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噺の話

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古今亭志ん生にとっての、『替り目』—結城昌治著『志ん生一代』より。

 昨日は、志ん生の命日ということで、『銀座カンカン娘』で披露された『替り目』の動画を掲載したのだが、結城昌治の『志ん生一代』には、ずばり『替わり目』という章がある。これは、ネタの名と、志ん生の人生における“替わり目”をかけたものだ。なお、本書では『替わり目』という表記なので、それを踏襲し、『替り目』と二つの表記が混在しますが、ご容赦のほどを。
 *この本、単行本も文庫も古書店でしか手に入らない状態だが、河出か筑摩で文庫で再刊してほしいものだ。

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 なかなか興味深い内容なので、前の章の『業平橋』の後半から引用したい。時は昭和七年。当時の名は、甚語楼。ツ離れしない金車亭で『付き馬』をかけたのだが、それを上野鈴本の支配人である島村が聞きにきていた。

 甚語楼は島村に誘われて外へ出た。
「うまくなったよ」
 島村はいきなり言った。
「え・・・・・・?」
 甚語楼は聞き返した。誘い出されただけでも意外に思っていた。
「いまの付き馬を聞いていたんだ」
「どこへいたんですか」
「隅のほうで寝そべっていた」
「気がつかなかったな」
「気づかれねえようにしてたのさ。おかしくて、何度も噴き出しちまった」
「・・・・・・」
 甚語楼は首をかしげた。客は疎らで、それほど受けたとも思えなかった。
  (中 略)
「どうだい、上野へ出てみねえかい」
 島村はまた意外なことを言った。
 上野といえば鈴本ときまっていた。


 この誘いを断る理由はなかった。

「あたしを上野へ出してくれるんですか」
「条件があるけどな」
「何ですか」
「おれの言うとおりにやることだ。おめえのずぼらは知りすぎているくらいだが、抜いたり遅れたりしたら承知しねえ。酒はいい。博打も止せとは言わねえ。しかし、商売はきちんとやってもらう」
「分かりました」
 (中 略)
 島村は評判のわるい男だが、悪人というわけではなかった。寄席の経営を任された支配人として、見るべき眼は持っていたのである。甚語楼を起用したのも彼を売り出すことが目的ではなく、客の入りが低迷している不況対策のひとつだった。
「今度こそやるぜ。ばりばり売り出してみせる」
 甚語楼は張り切ってりんに言った。


 
 そして、次の「替わり目」の章の冒頭はこう始まる。

 上野鈴本の支配人島村に引き立てられた甚語楼は、着実に客をつかんでいった。
 年が明けて昭和八年(1933)。
「客が食いついてきたこの辺で、看板を上げ直してみねえかい」
 甚語楼は島村に言われた。
「もう一度真打披露目をやるんですか」
 甚語楼は文都の例を思い出して言った。
「そうじゃねえ。名前を変えるんだよ。甚語楼という名には貧乏が染みついちまっている。そいつを取っ払うのさ。ひょこひょこと勝手に変えてきた今までとは違うぜ。きちんとした改名披露をやる」
「そいつは無理だ」
「どうして」
「金がねえ」
「それは何とか都合するんだ。大してかかるわけじゃねえ。配り物をこしらえて、うしろ幕があれば十分だ」
 うしろ幕は贔屓の客に贈ってもらう物で、高座のうしろの杉戸にかける。贔屓が多くて幾張りももらう芸人は毎晩のように張り替えるが、甚語楼はもらえそうな当てがなかった。



 なんとか金を工面して、甚語楼あらため、二度目の古今亭志ん馬を襲名し鈴本で披露目を迎えるのだった。
 うしろ幕は宇野信夫(劇作家)が寄贈した生地に鴨下晁湖(日本画家)が墨一色で富士山を描いてくれた。

 上野鈴本の披露が終わると、次は大塚の鈴本で十日間、さらに江戸川の鈴本、片町の鈴本という具合に鈴本系の披露興行がつづき、やがて四谷の喜よしや人形町の末広などにも出演できるようになった。
 まだ売れっ子とまではいかないが、ここまでくれば立派な真打だった。講談社の雑誌には口演の速記が載り、ポリドール・レコードから吹き込みの注文もきた。
 レコードは古今亭志ん馬の名前で、演題は「元帳」としたが、「替わり目」の別題である。


