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その昔、落語芸術協会が輝いていた頃-『談志楽屋噺』より

昨日芸術協会のことを書いた。言葉足らずだったが、「芸協再興」とでも言う思いを書いたつもり。
 かつては落語協会を圧倒していた時代だってあるのだ。鯉昇があの『時そば』を演じるのも、「新作の芸協」の伝統を十分に反映しているのだと思っている。精神的には「原点回帰」をし、落語協会と良い意味で対抗する存在であって欲しい、という思いである。

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『談志楽屋噺』(文春文庫)

 本書は初版の単行本が昭和62年に発行され、その後に文春文庫で再刊されている。
 私にとっては噺家としてよりも落語や演芸の名指南役として評価している立川談志が、まだ入門前に客として寄席を楽しんでいた頃の、芸術協会の楽しい顔ぶれについて書いている。

 私が客の頃、芸術協会で私のヒイキは、先代の春風亭柳好一本槍、
 まだ三木助のよさがワカラなかった。また、あまり芸協のほうを聴かなかったこともあったが、三木助よりむしろ先代遊三の品の良さが、好きだった。あと色物では十返舎亀造・菊次だ。
「何しろ、あっしは旅慣れてますからねェ・・・・・・」の亀造さんだ。それに山野一郎の漫談、ときどきゲストのように出ていた昔々亭桃太郎も好きだった。
 金語楼の実弟で、新作落語が抜群に面白いのに、どういう理由(わけ)があったか知らないけど、B級の・・・・・いやC級の新東宝の映画かなんかに出て、泥棒になって逃げたりしたのを見たことがあった。映画に出るのが好きだったのか。
 芸術協会にはいい色物がいた。いま言った十返舎亀造・菊次、牧野周一、林家正楽、踊りの柳亭雛太郎、音曲の文の家かしく、他にも漫才の桜川ぴん助、曲芸の海老一・海老蔵。曲独楽の三増紋也、女道楽の立花家色奴・小紋、支那手品の二代目吉慶堂李彩、等々・・・・・・。いま思うに百花繚乱であった。ちなみに、女道楽とは女どうし、または一人で歌三味線を聞かせる芸種をいう。女好きという意味ではないよ。
 開口一番、「桃太郎さんでございます」。出囃子は桃から生まれた桃太郎の童謡で。
 自作の『お好み床』で、
「『私はワルツでひとつやってもらいたい』という客に、『ワルツですか。ワルツでやりますからな、ワルツでいきますよ。クィック・クイック・スロー。あ、擦ろうだね、こりゃ』」、くだらないんだが、またこれがおかしい。
 弟子の扇枝が、こないだ師匠の桃太郎の『落語学校』という落語台本を持ってきてくれた。読んだらひとつも面白くない。ところが、あの師匠がやると抜群に面白かった。抱腹絶倒は決してオーバーではなかった。勿論、自作自演の新作落語で、創作の才能は兄金語楼と同様であった。
「最近、ほうぼうに、いろんな学校が、たくさんありますな。お花の学校、お料理の学校いろいろありますが、落語の学校というのはできておりません。できたら面白いでしょうな。こうなると噺家が先生になるんですから、
『えー、先生、だいぶ生徒が集まりました』
『そうか、どのくらいかたまった』
『かたまった?五、六人かたまりました』
『そうか、そろそろ溶かすか・・・・・・』
『溶かす?』
『お待たせいたしました。一番のかた』
『あっしですか、一つ短いのをお願いします』
『ハイ、では一分線香即席噺から教えます。君、きょう早稲田と慶応の野球があった』
『ああ、そうけェ』とどうだ。
『ああ、なるほど、終りですか。これは短かった。やりますか・・・・・・やりますョ。おおい君、きょうは法政と明治、法政と明治じゃない。あっそうだ、オイ、今日は早稲田と慶応の早慶戦があった』
『あーそうけェ』
『それじゃ駄目だ』」って、書くとこんなものだが、桃太郎師匠が演(や)るとたまらなくおかしい。私は正月の人形町末広亭で腹ぁよじった・・・・・・中学の時の想い出である。トリは柳好の絶品『棒だら』。終演(はね)てお客を帰すあいだの江戸噺に若き小金治がいたっけ・・・・・・。



