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噺の話

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安政地震と円朝—石橋克彦『大地動乱の時代』と小島政二郎『円朝』より。

また、今年も三遊亭円朝の命日8月11日がやってきた。今回は、円朝と地震をテーマに何か書いてみようと思う。

 昨年の大震災、そしてフクシマ以降、地震や原発関連の本を読む機会が増えたが、最近になってようやく、古書店で入手した石橋克彦著『大地動乱の時代-地震学者は警告する-』(岩波新書)を読んだ。1994年の発行。阪神淡路大震災の前年だ。

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石橋克彦著『大地動乱の時代-地震学者は警告する-』(岩波新書)

 まず、安政の大地震について同書から紹介したい。
 安政二年(1855年)に江戸で大地震があったのだが、この地震は前年の安政東海、安政南海に続くものだった。その頃は、ペリーに続いて、あの大国が日本に開国を迫る、政治的にも大きな変動期を迎えていた。

もう一つの黒船
 ペリーと相前後して日本に開国を働きかけ、数奇な体験を重ねた異国船とその指揮官がいる。帝政ロシアの提督プチャーチンは、嘉永六年七月、ペリーに遅れてはならじと四隻の艦隊で長崎に来航し、年末になって、江戸から派遣された筒井政憲、川路聖謨(かわじとしあきら)らの全権団と国境・通商の協議を始めた。
 日本側の首席は筒井だが、七十六歳の老人であり、重責が川路にかかっていた。彼は御家人から異例の出世をした俊才で、洋学者との交わりも広く、剣は柳生新陰流の免許皆伝である。このとき勘定奉行・海防掛で五十三歳、ロシア側からも知性と人柄を敬愛された。
 川路は強硬な姿勢をとり、プチャーチンも平和交渉を重んじたから、条約締結は目的を果たさず、通商を許す場合はロシアを最初にするという約束を取りつけただけで、嘉永七年正月にいったんは長崎を退去する。
 ところが、ペリーの脅しに屈した江戸幕府は、日米条約を先に結んでしまう。また、当時ロシアはトルコと戦っていたが、日米条約調印の三日前に英・仏もロシアに宣戦してクリミア戦争となり、ロシアの船は極東の海で英・仏艦隊に追われる身となった。


 地震の本から、これだけ歴史を学ぶこともできるのである。さて、この後プチャーチンは、この年(嘉永七年、1854年、その後改易されて安政元年)の九月に、2000トンのフリゲート艦ディアナ号に乗って、突如として大阪湾に姿を現し、幕府の指示により十月十五日に下田湾に投錨。江戸から急行した川路と十一月一日(陽暦十二月二十日)、福泉寺で会見した。
 川路は相変わらず強硬姿勢を崩さず、十一月五日に再度交渉することになっていた。さて、その頃、政治のみならず、日本列島の地下でも大きな動乱の兆しがあった。

安政東海地震
 十一月四日(陽暦十二月二十三日)は風もおさまり、朝から美しく晴れ上がった。伊豆半島西岸の山からは、穏やかな駿河湾のかなたに、真白な富士山がくっきりと望まれる。村人は朝から山仕事に忙しい。
 下田の泰平寺では、書き物などをして徹夜した川路が、夜明けごろ少し横になったあとで、遅い朝食をとっていた。湾内のディアナ号では、より安全な場所に停泊位置を変える作業がおこなわれている。
 そのころ、東海地方の大地の底では、暗黒の岩盤のなかにピチピチと割れ目が発生しつつあった。それは人間には気がつかれない微小なものだったが、やがて無数の割れ目がつながりあい、増殖するうちに、地面はかすかに安定を失いはじめた。
 午前十時ちかく、ついに割れ目の成長は爆発的になった。、斧を入れられた巨木がおのずから激しく裂けていくように、恐るべきスピードで亀裂が拡大し、駿河湾から遠州灘、熊野灘におよぶ広大な地下に巨大な裂け目ができてゆく。太平洋の海底の圧迫に一四七年間耐えてきた東海地方の大地は、いま緊縛を解き放たれ、巨大な亀裂にそって激しい身震いを始めた。
 M八.四といわれる「安政東海地震」の始まりである。
 (中 略)
下田
 ディアナ号はとつぜん浅瀬に乗り上げたような衝撃を感じ、激しく振動した。しかし、急いで測深してみると水深は十数メートルあり、振動も二分くらいで止んだ。これは、海底の地震動が海水を伝わって真上の船を揺らす「海震」という現象である。
 ところが、それから十五~二十分して、沖合から大波が押し寄せてきた。海面はみるみる膨れ上がり、ディアナ号からは、下田の町が泡立ちながら急速に沈んでいくように見えた。その中で大小の船が翻弄され、山のほうへ押し上げられてゆく。
 食事中の川路は、生まれて初めての激しい揺れに箸を置いた。壁に亀裂が走りはじめるのを見て這うように外へ出ると、寺の石塔などがみな倒れている。間もなく、津波が来たと町中が大騒ぎになり、川路も家来たちも近くの山に向かって逃げた。振り返ると、浪に崩れる人家の土煙がもうもうと立つなかを、大船が飛ぶように迫ってくる。全員、道のない絶壁を夢中でよじ登った。


