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明暦の大火、そして回向院。

2月20日は、旧暦で1月18日。明暦3(1657)年の1月18日は、あの「明暦の大火」が発生した日である。杉浦日向子さんの師匠であった時代考証家の先駆者、稲垣史生さんの著『考証 江戸を歩く』の第七章「隅田川両岸の事件覚え帳」から引用する。

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   稲垣史生『考証 江戸を歩く』
 

 明暦三年(1657)年正月十八日の昼すぎ、本郷丸山町の本妙寺から出火、十九日の朝と晩に一帯を焼き、さらに火勢を改めて二日間燃え続けた。「明暦の大火」または「振袖火事」といい、家康入国以来、六十七年間に発展した江戸の町は大半が焼けた。その数は、
  大名屋敷五百 旗本屋敷七百七十 寺社三百 蔵九千余 橋六十
  町家四百町 片町八百町 死者十万七千四十六人
 焼けた町名をその順序で書けば、神田辺、浅草、八丁堀、霊岸島、鉄砲洲、佃島、深川など隅田川両岸がまずやられている。山手などは翌日の風向きで新規焼き直しの形であった。だからこの大火は、本所・深川と墨田川両岸がいちばん被害がひどかったのに、鎮火と同時に浅草裏へ吉原が移転の準備を始めた。槌音が空高くひびき、景気のよい職人の声がはじけた。
 ばかに手回しがいいじゃねえか。その通り。人口増加で吉原は江戸の中心になり、風教上害があったことと、何しろ狭くて客がぶつかり合うので、かねて浅草裏への移転は申請してあった。そこへ明暦の大火だったので、移転が促進された形で工事が進められたのである。
 その日、焼け出されたはずの遊女たちが、どこから探し出してきたか、花魁の満艦飾で屋形船に乗り、お囃子入りで浅草山谷堀へ乗り込んだ。あとは駕籠を連ねて新吉原へ向かったが、途中の日本堤には、この合同花魁道中を見ようとして、火事などあったかという顔つきで見物人が集まった。
「凄い!孫末代までの語りぐさじゃ」
 と、やたら喜ぶ奴がいた。前も後ろも焼け跡だというのに、江戸も大きくなったものだ。

 
 江戸の約六割を焼いたといわれる火事の被害の甚大なことに驚くが、一方、そのどさくさに紛れて吉原が引っ越しをすることになり、急遽始まった花魁道中を見守る江戸の人たちには、ある意味で尊敬してしまう。
 この本、この記述の後に落語と関連もある内容があるので、こちらもご紹介したい。
 

 万治二年(1659)年十二月五日、新吉原の名妓高尾が、十九歳の花の盛りに散った。絶世の美女で和歌をよくし、筆跡は一流の書家にも劣らないといわれた。
 仙台藩主伊達綱宗が惚れ込み、高雄の体重と同じ目方の小判を積んで身請けしたという。そして船で隅田川を下る途中、高尾が浮かぬ顔をするのを問い詰めると、
「あちきには島田重三郎という恋人がありんす」
 とぶちまけた。綱宗公、カーッと頭へ来て船から乗り出し、左手に高尾の体を吊り下げ、右手の刀で両断して水中に捨てたという。物理的にはちとおかしいが、たとえ伝説にせよ花魁が、六十二万石の太守を振ったというのは爽快である。


 八代目三笑亭可楽の十八番であった『反魂香』は、この高尾の逸話がベースとなっている。島田重三郎が反魂香を焚いてから現れる高尾とのやりとりが、いいんだよね。

 さて、明暦の大火は、別名“振袖火事”と呼ばれる。由来は、本妙寺で、ある娘の供養している時に和尚が読経しながら娘の振袖を火の中に投げ込んだ瞬間に、突如吹いたつむじ風によって振袖が舞い上がって本堂に飛び込み、それが燃え広がって江戸中が大火となったということからで、この娘にもドラマがあるようだが、その話は割愛。
 ただし、違う説もある。実際の火元は老中・阿部忠秋の屋敷であったが、老中の屋敷が火元となると幕府の威信が失墜してしまうということで、幕府の要請により阿部邸に隣接した本妙寺が火元ということにし、上記のような“振袖”の話を広めたのだとする説。この話は、本妙寺が大火後も取り潰しにあわなかったどころか、大火以前より大きな寺院となり、さらに大正時代にいたるまで阿部家より毎年多額の供養料が納められていたことなどを裏付けとしている。実は、本妙寺も江戸幕府崩壊後はこの説を主張している。しかし、真実は闇の中だ。

