噺の話

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命日に、戦争被害者の一人、昔々亭桃太郎のことを思う。

11月5日は、先代昔々亭桃太郎(ちなみに、当代は昔昔亭桃太郎)の命日。兵隊落語やテレビ「ジェスチャー」で人気を博した柳家金語楼の実弟。本名山下喜久雄。明治43(1910)年)1月2日生まれで、昭和45年(1970)年の11月5日没。

 何度か引用している小島貞二著『こんな落語家がいた-戦中・戦後の演芸視-』からご紹介。

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小島貞二 『こんな落語家がいた-戦中・戦後の演芸視-』

 戦時中には俗に“赤紙”という「召集令状」がやたらに来た。若い男子にとって、これは“地獄からの招待状”のようなものであった。
「おめでとう」といわれ、「万歳」の声に送られて、兵隊に入るのだが、ほとんどの人ができたら避けたいと思っていたに違いない。
 落語家にも来た。一番悲惨な・・・・・・というより、もっとも“落語を地でゆく”ような環境に捲き込まれたのは、昔々亭桃太郎(山下喜久雄)であった。柳家金語楼(山下敬太郎)の実弟である。
 桃太郎は兄貴のおかげもありなかなかの人気もので、ヨイショ(取り持ち)が上手かった。戦時中は東条英機(のちの総理大臣)に気に入られ、「きみの落語を聞かないと、メシがうまくない」と、毎日のように官邸に呼ばれていた。
「このくらいご機嫌を取っておけば、赤紙からのがれるだろう」という胸算用が見事外れ、召集令状がきた。
 山梨の連隊に入る前の日、そこの陸軍病院へ慰問にゆき、「えー、わたくしも明日、みなさんの仲間入り出来ることになりまして」と、軍隊にまでヨイショした。
 結局、戦地へ送られ、終戦時はソ連国境で捕虜になり、シベリヤへ。そして命からがら帰ってきた。


 シベリアから帰還したのは昭和22年。東条英機が、もし手を回し、メシをうまく食べようと桃太郎への赤紙送りを止めていたら、シベリヤ行きもなかったかもしれないが・・・・・・。あり得ない話だろう。

 シベリヤ抑留によって、桃太郎は心身両面で、大きな痛手を負ったようだ。

 その帰還のとき、私は週刊芸能新聞紙『スクリーン・ステージ』の記者だったので、早速インタビューそいたことがある。たしか二十三年一月であった。
 ところが支離滅裂でよくわからない。あまりに長い記事には出来なかった。
 当時シベリヤ帰りの兵隊の多くがそうであったように、共産主義の幻影からなかなか脱却出来ずにいた。彼も一人だなと思った。ただひとつ、収容所時代の艶笑談があったが、とても新聞に書けることではなかった。


 「とても新聞に書けることではなかった」という“艶笑談”の内容は本書で明かされているが、「とてもブログに書けることではない」ので、ここでは書かない^^

 
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    『沈黙のファイル-「瀬島龍三」とは何だったのか-』(新潮文庫)

“当時シベリヤ帰りの兵隊の多くがそうであったように、共産主義の幻影からなかなか脱却出来ずにいた”という部分、桃太郎が実際にどのような体験をしたのかは分からないが、『沈黙のファイル-「瀬島龍三」とは何だったのか-』(共同通信社社会部編、新潮文庫)から、当時のシベリア抑留者の状況を、かいま見ることにする。

 桃太郎をはじめ、多くの日本兵がシベリアで抑留された。その中の一人は、瀬島龍三である。

 妙な偶然になるが、シベリア抑留者の名前を五十音順で並べると、昔々亭桃太郎の後に、瀬島龍三が並ぶ。

 『沈黙のファイル』は、瀬島龍三という一人の日本人の人生を主旋律に、戦前戦後に瀬島の周囲、あるいは同じような境遇にいた人々への取材を含めて、瀬島龍三という人物像をあぶり出しながら、あの戦争のこと、そして、日本人とは何か、という永遠の命題にも近づこうとする、なかなか骨のある書だと思う。

