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噺の話

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関東大震災と、志ん生。

 二百十日で満月だった昨夜は、フィリピン沖のマグニチュード7.6の地震による津波警報で、夜もろくろく眠れなかった人がいただろう。津波警報への小言もないではないが、警戒せず被害を受けるよりは、警戒して被害がなかったことを、良しとすべきなのだろう。
 どうも、大地震というのは、同じような時期に起こるようだ。報道では最初マグニチュードは7.9と発表されたので、「おや、関東大震災と同じか・・・・・・。」と思った。その後訂正されたが、いずれにしても小さな地震ではない。

 落語ご通家の方は、よくご存知だろうが、大正十二年九月一日に起こったマグニチュード7.9の大地震を、古今亭志ん生はどう迎え、その後どう行動したのかを二冊の本から紹介したい。

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 まず、結城昌治著『志ん生一代』からのご紹介。当時は志ん馬。
 *この本、単行本も文庫も古書店でしか手に入らない状態だが、河出か筑摩で文庫で再刊してほしいものだ。

 志ん馬は叩きつけるような雨の音で眼をさました。寝不足でうとうとしていたのである。
 雨は間もなくやんだ。
「すげえ雨だったな」
 志ん馬は起き上がって、取り込んだ洗濯物を片づけているりんに言った。時計の針は午前十時をさしていた。
「さっきも降ったのよ。へんな天気だわ」

 昨日の天気予報にはなかったはずの雨がひとしきり降った今日の天気と、妙に似ているなぁ。

 りんが窓をあけた。
 雨雲が割れて、青空がみるみる広がった。
 すると、今度は嵐が烈しくなってきた。窓をしめれば蒸し暑いし、窓をあければ木の葉が飛んでくる風だった。
 午前十一時五十八分。
 志ん馬は猿股一枚で寝そべっていた。
 どこの家でも、ちょうど昼飯の支度ができたかという時刻である。
 突然グラグラッときた。
 電球が揺れ、台所の棚から瀬戸物が落ちた。
「地震だぞ」
 志ん馬はとび起きた。地震に対する恐怖は人一倍強かった。
「大きいわ」
 台所にいたりんがきて箪笥の蔭にかくれた。
 揺れは地鳴りのような音を伴って、地底から突き上げるように震動した。
「ここのほうが安全だよ」
 りんが呼んだ。
 しかし、志ん馬にはその声が聞こえなかった。
 ゆかたをひっかけて外へとび出した。どこへ逃げるという当てはなかった。地面が揺れているので、歩いているのも怖かった。眼についた酒屋へとび込んだが、店には人がいなかった。
 棚や売り台かた落ちた一升瓶やビール瓶が転がっていた。
 どんなときでも、彼が頼りにするのは酒だった。
 四斗樽の栓を抜くと、桝いっぱいになるまで待ちきれないで呷るように飲んだ。ただ飲みつづけるだけで、ほかのことは考えなかった。

 地震の時に酒屋で酒を飲んだエピソードは有名だが、ご本人の言葉で振り返ってもらおう。『びんぼう自慢』からの引用。
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古今亭志ん生『びんぼう自慢』(ちくま文庫)
 朝から雨がパラパラと来るが、いやに暑っくるしい日でしたよ。パタッとその雨がやむてえと、こんどは風が出てきやがる。おてんとうさまと雨と風が、運動会かなんかやっているようです。

 やっぱり、今日の天気によく似ている。
「なんだい、おい、へんな天気だなァ」
 なんていいながら、あたしゃァ猿股一つで、座敷に寝ころがって、雑誌かなんか見とったときです。雨がピタッとやんだ途端、グラグラグラーッ!
 そのうちに、だんだんひどくなって、裸電球が、天井にぶつかって、パチーン!
 かかァのほうをひょいと見るてえと、奴さん、勝手口で、七輪で、メザシかなんか焼いていて、あわてて、そいつに水ゥぶっかけてる。暑いから腰巻き一つです。
「お前さん、大丈夫かいッ!」
 てんで、あたしの傍へ寄って来た。そのときですよ。タンスの上の、嫁入りのときもって来た鏡台が、ガラガラガッタンてんで、あたしらの頭ァ通り越して、目の前へ落っこちて来た。
「オレたちァ、兄弟(鏡台)なんぞじゃァねえ。夫婦だ」
 ひまなときならこの位の洒落をいってもいいが、非常の場合です。そんなひまァない。
 いよいよ、いけなくなって、浴衣ァひっかかえて、表ェとび出したとき、どういうわけだか、あたしの頭ン中に、ツツーッとひらめいたのは、まごまごしていると、東京じゅうの酒が、みんな地面に吸い込まれちまうんじゃなかろうかという心配です。
「おい、財布かせッ!」
 てんで、帯ィむすぶのももどかしく、かかァの財布ゥひったくって、あたしはかけ出しました。財布の中ァチラッと見ると、二円五十銭ばかり入っている。いきなりとび込んだのが、近所の酒やです。主がウロウロしているから、
「酒ェ、売ってください」
 てえと、向こうはもう商どころじゃァない。早いとこ逃げ出すことで、精一ぱいのさ中だから、
「この際です。師匠、かまわねえから、もってってください」
「二円五十銭しかありませんよ」
「ゼニなんぞ、ようがすから、好きなだけ、呑んでください」
 そういうひまも惜しいように、あわてふためいてもう表へとび出した。しめたってんで、あたしゃァ、そこにころがっていた四斗樽の栓をぬいて、一升ますでグイグイグイってあおりましたよ。いい酒だから、いやァうめえのなんの、あんまりうめえから、ついでにもう一ぱい、キューッ!