 家元が中学時代、ということは昭和二十代の半ばである。

 看板の柳好、品格ある遊三、襲名したばかりの三木助、新作爆笑噺の桃太郎などバラエティ豊かな噺家達と豪華な色物の芸人さん達。立川流創設から四年後に、家元としては異色とも言える本書によって、当時の芸協の寄席の楽しさが伝わってくる。

 今でも、芸協は、色物では落協に十分に伍しているように思うなぁ。問題は落語家だ。

 そうか、今の芸協の噺家さんのレベルアップのためとモラルアップのために、協会は「落語学校」をつくる必要があるかもしれない。しかし、「そうけェ」程度の駄洒落では、とても笑えない^^
Commented by 創塁パパ at 2012-01-29 12:02 x
楽しい本です。評論家談志の真骨頂ですね(笑)

Commented by 小言幸兵衛 at 2012-01-29 16:25 x
おっしゃる通りですね。
たしかに好著なのですが、立川流をつくって間もない頃、なぜこの本を書いたのか、いろいろ考えてしまいます。
亡くなった数多くの無名の噺家や芸人のレクイエム、それを憶えているうちに書き留めておこう、それが本書執筆の動機なのかと思います。
それを考えると、ますます談志という“芸の目利き”の死が惜しまれます。

Commented by ほめ・く at 2012-01-29 17:42 x
私は少し時代が下がりますが、あの頃の芸協は「野晒し」の柳好、「芝浜」の三木助、「らくだ」の可楽に、留さん文治。新作では桃太郎、今輔、それに人気者では痴楽と、それこそ落語家も綺羅星のごとくでした。
後年の裏話を読むと、三木助が落語協会に移籍したのを始め、柳好や可楽も落協に移りたいと語っていたとか。
今に続く芸協の問題点が当時からあったのかも知れませんね。

Commented by 小言幸兵衛 at 2012-01-29 18:08 x
凄い顔ぶれですね。他に四代目円遊なども健在だったのかと思います。
人気者が芸協に対し帰属意識をもてなくなった理由の一つは、やはり会長にあったと思います。
六代目柳橋が会長を務めた期間が、44年だったはず。子供の頃から高座に上がり一時代を築いた人だけに、晩年は“老害”を撒き散らしたのではないでしょうか。そんな気がします。
工夫や努力も大事ですが、、何よりトップが誰か、それが組織を決めるように思います。

Commented by 源丸 at 2012-12-21 16:55 x
あのころの色物はすごかったですよ。亀菊こそ間に合ってませんが・・・。亀菊は情炎峡というフィルムが現存し漫才やってます。ピン助・美代鶴さんの娘さんはまだかっぽれをやり、人気がありますね。あの漫才は中年のころはぼやき漫才で仕方ありませんでした・・・。仲間の悪口・・・漫才風情じゃない俺の芸は。その辺の漫才師とは違うみたいな感じの悪く言えばプライド高すぎる漫才でしたが晩年はやや丸くなり踊りや声色は見事でしたよ。ギャグはつまらなく下手すると千代若さんより笑い取れませんでした。

Commented by 小言幸兵衛 at 2012-12-22 13:41 x
お立寄りいただき、コメントまで頂戴し、誠にありがとうございます。
二代目桜川ぴん助さんは、ご健在なのですよね。ぜひ、本家かっぽれを拝見したく思います。
どこへ行けばいいのか調べてみようと思います。
バラエティに富んだ色物や、華やかなりし頃の噺家さん達の伝統を継承し、芸協には頑張ってもらいたいものです。宮治など期待の若手もいますし、きっと他の一門の助けなどなくても再興できるでしょう。
そして、将来は、「あの芸を生で見たんだ!」と誇れるような高座を数多く残して欲しいと思います。

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by kogotokoubei | 2012-01-28 11:35 | 落語の本 | Trackback | Comments(6)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


by 小言幸兵衛