 日本兵が味わったシベリア抑留生活の実態も、1990年代半ばご健在だった方々への取材などによって、生々しく描かれている。
 桃太郎はもちろん将校ではなかったが、彼が収容所で味わったであろう心身ともに大きな転換を迫られる経験は、この内容からもある程度想像できるのではなかろうか。『沈黙のファイル』から引用。

踏み絵
 元関東軍作戦班長、草地貞吾の前に立ちはだかったやせぎすの日本人青年は目を血走らせていた。青年は草地が着けている星三つの大佐の襟章を指さし、叫んだ。
「まだ階級章を着けているとは何事だっ。外せ!」
 1948年3月、シベリアの寒村ムーリーの停車場。抑留三年目の将校三十数人は約二百キロ西の収容所から鉄道で移送されてきたばかりだった。到着を待ち構えていた青年捕虜のけんまくが理解できず、草地は戸惑った。
「適当にあしらって追い払ったが、その日着いた収容所は全く別世界だった。至る所に赤旗や『天皇制打倒』と書かれたプラカードが掲げられ、食堂にはスターリンの肖像画が飾ってあった」と草地は振り返った。
 収容所の営門で、草地らは捕虜たちの怒鳴り声に迎えられた。
「こいつらは天皇の手先だ、殺せ。白樺のこやしにしてしまえ」
 夕方、別の捕虜たちがスターリンをたたえる歌を歌いながら、作業現場から戻ってきた。食堂で草地を数十人が取り囲み、罵声を浴びせた。
「われわれを苦しめた張本人にメシを食わせるな」
 草地はその夜、毛布にくるまって泣いた。
「ついこの間まで陛下に命をささげた青年たちが、これほど変わってしまうものかと悲しくなったんだ」
 収容所の空気を一変させたのは、シベリア民主運動だった。旧軍の階級制度に反発し、民主化を求める兵士らの動きが47年から48年にかけてシベリア全土に波及した。それまで特権的地位にいた将校は「反動分子」と攻撃された。アクチーブ(積極分子)と呼ばれる兵士らの呼び掛けで共産主義の勉強会が各収容所で開かれ、将校のつるし上げが横行した。
「朝から晩まで、暇さえあれば大勢でオオカミのような形相で責め立ててきた。食事も入浴も満足にできない日々が続いた」
 食堂入り口には、皇室の菊の紋章を彫った大きな板が敷かれた。「反動」を見分ける踏み絵だった。作業帰りの捕虜たちがそれで靴の泥をぬぐうかどうか、アクチーブが目を光らせた。


 この書には、思想的な対立や、かつての上司と部下との対立のみならず、少ない食物の奪い合いや、弱い者へのリンチなど、シベリアで次第に人間性を失っていく日本人の悲劇が、抑留経験者の重い口から語られている。
 
 桃太郎にとっても、心と体に重くのしかかる戦争被害と言える体験が、間違いなくあったはずだ。
  
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   色川武大著『寄席放浪記』(河出文庫)

 さて、あらためて桃太郎自身に関する著作からご紹介。

 色川武大著『寄席放浪記』は、次の「桃太郎の不運」という章から始まる。

 私が生まれ育った牛込矢来町というところは、戦前の典型的住宅地であると同時に、色街の神楽坂に近かったせいか、昔、芸人さんがたくさん住んでいた。
 私の生家の隣りの隣りぐらいが曲独楽の三升紋弥(先代)一家で、横丁ひとつ先が昔々亭桃太郎、後年、花島三郎、松旭斎スミエ夫婦が住んでいた家がある。
 (中 略)
 先夜、立川談志と四方山話をしているうちに、談志が不意に、桃太郎の新作の一つ(外題は失念してしまったが、なんとか教室、といったと思う。現歌丸がたまに演るそうである)を誉めた。そのとき、どうしてか、私は身内を誉められたように嬉しかった。


 知っている人、近所にいる人が誉められて嬉しくなる、というのはよく分かる。「神楽坂」という言葉は、私にとっては夏目漱石の作品で読んだ記憶のある「神楽坂の菊人形」とイメージがつながっている。ちなみに、今年、初めて神楽坂で開かれた落語会に行ったが、私が小説の世界で描いてきた街とは、あまりにもかけ離れていた・・・・・・。