 一気に一升五合を呑んだようだが、こういうのも“火事場の馬鹿力”と言うのだろうか。震災の前年にりん夫人と結婚していた。しかし、りん夫人と一緒になった翌日には、仲間と女郎買いに出かけている。遊びの資金としてりんさんが持参した品物が、日々なくなっていく。
 あたしがよく遊ぶもんですから、かかァのタンスの中なんぞは、だんだん空になる。部屋代がたまっちまって、具合がわるいことになってくる。
 あるとき、かかァの親父さんがやって来て、
「どうだい、いっそのこと、ここいらで、ひとつ思い切って・・・・・・」
「別れるんですか?」
「そうじゃァない。一軒、家ィ借りてみたら、どうだい。一軒の主てえことになれば、あいつだって、少しは責任をもつだろう。それに、困ったときにゃァ、ひと部屋ぐらい、他人に貸したって、やりくりの足しになるだろう」
 てなことを女房にいったとみえて、本郷の動坂の停留所からちょっと入ったところに、ちゃァんとした家を、一軒みつけてくれた。二階家で下が八畳に六畳、玄関も勝手も、一応揃っているという、あたしにとっては、実にどうも、まるで夢の宮殿みたいなところですよ。そのかわり、家賃のほうも二十五円という、きいただけで気の遠くなるような値段です。
 そこで、あたしは震災に出っくわすてえことになるんです。


 翌日、この志ん馬の一軒家が、他の噺家の避難場所になった。「志ん生一代」に戻って引用。
 余震は間遠になったが、翌日も不気味に揺れつづけた。
 その日の午後、上方の落語家で東西会に所属した林家染団治が志ん馬の家に避難してきた。ついで師匠の馬生が家族七人に犬までつれて、それからキツネ馬の窓朝も火事に追われて逃げてきた。みんな着の身着のまま、命からがらという様子だった。馬生はゆかたの上に消防夫のような刺子を着ていたが、火事を消すどころではなく、家財を積んだ大八車も逃げまどう人ごみのため動きが取れなくなって放り出してきたという。
「すげえ火事だよ。このぶんじゃ東京じゅう丸焼けだな。昨日は上野の山で夜明かしをしたが、ごった返してるとこへ焼けたトタン板なんぞが吹っ飛んでくるんだ。生きた気がしなかったぜ」
「吉原のほうはどうですか」
「まあ駄目だろう。浅草、本所方面はいちめんの火の海で、神田や日本橋のほうの空も真っ赤だった。まだ燃えつづけているから、下谷も危ねえんじゃねえかな」


 志ん生の「吉原はどうですか」という問いが、何ともこの人らしい。

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吉村昭著『関東大震災』

 昨年9月1日には、吉村昭の『関東大震災』のことを書いた。
2011年9月1日のブログ

 この本に吉原の被害の状況が次のように描かれている。
 娼家の中には、火災発生後も娼婦たちを廓内のとどめた家が多く、それらの家の娼婦たちは逃げる機会を失ってしまった。それに、娼婦たち自身にも、機敏に逃げる能力が欠けていた。それは廓外に出ることを厳禁されている彼女たちが方向感覚に乏しかったからで、地震につぐ火災に身の危険を感じながらも廓外に逃げ出すことができなかったのだ。
 火に追われた彼女たちは、自然に吉原公園に押しかけた。時刻が時刻であっただけに、彼女たちは一人残らず寝巻姿であった。素足のままの者が多かった。
 やがて火が急速に迫って、公園内に持ちこまれた家財に火がつき、娼婦たちは熱さに堪えきれず園内の弁天池に飛びこみはじめた。
 池は泥深く、中心部は四メートル近い深さがある。池に入った娼婦たちは、泣き叫びながら池の水を体にかけた。
 そのうちに園内を逃げまどう娼婦たちの衣類に火がつき髪油の塗られた頭髪に火がついて顛倒する者も多くなった。そうした現象が、一層池に飛びこむ者の数を増した。
 初めの頃、娼婦たちは岸辺にとりすがっていたが、池に入る者が多くなるにつれて池の中心部へ押し出されてゆく。
 池の広さは二百坪ほどしかなく、たちまちのうちに池の水面は娼婦たちの体でおおわれた。
 すさまじい混乱がはじまった。深い部分に押し出された娼婦たちは、他の娼婦にしがみつき沈んでゆく。池に飛びこむ者は跡をたたず、人の体の上に身を投げる。辛うじて杭につかまった者の肩に他の娼婦がつかまり、さらにその娼婦の肩に他の者がしがみついて数珠つながりのようになった。
 死の苦痛からのがれようと、娼婦たちは必死に争った。溺死した者の上に死者が重なり、池は人の体でうずまった。そして、その上を踏んでわずかな空間を見出し、水に身を漬ける者もいた。水は、すでに湯のようになっていた。
 その間にも火災は、絶え間なく池の表面を薙いでいた。
 ・・・・・・吉原公園の死者は四百九十名、男五十二名で、女四百三十五名、性不詳三名と女性が大半を占めている。すぉの女性のほとんどが、新吉原の娼婦たちであったのだ。

