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噺の話

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今日は旧暦7月26日、太田道灌の命日

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 写真は、落語『道灌』で有名な“山吹の里”の逸話の舞台と言われている、埼玉県越生(おごせ)町の「山吹の里歴史公園」。当地の陽山亭さんのホームページからお借りしたものだが、なるほど、藁葺きのあばら家から賎の女(しずのめ)が出てきそうだ。
越生町の陽山亭さんのホームページ
 さて、今日九月四日は旧暦では七月二十六日。文明十八年(新暦1486年)の七月二十六日は、太田道灌が家老として仕える扇谷(おうぎがやつ)上杉家の当主、上杉定正によって暗殺された日である。偶然だが、先日書いた幡隋院長兵衛と似て、風呂場を出たところで殺されている。どうも、事件は現場で、暗殺は風呂場で起こるらしい。

 まず、手抜きとの批判を承知で、Wikipediaから、太田道灌のプロフィールを引用。

太田道灌(おおた どうかん)は室町時代の武将。武蔵国守護代。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系である摂津源氏の流れを汲み、源頼政の末子で鎌倉幕府門葉となった源広綱の子孫にあたる太田氏。諱は資長。扇谷上杉家家宰太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城した武将として有名である。


 室町時代後期の関東地方は、上杉家が“関東管領”として統治を任せられていたわけだが、この上杉家には数多くの派閥があり、派閥抗争が激しかった。その中での二大派閥が、扇谷上杉家と、山内(やまのうち)上杉家である。扇谷上杉家は、足利尊氏・直義兄弟の母方の叔父である上杉重顕を祖とし、山内上杉家は足利尊氏・直義兄弟の母方の叔父上杉憲房の子で、上野・越後・伊豆の守護を兼ねた上杉憲顕に始まる家系。この関係からして、名前も似ていてややこしい。他にも衰退したが、いくつも○○上杉家というのがあって家系図を追いかけるだけでも結構疲れる(笑)。それに加えて関東公方という足利○氏がからんでくる。この公方も堀越公方やら古河公方と枝分かれしていて争いが生じる。そして管領と公方の戦いも頻発する、という具合。

 司馬遼太郎の数少ない室町時代を舞台とした小説に、後に戦国大名の元祖となる北条早雲を描いた『箱根の坂』があり、この本には早雲と同時代を生きた太田道灌が登場する。
司馬遼太郎 『箱根の坂』
 早雲こと伊勢新九郎は、故あって駿河の守護今川家に仕え、主君であった今川義忠の死によって生じる家督相続の混乱期に、太田道灌との接点があった。『箱根の坂』から引用。
 

 駿府の東方に、
「狐ケ崎(きつねがさき)」
 という地があって、そこに駿河人にとって外国の部隊ともいうべき二種類の他国の兵が駐屯していた。
 ひとつは、伊豆の堀越からやってきた堀越公方の軍隊であり、進駐目的は、
------駿河が相続問題のあらそいでみだれてほしくない。
 というものであった。
 堀越公方は、関東を怖れて伊豆堀越にとどまって御所をひらいたかぼそい勢力だけに、駿河今川氏がたよりなのである。今川氏が紛争で弱体化すれば、堀越は関東に呑みこまれてしまいかねない。
 早雲は、国人(こくじん)たちから、
 ------すべて早雲どのにおまかせする。
 という委託をうけたあと、この堀越軍の陣屋へゆき。公方の代官に会い、
 ------私にまかせてもらえば、駿河一国に波風はそよとも吹かせない。
 というと、
「ありがたいことだ」
 代官は、早雲の出現とその申し出を、渡りに舟とばかりに諒承してしまった。
 (中略)
 問題は、関東管領上杉定正がよこした関東勢である。
「相続者は、新五郎範満どのをこそ」
 というのが、立場だった。というより、新五郎の母の実家が上杉家であるため、新五郎としては、この関東勢三百の進駐こそ、なによりもの政治的な後楯なのである。
(このほうは、難物だ)
 早雲はおもい、駿河に入って早々、陣屋を訪ね、手紙を一通置いて、あいさつのかわりとした。上杉定正の代官には、かれが狩りをしている留守中だったために、会いぞこねた。
 代官は、上杉定正家(扇谷上杉家)の家老太田道灌なのである。その名は、京にまできこえていた。

 早雲にとって、かの道灌がこの駿河に駐屯していて、いずれは対面するということが、このうえもなくたのしみであった。


 早雲は今川義忠の嫡子竜王丸を後見していた。竜王丸派となる背景には、竜王丸の母との実に艶っぽい縁がある。その内容はぜひ『箱根の坂』でご確認のほどを。
 紹介した司馬遼太郎の文中に「狩りをしている留守中」とあり、『道灌』を連想できてうれしい。

