「教え、育む」場は、なぜ「いじめ、疎外する」場になったのか・・・・・・。
2012年 07月 13日
「内田樹の研究室」の該当ページ
いじめについて
ある媒体から、大津市のいじめについてコメントを求められた。
書いたけれど長くなったので、たぶん半分くらいに切られてしまうだろう。
以下にオリジナルヴァージョンを録しておく。
今回の事件はさまざまな意味で学校教育の解体的危機の徴候だと思います。
それは学校と教育委員会が学校教育をコントロールできていないということではなく、「コントロールする」ということが自己目的化して、学校が「子供の市民的成熟を支援する」ための次世代育成のためのものだということをみんなが忘れているということです。
私の見るところ、「いじめ」というのは教育の失敗ではなく、むしろ教育の成果です。
子供たちがお互いの成長を相互に支援しあうというマインドをもつことを、学校教育はもう求めていません。むしろ、子供たちを競争させ、能力に応じて、格付けを行い、高い評点を得た子供には報償を与え、低い評点をつけられた子供には罰を与えるという「人参と鞭」戦略を無批判に採用してる。
であれば、子供たちにとって級友たちは潜在的には「敵」です。同学齢集団の中での相対的な優劣が、成績評価でも、進学でも、就職でも、すべての競争にかかわってくるわけですから。
だから、子供たちが学校において、級友たちの成熟や能力の開花を阻害するようにふるまうのは実はきわめて合理的なことなのです。
周囲の子供たちが無能であり、無気力であり、学習意欲もない状態であることは、相対的な優劣を競う限り、自分にとっては「よいこと」だからです。
この内田の主張には、大阪で橋下が進めようとしている教育現場への「競争原理」の導入の批判的視点が見えるが、それはこの後の文章でより一層明確になる。
「いじめ」は個人の邪悪さや暴力性だけに起因するのではありません。それも大きな原因ですが、それ以上に、「いじめることはよいことだ」というイデオロギーがすでに学校に入り込んでいるから起きているのです。
生産性の低い個人に「無能」の烙印を押して、排除すること。そのように冷遇されることは「自己責任だ」というのは、現在の日本の組織の雇用においてはすでに常態です。
「生産性の低いもの、採算のとれない部門のもの」はそれにふさわしい「処罰」を受けるべきだということを政治家もビジネスマンも公言している。
「競争原理」を教育の現場に持ち込んで、「生産性」の低い個人が冷遇されることの常態化を一層強固なものにしようとしている者が、大阪の市長である。
「内田樹の研究室」には、この件の「続き」が連日で書かれている。最近、内田先生の執筆の頻度が上がっているのが、なんともうれしい^^
「内田樹の研究室」の該当ページ
いじめについての続き
ある媒体で、「いじめ」についてコメントした。それは昨日のブログに書いた通りでアル。
それについて追加質問が来たので、これも追記として書き留めておく。
Q: 学校という場は社会の雰囲気とは切り離されたものではなく、一定程度の影響を受けていると思います。現実に、リストラが激しくなる一方ですし、1分1秒ごとに自己成長を求められる息苦しい世界になりました。この状況にあって、学校だけを過度な競争社会から切り離してある種のユートピアにすることは可能なのか、それとも競争を是とする今の社会を根底から変えない限り、社会に蔓延するいじめ体質はなくならないのか。この点はどう思われるでしょうか。
A: 学校は本来は苛烈な実社会から「子供を守る」ことを本務とするものです。それは学校というものの歴史的発生から明らかだと思います。
ヨーロッパで近代の学校教育を担った主体のひとつは、イエズス会ですけれど、それは「親の暴力から子供を守る」ためでした。当時のヨーロッパで子供たちは親の所有物とみなされており、幼年期から過酷な労働を強いられ、恣意的な暴力にさらされておりました。イエズス会は「神の前での人間の平等」という原理に基づいて、「親には子供を殺す権利はない」としたのです。