 弁天池の様子は、吉原という特別な場所での被害として、何とも言えないものを感じさせてくれるが、特定の場所で最も被害が大きかったのが本所の被服廠跡であった。その被服廠あとを含め、震災は何人かの寄席芸人の命も奪っている。
 「びんぼう自慢」の中で志ん生は、こう語っている。
吉原もひどかったが、本所の被服廠あともひどかった。五代目の麗々亭柳橋てえ師匠も、あそこんとこでなくなった。ほかに古今亭志ん橋だの、奇術の帰天斉小正一なんぞも、震災でなくなっちまった。太神楽ァやっていた湊家小亀も、かみさんが行方不明になっちゃったてんで、オロオロしながら歩いて来ましたよ。

 関東大震災の直後に酒屋へ駆けつけた志ん生。対照的に師匠をはじめ、噺家や芸人の中には被害にあった者も多かったし、命を落とした人もいたのを考えると、一升五合の酒を一気の呑み、無事に震災を乗り切った志ん生には、その後につづく何度かの“ツキ”“幸運”の一つが、この時にもあったように思う。
 そんなことをしているうちに、大正十三年が来て、一月の十五日に女の子が生まれました。これが長女の美津子てえんです。この美津子が生まれて二日目の明け方に、グラグラッてんで、またひどい地震が来ましたよ。その時分はてえと、のべつ揺り返しが来たんですよ。ナマズの奴ゥ、なにかよほど腹ァ立ててたんでしょう。ですから、どこの家だって、すぐ逃げ出す用意をしている。
「そら、また地震だよッ!」
 てんで、寝ていたかかァが、赤ン坊かかえて、表へとび出しゃァがった。その早えの早くねえの、あんな体で、よく逃げられたもんだと思いましたねえ。
 あのとき、しばらくもどって来ないから、あたしは心配していると、ようやくもどって来た。
「オレより、赤ン坊のほうが大事かい」
 って、あたしがいうと、
「あァ、子供と亭主じゃァ、亭主のほうが他人だよ」
 ってぬかしァがる。なるほど、考えてみると、赤の他人同士が夫婦になって、その間に子供が生まれるんですから、そりゃァそうかもしれません。子供を生んだ途端、かかァてえものは、強くなるてえことを、あたしはそのとき、しみじみ感じましたよ。

 りん夫人が守った長女美津子さんは、志ん生一家でお一人だけ、今もご健在だ。結城昌治は『志ん生一代』で、震災後に美津子さんが生まれた時期を、次のように記している。
 この頃が美濃部孝蔵の前半生においてもっとも幸福に満ちた時代である。貧しかったし、芸人としてもあまり売れるほうではなかったが、家に帰れば妻が待っていて、可愛い赤ん坊が安らかに眠っていた。彼はこういう仕合わせを長い間あこがれていたはずだった。


 関東大震災は、日本という国にとっても大きな転機であったし、美濃部孝蔵という一人の男にとっても、その後の名人への道につながる大きな「替り目」であったのかもしれない。

 それにしても、大震災と同じ9月1日は、あの日と同じように朝から雨も風も晴れ間もある、不思議な天気であったなぁ。
Commented by 佐平次 at 2012-09-02 09:43 x
なにかのマクラでこのときのことを語っているのがありますね。
聞いているだけで酔っぱらいそうなマクラ。

Commented by 小言幸兵衛 at 2012-09-02 15:36 x
酒の件ですよね。
たしかに、なにかのマクラで、ありますね。
その“なにか”が、最近は思い出せなくなってきました^^
それにしても、あの大震災の直後、志ん生らしいエピソードです。

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by kogotokoubei | 2012-09-01 16:18 | 今日は何の日 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