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噺の話

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なぜ、小沢一郎は攻撃されるのか?

ある本からの引用。

 「政治とは何か」ということを具体的に考えていく上で、政治と官僚の関係を考えるというのも重要なことの一つだろう。
 日本では長いこと、「官僚信仰」とでも言うべき思想が国民の間に定着していた。
 永田町の政治家たちはいつも政治に明け暮れているし、金権政治をやっているようで信用できない。それに比べて、霞ヶ関で働いているお役人たちは、東大法学部卒のエリートであり、清廉潔白な人々である。そういうエリート官僚たちが日本を支えてくれたほうが、ずっと安心だ-ざっと言えばこういう思想である。
 しかし、そうした官僚に対する国民の絶対的な信頼はここ10年くらいの間に急速に揺らいできた。
 その理由はいくつもあるが、その最大の一つは何と言っても、エリート官僚たちがいてもバブルの崩壊や平成不況はちっとも防げなかったという事実だ。さらに、相次ぐ官僚の不祥事やスキャンダルで、官僚がけっして清廉ではないことも明らかになった。
 そこでようやく官僚信仰から脱却しなければいけないという気運が国民の間に広まってきた。今の民営化論議にしても、こうした国民意識の変化なくしてはありえなかっただろう。
 だが、こうした官僚をめぐる問題を、新聞やテレビなどが「官僚の質の低下」「モラルの低下」という次元だけでしばしば報じているのは問題の本質を捉えていないと僕は思う。
 そもそも、民主主義国家である日本の政治を政治家ではなく、官僚が取り仕切ってきたこと自体が異常な事態なのだ。かりに官僚の質やモラルが向上したとしても、官僚が政治に手を染めること自体、民主主義に反することだ。
 そのことを問題にしない日本のマスコミは「民主主義の常識」が欠落していると言っても、けっして大げさではない。



 「リーダー待望論」という言葉があちこちで聞かれるようになって久しい。
 強いリーダーシップを持った指導者を日本国民が求めるようになったのは、それだけ今の日本が抱えている問題が、従来の「日本型コンセンサス社会」のやり方では解決できないという危機意識の現われだろう。また、それと同時に、現在の日本には本当の意味で「リーダー」と呼べる人材があまりにも不足しているという事実の現われでもあると思う。

 

 では、いったい「優れたリーダー」とはどういう資質を持った人のことを言うのだろうか。
 古今東西、さまざまな人たちがリーダー論を語ってきたわけだが、僕なりに「リーダーとは」という定義をしてみれば、次の言葉に集約できるのではないかと思っている。
 すなわち、「リーダーとは自分の目指すものを明確に掲げ、自分で決断し、自分の責任において実行できる人物である」と。
 集団の中にあって人々を率いていくためには、まず何よりも最初に、自分がリーダーとして何をしたいのか、どういう社会や組織を作りたいかという目標なり志なりを具体的に持っていなければいけない。
「みなが幸せになれる社会に」「地球にやさしい社会」といった美しいスローガンを唱えるのはたやすい。
 しかし、現実には社会の成員全員が幸福になれる社会など、ありえない。かつて社会主義がそうした社会の実現を目指し、「大いなる失敗」に終わったことは改めて指摘するまでもないだろう。



 リーダーは学者や評論家とは違うのだから、みずからのビジョンを現実のものとすべく行動に移さなくてはならない。
 その際に重要なのは、他人に責任を転嫁することなく、みずから決断し、そしてその結果に対して責任を負うということだ。



 この本は、『小沢主義(オザワイズム)-志を持て、日本人-』である。
 初版は集英社インターナショナルから2006年9月に発行、その後2009年12月に集英社文庫より発行されている。
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小沢一郎著『小沢主義』(集英社文庫)

