「面白い」より「うまい」が名人?(5/29朝日「著者に会いたい」京須偕充)
2011年 05月 31日
。(asahi,comの「著者に会いたい」は、どうも一週間遅れのようだ・・・・・・。)
「面白い」より「うまい」が名人
■こんな噺家は、もう出ませんな
何とも変なタイトルだ。明治末の東京の寄席で、四代目橘家圓喬の一席の後、客が発した一言なのだという。前座時代の八代目桂文楽が耳に留め、圓喬の高座とともに忘れがたい記憶として後に語った。
「並外れた存在だったんでしょうね。圓喬は私には幻ですが、名人とはどんなものかを通して落語の魅力を語ってみたいと思いまして」
京須さんは、六代目三遊亭圓生の「圓生百席」や、古今亭志ん朝、柳家小三治のライブ録音などを手がけたプロデューサー。東京・神田の生まれで、小さいころから落語や芝居は普通の娯楽だった。文楽、圓生、古今亭志ん生ら「昭和の名人」たちは「ベース」と言う。いま、「落語ブーム」と言われるが、時代の好みや他ジャンルの影響を勘定に入れても、どうもかつてと落語の聴き方が違っている。「時代遅れかもしれませんが、伝えていきたいことがあります」とも語る。
京須さんによれば、「面白い」より「うまい」をめざして芸を磨く方向に「名人」がある。だから「大阪にはない」と、きっぱり。明治の三遊亭圓朝を「始祖」に、噺家たちのエピソードを重ねて「名人」像を手繰っていく。中でも間近に接した圓生の、芸への執念と自負、63歳で亡くなった志ん朝の、時代をわきまえた名人観など印象深い。圓朝と志ん朝の死の間に101年。この1世紀に登場したような名人は、「もう出ませんな」ということらしい。
もっとも、寄席になじんだ京須さんたちのような聴き手も、もう生まれないだろう。この本はだから、名人たちへの「恩返し」のつもりだそうだ。(講談社・1890円)文・大木朝美 写真・高浪淳
ほう、昭和17年生まれ、古希の人だからこういうことを言うのか、というのが第一印象。圓喬が著者にとって「幻」なら、圓生、志ん朝だって、今日の“落語ブーム”と言われるものを支えている多くの落語愛好家にとって「幻」である。
インタビュアーにもよるかもしれないので、この記事が著者の真意を反映していないのかもしれない。しかし、“きっぱり”明確に言ったと思われる、“「面白い」より「うまい」をめざして芸を磨く方向に「名人」がある。だから「大阪にはない」”は、明らかな間違いだ。
この人の名人の定義が「うまい」にしかないのなら、本来落語のルーツである上方の噺家に脈々と流れる“笑わせよう”という芸人魂は、いったい何なのか。
この本を読むつもりはない。だから、この本についての感想ではなく、あくまで朝日の「読書」欄のこの記事への感想でしかないが、落語には上方もあれば、東京(江戸)もあり、滑稽話もあれば、人情噺もある。著者が、単に「滑稽噺より、人情噺が好き」ということなら、個人の好みの問題で済まされるが、「名人」という定義で上方をはずすのは、許せない。そこまで落語評論家としての“公平”さを捨てて主張したいのなら自費出版でもしてはいかがか、という思いがする。
別に八方美人になろうとしているわけではなく、上方も東京も、滑稽噺も人情噺もある、そういった多様性を受け入れることが、落語の楽しみを増やしてくれると、私は思っている。
いわゆる「團菊爺」になることを割り切って書いたのかもしれないが、上方の“笑い”をベースとする落語を「差別」するかようなことを、なぜこの人が言うのか理解できない。春団治、松鶴、米朝などの“名人”の存在を、落語評論家なら無視できないはずだ。これまで、落語の指南番と思い、少なくはない著作も読んできたからこそ、あえて反論するのだ。
「團菊爺」については過去に書いたので、興味のある方はご覧のほどを。
2009年7月13日のブログ
何度も言うが、朝日名人会と落語研究会の両方をプロデュースしていることこそ、落語を聴く側の「名人」のすることではない。あるいは、主催者は、それをさせてはいけないだろう。
2年前の著作に関し、二番煎じならまだしも三番煎じの本だったことに、私は小言を書いたことがある。
2009年5月14日のブログ
「老害」を撒き散らすのは勘弁して欲しい、というのが、この記事を読んだ正直な感想である。アンツルさんも晩年は相当頑固だったように思うので、ある意味ではしょうがないのかもしれない。しかし、「あぁ、また爺さんが好きなこと言っているな」というだけで他人に被害を与えなければいいが、これから落語を楽しもうという人をミスリードするようなことがあってはいけないだろう。一応、あなたは“権威”のある立場にいるのだから。
落語を楽しむのに「べからず集」は必要ない。それは、原発社会と同じ、非人間的な管理社会を類推させる。
京須さんの著書は私も幾つか読みましたが
今までの著書の内容からすると、本気で其の様な事を思っているのでしょうか?
何か売らんが為に思えて仕舞います。
私は世代的に、志ん生、文楽には間に合いませんでしたが、正蔵、圓生師の高座は10代の頃ですが何回も見ています。
何も判らない頃でしたが、それでも「面白いなぁ~」と何回も思い、そして「名人だ」と思い至った経歴があります。
落語である以上面白さを追求しなくて、何が名人なのでしょう?
上方落語でも生前、露の五郎師が夏になると鈴本に出演して下さいました。
毎年、楽しみに通ったものです。
個人的には、”面白さの先に上手さがある”と思っています。
駄文失礼しました。(^^)
なかなか落語ネタが書けない日々が続いておりました(自業自得ですが)。
七代目圓生襲名のゴタゴタあたりから、この本を企画していたのかなぁ、などと思います。
あくまで新聞記事でのことですが、ここまではっきり書かれていると、上方落語ファンや滑稽噺を愛する人に喧嘩売ってますね。
「好き」ならそう書けばいいわけで、「名人」などと言うから話がおかしくなります。
そろそろ、この人のことを書くこと自体、アホらしくなってきました。
榎本滋民さんなら、まずこんなこと言わない。矢野誠一さんは、米朝の東京での落語会を最初に企画した人です。
人間、年はとりなくない・・・・・・。
