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政治の“分配ゲーム”は、どこに落ちつくのか—「内田樹の研究室」より

最近更新が多い「内田樹の研究室」だが、9月3日の内容は、政治家たちが繰り広げている“席とり合戦”をめぐる醜態に関してだった。
「内田樹の研究室」2012年9月3日のページ

分配ゲームの先行きについて

自民党の総裁選が迫り、維新の会の国政進出のための「品定め」が始まったために、政界の「右顧左眄」劇が進行している。
プレイヤーたちの全員が「バスに乗り遅れない」タイミング、「ババをつかまされない」タイミングをみはからって、他のプレイヤーの出方をきょろきょろ見守っている。
私たちは今「他人を出し抜くゲーム」に立ち会っている。
もちろんキープレイヤーは大阪維新の会である。



 維新の会や橋下が、なぜ支持を得ているという“幻想”が生まれたかというと、まず、マスコミが橋下の広報部門よろしく、彼のパフォーマンス、要するに“ハシズム”(橋下主義)により、仮想敵を次々につくっては徹底的に叩く様子を公共の電波や紙面を使って拡散している結果だ。そして、未だに宅内固定電話による「世論調査」での質問に、他の政党や政治家との劣等比較の結果として、「まだ維新の会のほうが」とか「実行力がありそうだ」などという理由で、実質的な世論を反映しているとは到底思えない偏った調査結果がマスコミで流布されるために、「他の人もそうなら」という日本人のメンタリティが“支持”をかさ上げすることにもなる。

 何度か書いてきたが、教育や医療など、本来は「競争」から保護されるべき場に競争原理を持ち込む、いわゆる新自由主義のもっとも悪しき部分を代表するのが橋下である。文楽協会への補助金カット問題を見ても、文楽を見ての感想として「操る人が見えないほうがいい」などと、伝統芸能の本質をまったくわきまえない発言は度外視するとしても、営利主義から離れて伝統芸能を継承するための補助金であるはずなのに、彼の主張は「営利」一辺倒。そして、技芸員と「公開」の場、要するにテレビカメラや記者たちが取り囲んだ場での面談しか認めない、と主張するのは、彼の常套手段として、相手の非をあげつらい、言葉の揚げ足をとって、さも自分が正しい、というパフォーマンスを映像やネット、紙面・誌面で拡散したいからだ。文楽協会が、橋下の策略に乗らなかったのは賢明だった。公開の場で話し合いをしたところで、補助金はカットされていたはず。“ハシズム”による“文化破壊”は、文楽にとどまらない。大阪フィルへの補助金も削減されたし、ワッハ上方は、結構吉本ががんばっているとは言えるが、運営費が削減された上で、高い動員目標を課された結果、その存続が不透明な状態にある。

 さて、内田樹のことに戻る。この内容で、非常に興味深かったのは、橋下への批判ではなく、ある“ゲーム理論”のこと。

これは池谷裕二さんの『脳には妙なクセがある』(扶桑社、2012年)からの引用。
決断能力を調べるゲームがある。
二人のプレイヤーがいる。プレイヤーAに10000円の収入があった。それを他方のプレイヤーBとシェアする。分配比率の提案権はAにある。例えば「オレが8000円で、キミが2000円ね」というふうに提示できる。
Bが提案を呑めば、二人ともそのままの金額を手にはいる。
でも、Bには拒否権がある。
この分配比率はフェアではないと思ったら、拒否権を行使できる。
すると、AもBも取り分はゼロになる。
冷静に考えれば、どんな比率で提案されてきても、Bは「OK」すれば、すべての場合に収入がある。
ところが池谷さんによると、人間はそんなに単純ではない。
プリンストン大学のコーエン博士の実験分析では、分配比80:20を提案した場合の拒否権発動率は50%に達するそうである。
人間は自分が想像していた相手と自分の「力関係」とあまりにずれた利益配分比率を示されると、「自分の利益を犠牲にしてまで、相手に社会的制裁を与える」ことを願う動物なのである。(59頁)