 まるで、昨年3.11のような光景が目に浮かぶ。

 下田の町は完全に消え失せ、家や船の残骸が散乱する浜辺と化した。当時の記録によると、八百四十一軒が流出全潰、三十軒が半潰水入、無事なのは四軒だけ、土蔵は、百八十八棟のうち百七十三棟が流出、残りは半潰れ水入で、百二十二人が死亡したという。
 自分の艦が大破しているなかで、プチャーチンは夕方外科医や通訳らとともの上陸して見舞を述べ、医療活動を申し出た。日本側は謝絶したが、助けられた人々はロシア人を神様のように拝んだ。


 下が「安政東海地震」の震度分布図である。被害の概要なども、Wikipediaをご参照のほどを。(Wikipediaより)Wikipedia「安政東海地震」
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 この後にすぐ、追い討ちをかけるように起こったのが、「安政南海地震」である。

安政南海地震
 東海地方の地底の巨大な亀裂は熊野灘付近で止まっていたが、その西側の岩盤もきわめて不安定な状態にあった。ちょうど、増水した激流を辛うじて支えていた堤防が一ヵ所で切れると、その隣もいつ崩れるかわからないのに似ている。
 最初の巨大地震から約三十時間後、十一月五日(陽暦十二月二十四日)の夕暮れどき、ついに紀伊水道沖から足摺岬沖までの海底でも巨大な岩石破壊が発生した。M八.四とされる「安政南海地震」である。


 「安政南海地震」も、広い範囲で最大深度七の大地震であった。Wikipedia「安政南海地震」
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 安政の大地震は、東海、南海で終わってはくれなかった。日本列島の大地は翌安政二年にも動乱を続けた。

前兆
 朝晩の肌寒さが身に沁みるようになった安政二年十月二日(陽暦十一月十一日)。
 江戸は、はっきりしない空模様だった。黄ばみはじめた銀杏の葉を時雨が濡らしたかと思うと、薄日が顔をのぞかせたりもした。
 この日の昼ごろ、深川辺で井戸を掘っていると、地の底がしきりに鳴った。職人は気味が悪くなり、仕事をやめて帰ってしまった。利根川岸の布川(ふかわ、茨城県北相馬郡利根町)でも井戸の中が鳴動した。
 (中 略)

発震
 江戸直下の岩盤が、ついに大破壊をおこした。
 世にいう「安政の大地震」、または「安政江戸地震」、M六.九。最悪の江戸直下型大地震の発生である。
 「源氏店」の蝙蝠安で大当たりをとった三代目中村仲蔵(当時鶴蔵)は、そのとき南本所尾上河岸の中村屋(現在の首都高速両国インター北詰付近)の二階にいた。芝居がはねたあと、娘たちの踊りの会を見てくれと頼まれたのである。全部終わって四ツ(午後十時)の鐘が鳴り出したのを聞いているうちに、突如、地の底からドドドッと激しい衝撃が突き上げてきた。
 キャツと悲鳴をあげる女たちを鎮めて立ち上がるうちに、いっそう強い横揺れが始まった。仲蔵は、階下へ降りるのは危ないと考えて屋根へ出ようとするが、足を取られて歩けない。
 中村屋は隅田川べりの風流な料理茶屋で、尺角(断面が約三十センチ四方の角材)の太い柱を立てた大きな建物だったというが、古い造りで、やがて倒壊する。仲蔵は、畳の落ちた穴にはまって敷居で肋骨を強く打ち、落ちてきた鴨居で頭を打たれた。しかし、運よく天井を破って、なんとか屋根へ出ることができた。まわりを見渡すと、東側の相生通りは早くも火が出て盛んに燃えており、南方の深川森下はいま燃え上がったところだった。
 幸い中村屋は出火しなかった。仲蔵自伝の『手前味噌』によると、彼の誘導で、会主の女師匠はじめ二十五、六人が屋根へ這い出してきた。死者のことは書かれていない。しかし、彼女たち十九人ほどが即死したという伝聞や、「打どめに階子(はしご)のおどる中むらや」という狂句もあり、何人かの犠牲者がでたのかもしれない。


