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山田五十鈴の代表的な舞台、『たぬき』について。

 山田五十鈴が95歳で亡くなった。亡くなった時のことを演出家で長年親交があった北村文典が語っているニュースは、さまざまのメディアで取り扱っているが、写真がなかなか素敵なので、産経から引用する。
*このブログの通例で、敬称は略します。
MSN.産経ニュースの該当記事

「たぬき」の三味線の音に首動かす 当日の様子
2012.7.10 19:35

山田五十鈴の代表的な舞台、『たぬき』について。_e0337777_11085300.jpg


「たぬき」の立花家橘之助の役を演じる
山田五十鈴さん=昭和52


 山田五十鈴さんの訃報を受け、長年親交のあった演出家の北村文典(ふみのり)さん(66)が10日、東京都内で会見を開き、亡くなる当日の様子などを明かした。

 北村さんは9日昼、入院先の都内の病院から「山田さんの呼吸の状態がいつもと違う」との連絡を受けた。駆けつけたところ、山田さんは酸素マスクを装着してベッドに横たわっていた。しかし、呼びかけにもうなずき、代表作の舞台「たぬき」の三味線の音を流すと、拍子を取るように首を動かしたという。

 血圧は安定していたが、夜になり容体が急変。医師らに囲まれ、「苦しむことも少なく、眠るように天寿を全うした」(北村さん)という。息を引き取った5分後に北村さんは再び病院に駆けつけた。山田さんの安らかな表情と艶やかな肌を見て、「僕が出会った頃の、50歳くらいの山田さんを見た気がした」という。


 舞台『たぬき』は、榎本滋民作。山田五十鈴が演じたのは立花家橘之助。古今亭志ん朝も出演した。

 矢野誠一は『落語讀本』(文春文庫*今では古書店でしか入手できない)における『権助提灯』の「こぼれ話」に、次のように書いている。

 明治・大正・昭和三代の寄席演藝界に君臨した女流音曲師立花家橘之助の生涯を劇化した榎本滋民作『たぬき』の初演は、一九七四年(昭和49)藝術座で、橘之助は山田五十鈴が扮した。
 この芝居のなかで、古今亭志ん朝の扮する若い落語家に、橘之助が『権助提灯』の稽古をつけるところがあった。志ん朝は、本職の、しかも格段にうまい落語家である。その志ん朝の『権助提灯』に山田五十鈴がダメを出す。無論、志ん朝は役者としてこの芝居に出ているのだから、わざと下手にしゃべる。そうはしても、才能ある落語家の根はかくせるものではなく、あたりまえのことだが、あとからダメを出す山田五十鈴よりもずっとうまい。けれども『権助提灯』というむずかしい落語のむずかしい部分のダメの出し方として、まことにはっきりと演じ方の相違を、山田五十鈴はしめしてみせた。つまり、落語の稽古をつけるしゃべり方というものを、きちんと把握した演じ方であることに、舌をまかされたのである。その上、男名前に固執した橘之助の勝気な一面を、落語の稽古を介して、はっきりと見せてくれたのだ。女優というよりも女役者といいたいひとである。



 残念ながらこの舞台を見ていないので、この稽古の様子は推測するしかないが、さぞかし落語愛好家の方には楽しい場面だったのだろうと思う。

山田五十鈴の代表的な舞台、『たぬき』について。_e0337777_11085455.jpg
 
   今村信雄著『落語の世界』(平凡社ライブラリー)

 今村信雄は、著書『落語の世界』で、立花家橘之助について「女大名橘之助」という題で次のように書いている。

 落語研究会の中堅で、特に人気のあったのは、馬生とむらくだった。馬生は研究会には全然関係のなかった助六(あだ名しゃも)の門人で小助六といったが、後に馬生と改名し、また志ん生となった。むらくは大阪の落語家月亭都勇の倅で、笑福亭木鶴の門人となり、都木松と名乗った。どういう訳だったか東京へ出て来て浮世節の立花家橘之助(女)の弟子となり、橘松といった。のちに立花家左近と改め、また橘之助の亡父(*正しくは亡夫)六代目むらく(本名永瀬徳久)の跡をついで七代目むらくとなった。もともと橘之助は落語家ではないから師弟といっても名前だけ。東京へ来てからの橘松は円左についてはなしを習っていた。左近となったのもそんな所からつけた名前ではなかったろうか。橘之助は初代三遊亭円橘の弟子で、八歳で初高座、明治八年だった。地は彼女の少女時代三味線をひいていた清元喜代八に教えられた清元だったろうと思うが、長ずるに及んでからは、清元でござれ、長唄でござれ、常盤津でござれ、何でも自由にひきまくり、浮世節で名をなした。橘之助は三味線の名手で、長唄の三味線ひきなども舌を巻いて驚いたくらいだ。彼女は頗る浮気性で、橘之助の百人斬りなどといって有名だった。それが何処までも浮気で、十六歳の時に大阪に於ける中村雁次郎との初恋にはじまって、横綱常陸山との噂も高かったが、えらいことにただの一度もそういう意味で客に招かれたことはなかった。明治二十二年だから橘之助が二十二歳の時、四代目円生の門人全亭武松と深くなり手に手を取って東京を駆け落ちし、世間をあッといわせたが、やがて詫びをして二人は東京っへ帰って来て夫婦になった。おかげで武松は師匠に勘当され名前を取り上げられたので、暫く本名の永瀬徳久で席に出ていた。後にこれが六代目むらくになったのだが、明治四十年一月五日に病死している。後家になってから橘之助は盛んに浮気をしたらしい。