学校の歴史的使命は、何よりもまず「子供を大人たちの暴力から守る」ことでした。それは今も変わりません。
子供を幼児期から実社会の剥き出しのエゴイズムの中に投じると、どのように悲惨な結果を生じるかは、マルクスの『資本論』の中の19世紀イギリスの児童労働についてのレポートを読むとよくわかります。
子供を心身ともに健全に育て、強者からの暴力や収奪からる自分を守ることができるだけの力をつけさせるためには、彼らを一時的に世俗から切り離し、一種の「温室」に隔離することが必要だったのです。
学校に弱肉強食の競争原理を持ち込んで、「子供の頃から実社会の現実を学ばせた方がいい」としたりげに言う人々は、その考えが学校教育の本質の一部を否定しているということを自覚していません。
質問に対するお答えは、ですから「学校に競争原理を導入すべきではない」というものです。最優先するのは、「子供を暴力と収奪から守る」ということです。
「いじめ」は学校に滲入してきた「外の原理」です。
学校で子供がまず学ぶべきことは、相互支援と共生の原理です。
より一層、内田が誰を念頭においてコメントしているかが明確になった。
学校に弱肉強食の競争原理を持ち込んで、「子供の頃から実社会の現実を学ばせた方がいい」としたりげに言う人々は、果たしてこのブログを読んでいるだろうか・・・・・・。
「いじめは、昔からあった」と良く言われるし、私もそう思うが、たとえば昭和30年代から40年代のそれと今日学校で起こっているものは、大きく中身が異なっている。昔のいじめっ子(加害者)は、決して“団体”ではない。せいぜい数名。そして、いじめの加害者に対して、教室の大多数は批判的だった。そして、先生は、複数で一人を相手にいじめをする「卑怯者」を叱ることはあっても、一緒になって楽しむなどという事態はありえなかった。
まず、「卑怯な行為」を恥じる気持ちや、「相互扶助」の精神が、かつての教室にはあったはずだ。それは、まず家庭で親から“躾”として教えられ叩き込まれた精神であって、教室は、ある意味で実践の場であったとも言える。もちろん、“向こう三軒両隣り”を中心に、ご近所でもたくさん学ぶことができた。やっちゃいけないことをした時には、親だけではなく、近所の怖いおじさん、おばさんが叱ったものだ。
現在では場合によっては「大多数でよってたかって、特定個人をいじめる」という状況も多いようだが、これはかつての「いじめ」とは明らかに違うものだ。そして、今起こっている「いじめ」について、ある部分は「生産性」や「競争原理」の論理の教育現場への導入、そして「外の原理」からの保護作用の喪失で説明できるだろうが、それだけでは言葉が足らない面もあるように思う。単に「集団心理」という言葉でも説明できない、何かがある。
実は、内田樹自身が、家庭と学校の破綻について、別な切り口で語っている。

内田樹著『下流志向』(講談社文庫)
内田は、著書『下流志向』で、家庭や学校において進められている「ゲーム」と「ルール」を次のように表現した。第一章「学びからの逃走」から。
子どもたちは何も生産できません。生産したくても能力がない。片務的な保護と扶養の対象であるしかない。その債務感は、かつては子どもたちを家事労働に向かわせたのですが、今の子どもたちには家庭に貢献できるような仕事がそもそもありません。彼等に要求されるのか、「そんな暇があったら勉強しろ」とか「塾に行け」という類のことだけです。そして、夜遅くに家に戻り、疲れ切って口をきく気力もなく、家族たちに気づかう余力もなく、ただ全身で疲労と不快を表現することで、子どももまた子どもなりに「おつとめ」を立派に果たしたことを示そうします。父や母がそうしているように、十分に不機嫌でありうるということによって、子どもたちは不快に耐えて、家産の形成に与っていることを誇示しているのです。
家族の中で「誰がもっとも家産の形成に貢献しているか」は「誰がもっとも不機嫌であるか」に基づいて測定される。
これが現代の家庭の基本ルールです。