 ふたたびWikipdiaからの引用。Wikipedia「安政の大地震」
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 ここからは小島政ニ郎の『円朝』から、この地震の描写を紹介したい。

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小島政二郎著『円朝』(河出文庫)

 円朝は、文字通り売れっ子になった。
 そうなると、方々の寄席から彼を買いに来た。現に、吹抜亭では、
「若師匠、このまま来月一ト月打ち通して見ちゃ、どうでしょう」
 そういう話を持ち込んで来た。
「そりゃ願ってもないことですが、しかし、一ト月というのがいいところでしょう。いずれ近いうちに、またお宅へ看板を上げさせて頂きますが・・・・・」
 正直の話、彼としては江戸市中至るところで自分の腕をためして見たい気が強かった。
 中には、
「是非家へ出て下さいよ。木戸銭は、お望み通り上げをしてもよござんす」
 金で釣りに掛かって来た席亭もあった。しかし、そういう話はみんな断って、初めから約束のあった神田の川芳亭へ出ることにした。


 円朝は、この年、数え十七歳の若さで真打になり円朝を名乗ったばかり。金よりも仁義を優先して出演した川芳亭で、円朝は“その時”を迎えた。

 円朝の話が、もう終りにはいろうとしていた時、どこからともなくゴーッという地鳴りがしたと思うと、突然下から突き上げるような上下動の地震が襲って来た。

 寄席から時ならぬ悲鳴が起こった。同時に、人々の姿がワヤワヤと入り乱れた。
 けたたましく、戸、障子のはずれる音、壁のくずれ落ちる音、壁土の砂ほこり、瀬戸物の割れる音、八間のあかりが、天井にぶつかる音、人の泣き声、間を置いてはゴーッという地鳴りの音、天地は音の乱暴狼藉と化した。
 それだけでも、恐ろしかった。その上、あかりというあかりが消えて、あたりは一面闇になった不安。安泰なものと思い込んでいた家や大地が激しく揺れ動いて、たよりにならなくなった恐れ。
 現に、円朝の坐っている左右にともっていた百目蝋燭が、ひとッたまりもなく倒れて消えた。火鉢とその上の鉄瓶が、どこかへ消し飛んで行った。
 うしろの、四枚はまっていた欅の扉が四枚ともはずれて、彼の上へ一時に倒れ掛かって来た。
 高座ごと、ドスンと揺り上げられて、ドスンと揺り落とされた。それだけで、高座はヘタヘタとなってしまった。あとはグラグラと左右に大幅にゆすぶられて、それがいつやむとも思えなかった。天井が頭の上へ落ちて来たのも、円朝は夢中で知らなかった。


 小島政二郎は、必死に外へ飛び出した円朝が、そこで運命的な出会いをする筋書きにした。石橋克彦は中村仲蔵の自伝『手前味噌』から事実に近い描写をしたと思えるが、小島の説は、あくまで創作であろう。『手前味噌』を読んで、仲蔵を円朝に置き換えることを着想したことも、大いにありえることだろう。