あらためて、2006年単行本の「まえがき」から。

 「日本の若者たちのために、政治論、リーダー論を書いてもらえないか」と、最初にお話をいただいたのは、今から二年前のことだったと記憶している。僕が志のある若い人たちを集め、毎年「小沢一郎政治塾」を開いていることを聞いて、たいへん興味を持ってくれたのだった。
(中略)
 この本は、今の日本に暮らす若者たちを念頭に置いて書いたが、若者だけでなく、大げさかもしれないが、日本人全員にお読みいただきたいと願っている。政治は政治家だけが考えればいいものではない。国民一人一人が主権者として、政治に問題意識を持つことが、本物の改革へとつながっていく。



次に2009年の「文庫版まえがき」から。

 詳しくは本文に譲るが、日本が健全な民主主義国家になるためには、政権交代を可能にする二大政党制が必要である、というのが僕の持論であり、それを実現するのが政治家としての僕の使命だと、若い頃から信じてきた。
(中略)
 大筋において、つまり理念やビジョンにおいて「ぶれる」ことは、政治家としてあってはならない。その点に関して、本書を読み返したときに、自分が「ぶれていない」ことを確認できたことは、喜びであり、誇りであった。
 とはいえ、ここで気を緩めるわけにはいかない。日本の改革はようやく始まったばかりであり、問題は山積している。


 この本にゴーストライターがいるのかどうかは、知らない。しかし、初版単行本、そして次の文庫で「小沢一郎」の名で発行されているのだ、その“文責”は彼本人にあるだろう。

 私は、他の政治家が、小沢一郎の次のような主張をするのを、見たことや聞いたことがない。

“民主主義国家である日本の政治を政治家ではなく、官僚が取り仕切ってきたこと自体が異常な事態なのだ。かりに官僚の質やモラルが向上したとしても、官僚が政治に手を染めること自体、民主主義に反することだ。
 そのことを問題にしない日本のマスコミは「民主主義の常識」が欠落していると言っても、けっして大げさではない。”


 官僚、マスコミの問題を明確に指摘し、政治家に、本来は当り前の資質を求める男が、あらためて新党をつくろうとしている。そして、その男への「人物破壊」をしようとする動きがあることも明白。

 しかし、大手メディアには、次官の定年62歳となり最後の奉公として、消費税増税を野田を操って実現しようとしている、財務次官勝栄二郎の批判は、ほとんど現れない。ミニメディアやネットでは、野田内閣は「直勝内閣」と言われているし、それが常識だろう。
 小沢一郎は、本書や『日本改造計画』などにおいて、選挙で選出された政治家ではなく、官僚が国を動かすことを再三再四批判してきた。だから、小沢一郎を葬ろうとしている陣営の顔ぶれは、想像できるではないか。現政権にマスコミは敵対するような記事は書かない。税金の査察が怖いから財務省を敵に回すようなことは、大手メディアは書かない。そして、マスコミが醸し出す“空気”に便乗しようとする、多くのエセ文化人がいる。

 官僚主導の政治を選ぶか、官僚を国の公僕として仕事をさせる力を持つ政治を選ぶか、それが今、問われているように思う。

p.s.
その後ネットで調べたところ、財務次官の勝栄二郎は本来六月で定年なのだが、野田ドジョウによって特別に“半年”定年を延長され次官として居座っているようだ。これは秋の国会を見据えたものだろうが、特例では最長三年間の延長が可能なようなので、その後も居残る可能性はある。それにしても、このニュースを大新聞で見た記憶はない。“居残り”は“佐平次”だけにしてもらいたいものだ。
Commented by YOO at 2012-07-09 02:14 x
首相官邸前のデモはほんの始まりで、これからどれだけの人々がマスコミなどの呪縛から目覚めて行くかなのでしょうね。
既得権益勢力はまだたかをくくっているような気がしますが・・・。

Commented by 小言幸兵衛 at 2012-07-09 09:02 x
少しづつですが、確実にマスコミの扇動を冷静な目で見て判断する人が増えていると思います。
消費税増税もTPPも、アメリカべったりの官僚が裏で糸を引き、そのシナリオの通りにドジョウ内閣が動いている実態を知る人が増えているのは間違いないでしょう。

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by kogotokoubei | 2012-07-08 20:59 | 責任者出て来い! | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


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