 また、大火になった原因は翌日に起こった新たな火元にも理由があるらしく、一つは小石川伝通院表門下の新鷹匠町から出火したというもの。他に、麹町五丁目からも出火したらしい。長期間にわたって雨が降らず乾燥していた上に、強風という天候も災いしたようだ。

 そして、この大火で亡くなった約十万八千人の供養のために建立されたのが、ご存知の回向院。回向院のホームページの「開創」のページには、次のようにある。回向院のホームページ
  

 回向院は、今からおよそ350年前の明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院です。
この年、江戸には「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、当院の現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の歴史の始まりです。
 この起こりこそが「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くもの」として現在までも守られてきた当院の理念です。


 “人・動物に関わらず”、ということで、落語『猫定』に登場する“猫塚”のあったのもここ。(現在ある猫塚は、この落語のものとは違うらしい)

 また、回向院には山東京伝や鼠小僧次郎吉に墓がある。巷に馴染み深く落語にも関わりのある鼠小僧次郎吉の墓に関して、回向院のホームページではこう説明している。

 時代劇で義賊として活躍するねずみ小僧は、黒装束にほっかむり姿で闇夜に参上し、大名屋敷から千両箱を盗み、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去ったといわれ、その信仰は江戸時代より盛んでした。長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が当時より盛んで、現在も特に合格祈願に来る受験生方があとをたちません。


 実は“義賊”だったというのは誤り、というのが通説だが、日本人は、“強きをくじき、弱きを助ける”という美談が好きだからねぇ。受験生が合格祈願に来る、という話を聞くと、その祈りは「どうぞカンニングが上手くいきますように」と祈っているのではないか、と私は勘ぐってしまう。鼠小僧は、盗んだ金のほとんどを博打や遊興費に使っていて、貧しい者に恵んだことはない、というのが、どうやら本当らしい。しかし、あえて“義賊”ということにしておきましょう。落語で鼠小僧次郎吉と言えば、やはり『しじみ売り』を思い出す。古くは志ん生の音源がいいが、今では、その解釈を少し替えた志の輔の十八番としてのほうが有名かもしれない。
 
 そして、回向院と言えば、相撲である。現在につながる相撲興行は回向院から始まったが、ふたたび回向院のホームページから引用。

 日本の国技である相撲は、江戸時代は主として公共社会事業の資金集めのための勧進相撲興行の形態をとっていました。その勧進相撲が回向院境内で初めて行われたのは明和五年(1768)のことで、寛政年間を経て文政年間にいたるまで、勧進相撲興行の中心は回向院とされてきました。やがて天保四年(1833)より当院は春秋二回の興行の定場所となり、明治四十二年の旧両国国技館が完成するまでの七十六年間、「回向院相撲の時代」が続いたのです。力塚の碑は、昭和十一年に相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊の為に建立したものですが、その後も新弟子たちが力を授かるよう祈願する碑として、現在も相撲と当院とのつながりを示す象徴になっています。


写真は回向院のホームページから借りた力塚。
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 根深い問題を抱え再生を目指す相撲界の責任ある人々は、あらためで力塚に頭をたれ、今後のことを真剣に考える必要があるだろう。このままでは日本の伝統、文化、芸能として貴重な相撲そのものの存続の危機である。三流マスコミの論調に惑わされず、きちんと今後に向けてなすべきことをやって欲しい。「過去に八百長はなかった」「いや、八百長はあった」、というなんとも馬鹿馬鹿しい論調に釘をさして、ぜひ場所再開に向けて対策を打って欲しいものだ。
Commented by 創塁パパ at 2011-02-21 07:49 x
力塚行ったことがあります。
本当にこの機会を最後のチャンスと考えて再興してもらいたいものです。
可楽聴きました。いいですね。
そして三代目の「高尾」もいいですよね。愚の骨頂「マスコミ」に喝!!!

Commented by 小言幸兵衛 at 2011-02-21 10:07 x
お立寄りありがとうございます。
私は回向院に行ったことはないので、そのうち山東京伝の墓を見に行こうかと思っています。もちろん力塚も見たいですよ^^
仙台高尾、なかなか凄い太夫ですよね。島田重三郎も男冥利に尽きる、ってえやつですね。
角界は現在バッシングの波に翻弄されているようなので、ささやかながらブログで頑張りましょうね!

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by kogotokoubei | 2011-02-20 16:01 | 今日は何の日 | Trackback | Comments(2)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


by 小言幸兵衛