 たしかに、この“人間はそんなに単純ではない”という指摘、わかるなぁ。やはり、人間は“勘定”ばかりではなく、“感情”の動物なのだ。脳のことや記憶力のことなどの著書のある池谷裕二さんの本は数冊読んでいるが、この『脳には妙なクセがある』も、ぜひ読みたくなった。

内田樹は、こう続ける。

まことに興味深い話である。
現在維新の会は「分配比率」を提示できる立場にある。
だが、「すりよってくる側」は提示された比率がどれほど彼らの自己評価と食い違いがあろうとも、丸呑みするわけではない。
「食い違い」がある閾値を超えると、「丸呑み」するよりは「噛みつき返す」方が合理的なふるまいのように思えるようになる。
人間というのは、そういうものらしい。
それは私の経験則とも一致している。
私が見るところ、この後はまず「みんなの党」が、「維新の会の草刈り場になり、所属議員の大半が逃げ出すが、少しは(代表と幹事長が食べられるくらいの)草が残る」という分配比率に直面したときに「丸呑み」を拒むことになるだろう。
つまり、「共倒れ」というソリューションを選ぶということである。
彼らの構想する「共倒れ」シナリオがどういう内容のものかは予測することができないが、とにかく「相手をひどい目に遭わせないと気が済まない」という心理状態に追い込まれたときに人間がしそうなことをするであろう。
「減税日本」もコケにされてまで大阪維新の会にすり寄っていたら、いずれ名古屋の支持者の気持ちが河村市長から離れてしまうだろう(もう離れているかも知れないが)。
河村市長はどこかのタイミングで「共倒れ」シナリオを採択するはずである。
そうしないと、地域政党どころか、彼自身の政治生命が終わってしまうからである。
民主党は大阪都法案で大幅な譲歩を示したが、それに対する「見返り」が何もないことに苛立っている。
維新の会としては「朝貢」してくる既成政党のうちから「いちばん使い勝手のよい政党」をパートナーに選ぶセレクションをしているつもりでいるわけだから、「朝貢」に対して「見返り」なんか出す気はない。
そんなことにもっとはやく気づけばいいのに、今頃気づいて怒り始めている。


 維新の会になびくさまざまな党派や政治家が、交渉決裂の結果「噛みつき返す」様子を見るのも、なかなか楽しいかもしれない。それが“負け犬の遠吠え”にしか聞こえないのか、“ハシズム”の足元をすくうことにつながるのか。

 “分配のゲーム”に関して、内田は次のように締めている。

統計によると、分配比率の提示権を持っているものの収益が最大化するのは65:35という分配比率を提示したときだそうである。
果たして、大阪維新の会に、「権力を分配する相手に、35%の花を持たせる」ことの効率に気づくだけの知恵者がいるかどうか。
いない、と私は思う。



 なるほど、「60:40」と「70:30」の間にマジックナンバーがあるわけだ。提示権を握る方も「70:30はもらい過ぎだわなぁ」と思うのだろうし、相手も、「60:40は、もらい過ぎだろうなぁ」という落としどころとして、説得力があるように思う。

 私も、“ハシズム”には「65:35」で良し、とする知恵も気配りもないだろうと思う。彼らは「100:0」を望むから。そう、相手の“感情”を察するより、自分の“勘定”を優先するだろう。しかし、それでは、誰とも長い付き合いなどできるはずがない。そして、国民との長い付き合いは、毛頭できようがない。
Commented by 佐平次 at 2012-09-05 10:40 x
内田は「昭和のエートス」のなかで、多くの格差批判論者は、自分への配分比率が少ないことを不満としているに過ぎない、というようなことを書いてましたなあ。

Commented by 小言幸兵衛 at 2012-09-05 13:08 x
「勘定」についての「感情」ということですね。
同書はまだ読んでいませんが、似たようなことは、ブログや複数の著書に内田は書いています。
さて、もし小沢が橋下にすり寄っていったら、もう小沢支持はいたしません。
どうなることやら、永田町の住人達は。

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by kogotokoubei | 2012-09-04 19:17 | 責任者出て来い! | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


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