 名人芸を誇り、恋多き女性であった立花家橘之助が、山田五十鈴の人生と重なり合っているように思うのは私だけではないだろう。

 古今亭志ん朝の『たぬき』での役が、七代目むらく(のちの三代目三遊亭円馬)だったのかどうかは、勉強不足で分からない。しかし、そんな気はする。

 三代目三遊亭円馬と八代目文楽の誕生日である二年前の11月3日、すでに引用した『落語の世界』の文章の後に続く、橘之助をめぐる、むらくと四代目橘家円蔵の揉め事について書いたが、あらためて紹介したい。2010年11月3日のブログ

 しかし彼女はあだ名を女大名といわれたくらい我儘一ぱいだったから、金のある有名な男よりも若い前座などを多く愛した。翌朝彼女は男に向かって「お前気を残すんじゃないよ、これでお湯にでも行ってお出で」と、なにがしかの小遣いを与えたという話だ。
 弟子のむらくとの仲も、同業者の間で相当やかましくいわれていた。むらくと円蔵との喧嘩も鞘当の結果だそうだ。



 文楽の『芸談 あばらかべっそん』にも、喧嘩の理由を裏付ける内容があるのでこちらも再度紹介。*「むらく時代」の章から抜粋。桂文楽 『芸談 あばらかべっそん』
*私はこの本を「朝日ソノラマ」版で古書店で購入した。ちくま文庫で1992年に発行されたが、現在入手困難。事情があるのかもしれないが、ちくま文庫での再販あるいは新装版を期待している。あるいは小満ん著『べけんや』を発行してくれた河出文庫でも結構。落語の歴史を知る上でも貴重な記録である。
 

 何しろそのころの「朝寝坊むらく」の円馬師の売れ方といったらすばらしいもので、飛ぶ鳥を落す勢いの「首提灯」が特に巧かった品川の師匠(四世橘家円蔵)と、三遊派で女ながらも第一の勢力があった浮世節(うきよぶし—今日の俗曲)の立花家橘之助師とがいつもスケ(助演)にでてはひっぱったから、本来巧いところへ一そうメキメキと売出した。円馬師は、はなしかだがこの橘之助師の門人で、橘松から左近になったのです。
(中略)
 もちろん、古いはなしも前いったように何百とやれば、新作もいろいろやる、外国ダネの童話なんかへもサゲをつけて立派な落語にしましたし、踊りも上手で「槍さび」が十八番でしたが、それも普通の人のやるような丸橋の壕端なんかじゃない、同じ丸橋でも召捕りの大立廻りをやるし、国姓爺の楼門なんて皮肉なものもやるし、それにお花の心得があったもので、お花を生け終るまでをちゃんと「槍さび」の三味線に合わせてやった。
 こうなると流石の品川の師匠もそろそろこわくなって来たらしいので、そのときですよ、あの加納鉄斎(かのうてっさい)さんが、いま私が持っていますが師匠の似顔を煙草入れの筒へ彫って、その似顔の鼻を釘ぬきでぬこうとしている図柄なんですが、その脇に「名人にならぬよう御用心々々々」とさらに彫り付けたのをくれたくらいです。
 鉄斎さんがひいきにして心配してくれたよう、間のなく新富座へ惣見(そうけん)があったとき、芝居茶屋(昔はあった、お客を劇場へ案内する店)で品川の師匠と大喧嘩をして、東京を売ってしまいました。深いことは分かりませんが、橘之助師匠との三角関係だということです。