 昭和八年、志ん馬は四十三歳。ようやく、運がめぐってきたのだ。そして、ようやく、「替わり目」が登場した。結城昌治は、このネタの粗筋を少し紹介してから、こう続けている。

 この落語は後半があって音曲ばなしのようになるが、志ん馬はいつも前半で切っていた。まるで自分たち夫婦の仲を喋っているようで、馬の助や兵隊寅にもそう言われたことがあった。表向きは亭主関白のようだが、実際は女房に頭が上がらないのである。
 講談社の雑誌に載ったのも「元帳」で、やがて掲載料を郵送してきた。
「あんた、たいへんだよ。これを見てごらん。間違いじゃないのかい。二十円だよ」
 りんは郵送してきた十円札二枚を握りしめて、取り返しに来られるのではないかと心配していた。
 ところが、レコード会社から送ってきた封筒には五十円入っていた。一日一円あれば家族五人が暮らせた時代の五十円である。というより、つい一年ほど前までは三日で一円の給金(ワリ)しかもらえなかったのだ。


 親子五人が一日暮らせた一円、今の貨幣価値ならいくら位だろうか。仮に五千円として二十円は十万円、五十円は、二十五万円位の価値がありそうだ。

 冒頭に書いたように、ネタの「替わり目」は、志ん生の人生の“替わり目”と、強く深く結びついている。きっと志ん生が、寄席や落語会でこの噺をかける時、脳裏にはりん夫人への感謝の気持とともに、辛い貧乏暮らしから脱出しつつあった、昭和前半の思い出がよぎるのだろう。やはり、この噺は志ん生を象徴する代表作である。

Commented by hajime at 2012-09-23 13:22 x
こうして、抜き読みにしても、志ん生師が売れて行く下りはゾクッとするものがありますね。
長年の不遇から抜け出し、売れっ子の階段を駆け上がってく様子はワクワクさせられます。
実際は戦争があり、本当の開花は戦後まで待たねばなりませんが・・・・

「替り目」という演目、まさに志ん生師のために有るような演目ですね。
この噺が志ん生師にとって特別なモノであり、聴く我々にとってもそれはしかりですね(^^)

Commented by 小言幸兵衛 at 2012-09-23 17:51 x
そうなんです、まだまだ先があるんですよね。
翌昭和九年に七代目の馬生を継いでから人気が本格化し、“なめくじ長屋”を脱出できるのは、まだ先の昭和十一年ですから。

人それぞれに特定の噺にまつわる思い出や、歴史があるのだと思います。
それは聴く側にとっても同様で、「あの時」の「あの高座」と言えるものに一席でも多く出会いたいものです。

Commented by 佐平次 at 2012-09-24 11:02 x
昨夜「穴泥」を聴いていたら、やはりオカミサンの悪口を言いながらも底に愛情が流れて志ん生の面影が浮かんできました。

Commented by 小言幸兵衛 at 2012-09-24 12:53 x
「穴泥」ですか・・・・・・そう考えると、志ん生の十八番、結構夫婦ネタでいいのがありますね。
「火焔太鼓」はもちろん「鮑のし」なども、しっかり者の女房と、ちょっと呑気な夫のネタ。
きっと、つい自分達のことを思い出して感情移入しているんでしょうね。

Commented by 創塁パパ at 2012-09-25 06:59 x
この噺を昨年末に演った時、ずっと志ん生のCDを聴いていました(笑)

Commented by 小言幸兵衛 at 2012-09-25 09:21 x
ということは、サゲまでやらなかったんだ^^
私は志ん生と枝雀との合作のような内容で演じています!

Commented by ささき at 2016-06-23 15:40 x
兵隊寅はフーテンの寅さんのモデルになったんですかねぇ。
山田洋次監督が、志ん生臨終の場面を「心に染み入るように印象深い…」と言っていたと、志ん生一代の解説にあったので。
Commented by kogotokoubei at 2016-06-23 16:12
>ささきさんへ

コメントありがとうございます。

山田監督は、因縁を感じたとは思いますが、兵隊寅がモデルということではなかったようです。
今年1月の朝日に、関連した記事が載っていますので、ご興味があればご覧ください。
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12163228.html?rm=150

山田監督ご自身も落語がお好きですし、寅さんシリーズには落語を踏まえた演出なども多々見られます。
監督もお好きだった志ん生の友人に兵隊“寅”がいたことは、数ある縁の一つ、として感じていらっしゃるのだと思います。
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by kogotokoubei | 2012-09-22 19:20 | 落語の本 | Comments(8)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