆さんあぶない、円遊のステテコ、チャチャラチャラチャラ』というんだろう。そらその唄の談志、万橘、円太郎はその順に故人になって、のこっているのは円遊ばかりだから、今度はいよいよおれの番だ」と言い、それから三日目の十八日から床につき、十一月二十六日、小さんの栄光にかがやく姿に背をむけて世を去っていった。
 それはあたかも一つの時代のおわりを象徴するかのごとくだった。



 漱石の『猫』は明治三十八(1905)年から三十九(1906)年にかけて『ホトトギス』に連載された。人気に翳りが出たとはいえ、まだ円遊の名で客が呼べた時期である。
 そして、『三四郎』は、その二年後、明治四十一(1908)年の朝日新聞への連載で、円遊没後の発表だ。
 『三四郎』の中で与次郎の言葉として、円遊より小さん、と言わせる漱石の評価は、「珍芸」ブームが衰退する中で、余計なイレゴトなしの本寸法滑稽噺で人気を高めていった三代目小さんの絶頂期に当たる。
 『三四郎』における円遊の評価は、世相を反映したものでもあるのだろう。しかし、円遊没後の作品で、あえて小さん評価の引き合いとして円遊を登場させた漱石には、若かりし日に出会った円遊への思い入れも強く感じる。同じ鼻の“アバタ”仲間としての円遊への、特別な感情もあっただろう。

 
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落語蔵出しシリーズ(9)

 円右のことを書いた時にも紹介した、コロムビアから発売されている「落語蔵出しシリーズ」第九集に、初代円遊の「太鼓の当込」が収録されている。

「落語蔵出しシリーズ」-第九集-
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1. 太鼓の当込(初代 三遊亭圓遊)
2. 附焼刃(半分垢)(四代目 橘家圓喬)
3. 長屋の花見(三代目 蝶花樓馬樂)
4. 後に心がつかぬ(曽呂利新左衛門)
5. 鍋草履(初代 三遊亭圓右)
6. 近江八景(六代目 林家正蔵)
7. うどんや(三代目 柳家小さん)
8. 厄払い(初代 柳家三語樓)
9. 区画整理(五代目 三弁家小勝)
10. 動物園(二代目 桂三木助)
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 残念ながら「太鼓の当込」についての詳しい情報を見つけることはできなかった。やや雑音が多い五分ほどの音源は、幇間一八が主役の小咄のようなネタ。一八が、旦那に「今晩、嫁をもらうんです」と言って宴席から浮かれて帰る道すがらの情景。興津さんの書で紹介されている、「男帯がおちてたよ、よくよくみれば鉄道の線路」や、「ダイヤモンドがおちてたよ、よくよくみたらぬかるにみに電気が映ってた」などのギャグが入っている。当時としては、きっとハイカラだったのだろう。


 円朝が「江戸落語の完成者」、円遊が「近代落語の祖」という興津さんの評から考えて、今や神格化されつつある円朝に比べ、初代円遊について語られることは少なすぎるようにも思う。
 しかし、「船徳」や「野ざらし」というネタとして、しっかり彼の業績は今に残っている。
Commented by 時間 at 2012-11-28 00:36 x
私も常々、円遊はもっと評価されていいと思っています。
改作の作業を見てみれば、落語家らしさは円朝以上の部分もあるのではないでしょうか。
再評価のための「円遊まつり」でもやったらいい、なんて冗談半分まじめ半分で考えています。

Commented by 小言幸兵衛 at 2012-11-28 09:18 x
同感です。
「円遊まつり」、結構ですね。
追悼落語会でもいいと思います。
「船徳」「野ざらし」などはもちろん、円遊の新作「金魚の芸者」は小満んが継承しています。「転宅」も円遊のクスグリで演ってみるなど、なかなか楽しい高座でプログラムも組めそうですね。
この人の存在は大きい。興津さんは分かっていらしたのでしょうが、アンツルさんは無視したでしょう。
アンツルさんには抵抗しにくかったため他の評論家も沈黙していたように思う、初代の柳家三語楼や権太楼など、滑稽噺の過去の名人たちを、もう少し評価すべきかと思います。

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by kogotokoubei | 2012-11-26 20:44 | 落語家 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