 この本に戻る。

 彼は兄とそっくりの仕草で笑いをとろうとしていた。
映画ばかりでなく、高座でもしうだった。顔形が一脈通じていて、時に崩すとそっくりになる。兄はそれで売っていて、口跡も似ている。現れただけで、兄のイミテーションとしてウケてしまう。
 桃太郎自身もそれを利用して早く人気を得たけれど、そこから先がけわしくて、不運を背負った。また金語楼という人が個性が強いうえに才気があって、自分の話法、自分のギャグを強く売っていく。絶えず先手をとっているこの兄を凌駕するのは大変で、同じ芸人の道を行くかぎり、弟にとって目の上のたん瘤以上の存在であったろう。
 (中 略)
 ここいらも不運で、敗戦後、ソ連に抑留され、復員が大幅におくれてしまう。戦後の芸人地図が塗りかえられたあとに帰ってきたのである。



 先代の昔々亭桃太郎のことを思う時、私はどうしてもシベリアという言葉から、瀬島龍三や、たくさんの抑留者のことを思い浮かべてしまう。

 兄の影を追って人気者になった桃太郎。しかし、戦争は彼にあまりにも辛い試練を与えた。帰還した時には、自分のいるべき場所には、すでに三遊亭歌笑という国民的な人気者がいて、とても彼が食い込むことのできる場所などなかったのだ。

 上方の『阿弥陀池』を桃太郎が『新聞記事』と改作し、このネタは今日まで作品として残っている。しかし、一人の噺家としての桃太郎については、人気者だった兄に比べて、あまりにも語られることは少ない。

 42年前の11月5日に、千葉市川の病院でひっそりと旅立った先代桃太郎のことは、戦争のもたらす悲劇と重ね合わせて、もっと語られてもよいのではなかろうか。
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Commented by ほめ・く at 2012-11-06 10:49 x
その昔、一度だけ末広亭で聴いたことがあります。第一声が「桃太郎さんでございます」だったと記憶しています。
抑留の影響は大きかったでしょうが復員は1947年なんです。
同じ年に志ん生、圓生は満州から帰国しています。
志ん生、圓生はむしろその時期から頭角を現しましたから、ご本人が新作専門で作品が時代とずれてきたことと、落語界では異端児だったという事情も大きかったように思います。

Commented by 小言幸兵衛 at 2012-11-06 12:07 x
志ん生、円生も、命からがらでの帰還だったようですね。
人には言えない体験もあったことでしょう。

たしかに、戦争体験のみが桃太郎の晩年を左右したのではなく、話芸の実力も大きな要素だったと思います。
あえて歴史に「If」を唱えるなら、シベリアでの抑留がなくても、歌笑などの台頭には勝てなかったかもしれません。

最後はどの協会にも属さない異端児であったのは、さまざまな要因が影響していると察します。
孤立無援で芸の世界で生き残るほど、人間は強くない。
しかし、彼がそうなった理由の一つがシベリアであった、そんな気がしています。

Commented by 佐平次 at 2012-11-06 22:21 x
ソ連の参戦情報を握りつぶしたのは大本営にいた瀬島です。
彼のお蔭でどれだけ多くの人が無駄死にしたか。
以前ある会議で一緒になりましたが、その偉ぶり方といったら!

Commented by 小言幸兵衛 at 2012-11-07 08:50 x
たしか、保阪正康が、瀬島のソ連参戦情報握り潰しを指摘していますね。

結果として戦犯になることを逃れ、戦後の賠償ビジネスで暗躍して大商社で出世していく瀬島の姿そのものに、恥ずべき日本の歴史が投影されているように思います。

頭脳明晰ではあったのでしょうが、そういう秀才たちがあの戦争を起こしたことを、真摯に振り返ることが大事だと思います。

今もまた、永田町や霞が関で、同じような過ちを犯そうとしていると言ってもよいのではないでしょうか。

Commented by 小言幸兵衛 at 2012-11-07 09:33 x
訂正します。

陸軍武官の小野寺信が送った、ソ連参戦に関するヤルタ密約緊急電を瀬島が握りつぶしたと指摘したのは、産経記者の岡部伸でした。
保阪は、別件について瀬島の暴挙を指摘しています。
この件、別途書きたいと思います。

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by kogotokoubei | 2012-11-05 21:54 | 落語家 | Comments(5)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