 “百人斬り”の魔力に円蔵もむらくも幻惑されてしまったわけだ。怖いね、女は。円蔵と喧嘩して橘之助から破門され大阪に戻ったのが円馬34歳の時。橘之助は円馬の16歳年上。円蔵が橘之助より二歳年上。52歳、50歳、34歳での三角関係だったわけだ。橘之助は円馬にとって落語ではなく、人生を“落伍”させられかけた師匠だったともいえる・・・・・・。(イマイチ・・・・・・。)

 さて、恋多き橘之助だが、その芸の凄さでも逸話を残している。たとえば、三味線の演奏中三絃のうち二絃が切れても、残りの一絃だけで、三絃ある時と変わらない演奏をして見せたと言われる。この橘之助の役は、山田五十鈴でなければ到底できなかっただろう。そして、今後、誰にも真似ができそうにないように思う。単に三味線が上手いだけでは舞台はつとまらない。芸が出来なければね。橘之助は、初代橘ノ円と夫婦となった後に引退し、余生を京都で過ごそうと昭和10(1935)年6月に引っ越しした矢先、北野天満宮そばの紙屋川が氾濫して自宅が流され、夫と共に水死した。慶応2(1866)年生まれ、68歳だった。

 この橘之助を描いた舞台で、山田五十鈴は芸術祭大賞を受賞しているし、その後女優として初の文化勲章を受章したのも、この舞台の高い評価が寄与していると思われる。

 ぜひとも『たぬき』の舞台の映像を、追悼番組として放送して欲しいものだ。
 実は、ほんのサワリだけは見たことがある。志ん朝が亡くなった後、平成13(2001)年10月6日にNHKで放送された追悼番組『古今亭志ん朝さん 江戸の粋をありがとう』の中で昭和49年の舞台の一部が紹介されていた。

 この舞台、ぜひ全篇見たいではないか。

 その映像は、もちろんある。NHKは1999年12月にBSで放送している。
NHKクロニクルの該当ページ

山川静夫の"華麗なる招待席"
−女優・山田五十鈴− ■舞台「たぬき」
1999年12月7日BS 2
主な出演者
山川静夫 山田五十鈴 都家歌六 日下武史 丹阿弥谷津子 小鹿ミキ 古今亭志ん朝 江戸家猫八


 これは、ぜひ放送して欲しいものだ。
 
 あるいは、1975年の正月に総合テレビで放送されたものでも良い。
NHKクロニクルの該当ページ

劇場中継
「たぬき」 ~立花家橘之助~
1975年1月2日総合
主な出演者
山田五十鈴 日下武史 丹阿弥谷津子 古今亭志ん朝 一の宮あつ子 江戸家猫八 金原亭馬の助


 ちなみに馬の助は、この年の12月の「たぬき」再演中に入院し、翌年2月に亡くなっている。馬の助の演技にも興味はあるが、いずれでも結構。

 NHKさん、よろしくお願いします!
Commented by at 2012-07-12 12:19 x
一気に読ませていただきました。

ありがとうございます。

NHKさん、再放送してください。『たぬき』を。
よろしくお願いいたします。

私のまわりにも 三味線を なさる方 がいます。
皆さん、粋で美人なんですよ。

Commented by 小言幸兵衛 at 2012-07-12 13:03 x
三味線を弾く粋な美人に囲まれているなんて、凡さんがうらやましい^^

また一人、昭和の「名人」が去っていきましたね。
まぁ、年齢からは往生と言ってよいのでしょう。
「天国座」には、先に志ん朝や馬の助が待っているので、さっそく『たぬき』が開演するのでしょう。
地上でも、ぜひ見たいですものですね。

Commented by at 2012-07-13 20:39 x
どちらかと言えば、我々が取り囲んでいます。

鳴り物を やってもらう為に、『七度狐』や 『たちきれ線香』まで 覚えましたよ。向こう見ずでした。

Commented by 小言幸兵衛 at 2012-07-13 21:26 x
囲むのだって楽しいでしょう^^

ほう、どちらの噺もハメ物が大事ですね。
次は、『本能寺』ですか!

Commented by 創塁パパ at 2012-07-22 06:57 x
「大須」のCDで志ん朝が「たぬき」のことを語っています(笑)

Commented by 小言幸兵衛 at 2012-07-22 08:02 x
まだ、追悼番組をやりそうな気配がない・・・・・・。
というか、そろそろ時間的に「追悼」ではなくなってしまいます。
いろいろ再放送への障害もあるのかもしれませんが、宝の持ち腐れですね。

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by kogotokoubei | 2012-07-11 20:15 | 伝統芸能 | Trackback | Comments(6)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


by 小言幸兵衛