 振り返ると、川芳亭は、人間が膝を突いたような恰好で前へ倒れていた。見ると、そこに何か動いているものがあった。
 よく見ると、人間らしかった。何か叫んでいる。近くへ寄って見ると、若い女だった。片方の足を軒桁にはさまれて、立つことも出来ず、地面に倒れたまま、もがいていた。
 円朝は駈け寄って、軒桁を持ち上げようとしたが、ビクとも動かなかった。梃子八人力という言葉を思い出して、手ごろの材木を探し出すと、それを軒桁にかって肩を入れた。
 そこへ二三人加勢が現われて、材木が二本になり、どうやらジリジリと二三寸動いた。
「どう?抜けませんか」
  だれかが聞いた。
「抜けましたわ、抜けましたわ」
 うれしそうに女が叫ぶように云った。それを聞くと、加勢の人たちは、なんにも云わずにプイとどこかへ行ってしまった。
 女は立ち上がったが、すぐまたしゃがんでしまった。
「どうかなさいましたか」
 円朝が、のぞき込むようにして聞いた。
「痛くって、立てませんの」
 女は足の付け根を手で押さえて、顔をしかめている風だった。
「そうしていても、ズキズキと痛みますか」
「いいえ、こうしていれば、それほど痛くはございません」
「それじゃ、骨は折れていませんね」
 そう云っている時に、またダ、ダ、ダと大地が揺れて来た。
「あぶない、早くこっちへいらっしゃい」
 彼が手を出すと、女はあわててそれにすがりついて、ビッコ引き引き往来のなかへ出て来た。
「ハハハ、歩けましたね。この分なら、大丈夫だ」
 とりあえず、往来なかに落ちていた竹ッ切れを拾って、杖代りに彼女に持たせて彼は歩き出した。
 (中 略)
「歩けますか」
「だって、歩かなければ仕方がないでしょう」
「さっきから、駕籠をと思って気を付けているんで4すが・・・・・・」
「無理よ、こんな時に・・・・・・。お師匠さんと一緒なら、私、谷中までだって歩けますわ」
「なアんだ、御存じだったんですか」
「当り前でしょう、私、お師匠さんの話を聞きに行ったんですもの」
「そりゃどうも・・・・・・。とんだ災難にお合わせした訳ですね」
「本当よ。でも、お師匠さんに助けて頂いたんだからうらみっこなしだわ」
 会話の間に、見るともなく相手を見ると、女は縮緬ゾッキのいいナリをしていた。着物には、香が焚き込めてあるらしく、奥ゆかしい香が立ち迷っていた。



 さて、安政江戸地震の混乱の中で小島政二郎が円朝との出会いを演出した女性とは、いったい誰なのか。

 下谷に近付くにつれて、人通りが多くなって来た。男も女も、みんな恐怖に目が据わって、火事で焼き出されたのだろう、それぞれ乏しい荷物をしょってトボトボと歩いていた。
「お宅までお送りしましょう。どちらです?」
 広小路までたどり着いた時、円朝はそう云って聞いた。女が何者であるか突き留めたい興味と、早くこの女と別れて小稲が無事かどうか確かめたい気持とに駆り立てられていたのだ。
「そうお。でも、家なんか、つぶれてしまったでしょうね」
 どこか殺気をおびた町の空気とは、およそ縁のないノンビリした調子で彼女は答えた。
 住まいはお徒士町だという。お同朋衆の倉岡元庵の娘で、名をおさとという由を彼女は打ち明けた。
「道理で・・・・・・」
 円朝は初めて合点が行った。お同朋衆は、俵で数えるほど扶持は少いが、お城で諸大名の着物の世話、茶の世話、食事の世話などする役ゆえ、心付けがタンマリもらえる、で、日常生活はおごったものだった。どこかその風がおさとの身に付いていた。


 小稲とは、その頃、円朝が心を奪われつつあった円朝贔屓の芸者である。松井今朝子の『円朝の女』には、吉原芸者の美代次が登場するが、ほぼ同じ役柄といえるだろう。

 そして、おさとこそ、その後に円朝と再会して一人息子朝太郎を生むことになる女性である。ちなみに『円朝の女』では「其ノ三 すれ違う女」に登場するが、小島のように地震を出会いの場とする演出ではなく、円朝贔屓の客として扱われている。もし、小島が安政江戸地震を二人の出会いにしなければ、きっと松井と同じような設定になるだろう。しかし、小島政二郎は、なぜか安政二年の大地震に二人の最初の出会いを設定した。それは、円朝とおさとのその後の関係を暗示させるものとして地震を舞台に使ったようにも思う。円朝とおさとの関係は、最終的には“ひび割れ”が入るから。おさとや朝太郎のことなどは、後日、松井今朝子の『円朝の女』を中心として書きたい。

 安政元年に東海地震と南海地震が続いて大きく揺らいだ日本列島。そして翌年の江戸地震を思うと、昨年3.11で大きく揺らいだこの島国の地下の胎動が、次なる大きなうねりにつながるような気がしてしょうがない。石橋克彦の本を読みながら、安政江戸地震と円朝との関係を描いた小島政二郎の書を思い出したのが、今回の内容を書くきっかけだった。円朝のことより安政地震が主役になったかもしれない。円朝の命日にふさわしかったか否かは、やや自信がない。(オソマツ)
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by kogotokoubei | 2012-08-11 17:49 | 落語家 | Comments(0)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