不快を記号的に表示することで交換を有利に導こうとするタクティクス。これが八〇年以降、学校教育の組織的な破綻をもたらしました。諏訪哲二さんはだいたいそういうことを主張しています。僕もこれは洞見であると思います。このロジックで、学びの場、労働の場で起きている不可解な現象のいくつかは説明ができそうです。
今日、家庭や学校で繰り広げられているゲームでは、先に「不快」を表現した者が勝つというルールである、と内田は言う。
実は、この「不快」の表現が、今日の「集団的いじめ」の一因ではないだろうか。それは、学校においては、たとえば「うざい」などと言う言葉に乗って弱者に対して繰り出される“カード”なのだろう。そして、そのゲームに参加し勝とうとする他のプレーヤーも、そのカードにむらがろうとする。非常に短絡的な言い方になるが、結果として多くのプレーヤーから“うざいカード”を突き付けられた者は、敗者となる。
たしかに「先に不快を言った者が勝ちゲーム」が、「いじめ」の根底にあるのかもしれない。それは、かつて「差別」とか、「弱い者いじめ」と言われた行為を容認させ助長させることにつながる。
「教え、育(はぐく)む」場であった学校が、その様相を大きく変えてきたのは間違いない。そして、この現象は、必ずしも日本だけで起こっているわけではない。
以前にも紹介した藤原正彦の『国家の品格』(2005年新潮新書発行)から、あらためて引用したい。第一章「近代的合理主義の限界」から。

家庭崩壊や教育崩壊も、先進国共通の現象です。教育崩壊による学力低下、子供たちの読書離れ、少年少女の非行は、どの先進国でも問題になっています。
(中略)
世界中の心有る人々が、このような広汎にわたる荒廃を「何とかしなければいけない」と思いながら、いっこうに埒があかない。文明病という診断を下し眉をくもらせているだけという状況です。この荒廃の真因はいったい何なのでしょうか。
私の考えでは、これは西欧的な論理、近代的合理精神の破綻に他なりません。
この二つはまさに、欧米の世界支配を確立した産業革命、およびその後の科学技術文明を支えた礎です。現代文明の原動力として、論理・合理の勝利はあまりにもスペクタキュラー(劇的)でした。そこで世界は、論理・合理に頼っていれば心配ない。とそれを過信してしまったのです。
論理とか合理というものが、非常に重要なのは言うまでのありません。しかし、人間というのはそれだけではやっていけない、ということが明らかになってきたのが現在ではないでしょうか。近代を彩ってきたさまざまなイデオロギーも、ほとんどが論理や近代的合理精神の産物です。こういうものの破綻が目に見えてきた。これが現在の荒廃である、と私には思えるのです。
内田と、表現の仕方は違えども、家庭や学校の問題の原因に関する指摘は相通じるものがあると私は思う。
西欧的な論理や合理だけでは「やっていけない」と、アメリカ、イギリスへの留学経験もある著名な数学者が主張するからこそ、言葉に説得力があるように思う。
藤原正彦が「破綻」したと指摘する西欧的な論理、近代的合理精神の信奉者が未だにいる。
橋下によって、教育の現場に「競争」の論理を導入することで、「いじめ」は、ますます日常化するだろう。なぜなら、生徒の成績が悪くなれば、その先生が叱責され罰を与えられる構造が強化されるのだから、生産性を落とす生徒は、今まで以上に阻害され、いじめられる。
「教え、育む」場は、どんどん弱い者を「いじめ、疎外する」修羅場になろうとしている。「教育の崩壊」は、「競争原理」さえ導入し「人参と鞭」を用意しておきさえすれば問題が解決すると勘違いしている者によって、より一層悪化するだろう。
いじめる側にまわっていれば安心、またはそれをほめるような心情がありはすまいか。
たとえば、電車に駆け込んで自分の子供のための席を確保している母親などを見ると、なんとも嫌な気分になります。
藤原正彦は「武士道精神」の復活を主張していますが、これはどちらかと言うと父親が子供に叩き込むもの。
今の問題の多くは母親にあるように思います。
子供の前で父親の悪口を言う母親の子は、きっといじめる側に回るのでしょうね。