 さて、扇谷上杉家の家老として権勢を誇った太田道灌の最後について、この本では、早雲にもたらされた諜者からの情報という形式をとって、次のように書かれている。
 

 その風呂場のそとにころがった死者は道灌ではあるまい、諜者がべつの事件を誤まり聞いてきたのに相違ない、と早雲は思おうとした。それほど、衝撃は大きかった。
 日が経つにつれて、様相がはっきりしてきた。
 上意討だったという。
「道灌どのがあるじ修理太夫(上杉定正)どのが、人をやって殺させたというのか」
 早雲は、ぼう然とする思いだった。
「関東における両管領家」
 といわれたのは、すでにふれたように、本家の山内上杉家と分家である扇谷上杉家である。
 上杉定正は、扇谷上杉家の当主である。分家ということもあり、また定正が傍流から出て家督を継いだということもあって、本家の山内上杉氏よりも勢力が弱かった。
 上杉定正に勢力を保たせていたのは、家老の太田道灌の働きのみであるということは、関東で知らぬものはない。
 しかも道灌が上杉定正に対してすこしも驕らず、つねに誠実をつくし、身を屈して仕えてきたことも、万人が知っている。
 ただ道灌の声望が大きすぎ、世間の目からは定正の影が薄かった。定正がまったく暗愚ではなかったことも、両者の関係の上でよくなかった。定正は並以上の教養をもっていたために、道灌が歌才によって都にもきこえた名声をもっていることについての不快な思いがはなはだしかった。
 さらに定正を特徴づけているのは、人間がわかりにくいことであったろう。かれは常日頃、口さきの上手な者を近づけてその言いなりになっているといううわさがあった。かねて早雲もこのことをきき、
 ------道灌どのが危ういのではないか。
 という不安から、関東の情報をいっそう綿密にとるようになった。まさかとおもったが、その不安が、こういうかたちで的中してしまった。


 道灌の暗殺には、他にも山内上杉家が仕掛けた、とか北条早雲その人が仕組んだなど、諸説あるが、当主上杉定正が道灌による「下克上」を恐れたのだとと思うし、その背景には深い嫉妬の念があったのだろう。

 最後に、道灌のエピソードとして、落語の素材になった“山吹の逸話”は今さら説明が必要ないだろうから、“猿の逸話”を『箱根の坂』から紹介したい。上洛中の時の話である。

 そのころ、将軍義政は性悪の猿をいっぴき飼っていて、地方の大小名が拝謁にくると、これを放ってとびかからせ、殿中装束をつけた者が、手足を舞わせてあわてふためくのを見るのをたのしみにしていた。
 道灌は、ひとの座興のために自分が滑稽を演じさせられることをこのまなかった。
 かれはひそかに猿使いに賄賂(まいない)をおくってその猿を借り、宿所の庭につなぎ、出仕の装束をつけて猿に見せると、はたして猿はとびかかってきた。道灌はそれをはげしくたたいて恐怖をおぼえさせたあと、猿使いにかえした。
 しかるのちに登営した。猿は道灌の姿を見て大いに畏怖し、地につくばったまま動かなかったという。義政はこれを見て、猿も道灌の威に服したのだ、と感じ入ったという。


 器量の大きさと知恵者である一端を物語る逸話だ。なるほど、あまりに完璧な部下は、上司から嫉妬され、挙句の果てに排除されるということだったのだろうか。もちろん、、“下克上”の世の常で、道灌が当主の定正を倒してしまえば生き延びたのだろうが、歌人であり芸道の人には、そのような思いは発想の外だったのだろう。

 道灌は永享四年(新暦1432年)生まれと言われ、享年五十七歳の生涯。扇谷上杉家家老としての活躍、知恵をふんだんに使った城づくり、足軽を使った戦法の創始者など、歴史に数々の偉業を残したが、我々落語愛好家にとっては、柳家伝統の前座噺の元となった“山吹の里”の逸話が、何と言っても最大の歴史的遺産である。
Commented by 創塁パパ at 2010-09-05 08:42 x
おはようございます。「道灌」といえば「柳家」。でも「道灌」そのものの人物としても、なかなかの人物ですよね。またまた、学ばせて頂きました。
ではまた。

Commented by 小言幸兵衛 at 2010-09-05 18:43 x
お立寄りありがとうございます。
私が太田道灌の名を強く意識したのが司馬遼太郎の『箱根の坂』だったので、つい書いた次第です。
人格者で仕事も出来て歌道にも通じ、最後に当主に暗殺された道灌。
私のような凡人には心配がありませんが、出来過ぎると叩かれる、ということですかね・・・・・・。
なかなか難しいところです。

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by kogotokoubei | 2010-09-04 07:43 | 今日は何の日 | Comments(2)

落語のことを中心に、ときたま小言や独り言。


by 小言幸兵衛