『杉浦日向子の江戸塾 笑いと遊びの巻』(PHP文庫)
2011年 01月 22日

『杉浦日向子の江戸塾 笑いと遊びの巻』
江戸や相撲をテーマに、以前にも杉浦さんの著作を紹介したことがあるが、2008年にPHPから単行本で発行されていた「江戸塾 特別編」が文庫でも発行されたので、ご紹介したい。さまざまな分野の達人九人の方との対談集だが、これが頗る楽しい。
“笑いと遊び”と副題にあるが、関連して、粋と野暮、男と女、江戸っ子と仕事、酒の飲み方などなどについてテーマは広がっている。
第一章は、大阪芸術大学教授でフランス文学専攻の奥本大三郎さんとの対談。江戸時代のお酒のことでこんな会話が交わされる。
杉浦 江戸は不況知らずです。だから地方から人々が江戸に出てくるん
ですね。そして様々な商売が盛んになる中でも、お酒は高かった
ですね。
奥本 へえ、いくらなのですか?
杉浦 屋台の上酒で一合四十八文。蕎麦が十六文ですから、その三倍
です。
奥本 鰻が蕎麦の十倍以上でしたっけ。それにしても、酒一合が蕎麦の三倍
は高い。そう気軽には飲まないなあ(笑)。
杉浦 八文、十六文という安酒もありましたが、それは水っぽい。
奥本 水割りなのですね(笑)。
杉浦 はい、当時、下町は水の質が悪く、水売りから水を買って飲んでい
ました。いまと同じ感覚ですね。その水売りの水が安酒と同じく
一杯八文します。
奥本 割るのは誰だったのですか?
杉浦 酒屋さんです。当時は、蔵元から仕入れたお酒をブレンドして販売
しました。もちろん、生一本も売りますが、水で割ったり産地の
違うものを合わせて、その店独自の商品としました。
奥本 当時の酒屋はブレンダーだったわけだ。それを買って置いておくと、
家でおかみさんがこっそりまた水で割って、限りなく水に近い
酒になる(笑)。
杉浦 調合の割合は見せの腕の見せどころ。合わせる水も江戸市中の悪い
水ですませる店もあり、きれいな水を遠くまでわざわざ汲みに
行く店もあったとか。
奥本 そういう努力をして他の店との差別化をしたわけですね。それでも、
安い酒はそうとう危なそうですね。よく落語で「こりゃいい酒だ」
なんて酒を褒めますが、あれは日頃、いい酒が高くて飲めず、安
酒ばかりだったからなのでしょうね。
“灘の生一本”、など様々な落語で登場する江戸の酒の時代背景が、これで分かろうというものだ。
田辺聖子さんとの対談では、江戸時代の物価と併せて江戸っ子と仕事との関係について興味深く語られている。イントロは、田辺さんが「深川江戸資料館」を訪れると飽きることがない、というネタから始まる。
田辺 もらったパンフレットを見たら、大工の手間賃が一日五百文とか
書いてある。家賃が月三百文。一日の稼ぎの中で、家賃が一月分
払えるという、実に泰平の世ですね。
杉浦 理想的ですね。
田辺 アサリの剥き身が、すり鉢いっぱい五文。それでおいしい朝ご飯を
いただいて、お酒が十二文くらいですか。
杉浦 月のうち、七日とか十日働けば、充分一家四、五人養えるんです。
田辺 いいわねえ(笑)。最高の世の中じゃないかしら。で、部屋が狭いん
ですよね、一軒が。
(中 略)
杉浦 江戸の人々というのは、結局、全員がフリーアルバイターという感じ
ですね。ちゃんとお店を構えている商人は、みんな大阪とかあちら
から来た人ですから。
田辺 でも、大商人の生涯が幸福だったか、熊公、八公が幸福だったかと
いうと、これは、本当にわからない。
江戸時代の“幸福論”まで話が広がるが、この二人の対談である、江戸時代の「男と女」の世界にも触れないはずがない。
田辺 江戸の川柳で言えば、江戸の人は、夜が明けてから寝るまで、
色事のことばかり考えてるみたいね。
杉浦 ほとんど全部、男女の句。
田辺 しかも、いま読んでもニタッと笑えるような。思いあたることはないん
だけど、わからないわけではない。
杉浦 江戸っ子というのは、色気と食い気。そればっかりで、日々暮らして
いたように感じますね。川柳を見ていると、特にそう。川柳から、
男女のこととか、俗にバレ句という色っぽい句を抜いたら、ほとんど
なくなってしまいます。
田辺 有名な「泣く泣くも良いほうを取る形見分け」「国の母生まれた文を
抱き歩き」なんて、こういうノーマルで健康的な句は、正面だけを、
ショーウィンドウに飾っておく・・・・・・。
杉浦 本当に表だけ飾っておいて・・・・・・。
田辺 入ったお客さんには、「どうぞどうぞ、裏に面白いもがあり
ます」(笑)。江戸の文芸や文化を研究していると、奥が
深いんですよね。
さすが“江戸の達人”お二人の対談で、楽しくタメになる。
また、泉麻人さんとの対談では、「粋」とは何かが解き明かされている。
杉浦 粋というのは、江戸を研究するにあたって、またいで通れない、
要としておさえておくべくポイントです。しかし、粋について
語ってしまうと粋でなくなってしまう。粋について語るほど
野暮なことはありません。ですから、こうして話し始めると
私は野暮ですと言っているようで気が引けるところがあります。
泉 粋という基準が、いまなくなってきていると思います。昔は
粋=オシャレだったけれども、特にこの十年ぐらいは、野暮
でも貪欲に情報を吸収したり、マニュアルをつくりあげた
ほうがオシャレということになってしまいました。
(中 略)
杉浦 本来の粋というのは、自分の中で熟成され、個人個人で基準
が違うものなので、粋のマニュアルはないんです。しかも、
野暮は目に見えますが、粋は目に見えない。粋というのは
雰囲気の粋でもあるわけで、その人が発するオーラのような
ものなんです。
この後に、「粋」「野暮」「半可通」「気障」などについて、興味深い対談が続く。
他にも高橋克彦さん田中優子さんや石川英輔さんといった物書きの方や、大阪の老舗鰻店「阿み彦」のご主人である奥田幸彦さんといった“塾生”たちと杉浦“塾長”との楽しい対談で構成されている。文庫になるのを待って良かった、としみじみ思える本である。
落語のバックボーンでもある江戸を知ることのできる、こんな洒落た「塾」があるのなら、通ってみるのも“オツ”であろう。
