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「相撲」は、江戸時代に始まった“興行”であり“芸能”。

 正直なところ、それほど相撲が好きというわけでもなく、今回の問題ならびにマスコミの行き過ぎた騒ぎ方には嫌な思いがしていたが、ブログに何か書くつもりはなかった。
 しかし、昨日付けの朝日新聞でNHKの大相撲の放送に関するニュースを目にしたことと、同じ紙面の特集で小沢昭一さんのコメントを読んで、書くことにした。

 NHKは妙な対応をするらしい。受信料支払者の理解が得られないので生中継はしないが、相撲ファンのために幕内の取組を収録してダイジェスト版を放送する、とのこと。なんとも中途半端な・・・・・・。

 法律で定めたわけでもないのに「国技館」という建物の名称が一人歩きして「国技だ!」などと祭りたてられてしまったあたりから、この芸能は本来の単なる娯楽のための興行と相反する捉え方をされてきたと思う。
 早い話が、一般庶民の平均からは並外れて大きい体をしていたり、凄い腕力や突進力のある者同士が、闘犬や闘牛のように見物人の注目の中で闘う興行でしかない。「NHKが放送しているから」、とか「国技だから」といった余計な荷物を背負ったために「清潔さ」やら「スポーツマンシップ」などを求める間違いが起こり、今回のようにジャーナリズムのかけらもなくなってきたマスコミが一斉に騒ぎ出す始末。

 「江戸関連」として本件を取り上げたのは、相撲という興行が江戸時代に始まった芸能だからであり、そのことは7月7日付け朝日新聞の特集の中で、小沢昭一さんの「正論」と言うべきコメントでも説明されている。
特集ページのタイトルは「大相撲は何に負けたのか」、となっていて大学教授などのコメントなどと併せて“我らが”(!?)小沢さんのまっとうなお話が次のように載っていた。少し長くなるが全文の八割ほどを引用する。
 神事から始まった相撲は江戸の終わり、両国の回向院で常打ちが行われるようになる。両国というのは、見世物小屋や大道芸が盛んなところです。このころ現在の興行に近い形ができあがりました。
 明治になりますと、断髪例でみんな髷を落としました。だけど相撲の世界では、ちょんまげに裸で取っ組み合うなんて文明開化の世に通用しない、てなことは考えない。通用しないことをやってやろうじゃないか、と言ったかどうか分かりませんけど、とにかくそれが許された。そういう伝統芸能の世界。やぐらに登って太鼓をたたいてお客を集めるというのも芝居小屋の流儀でしょう。成り立ち、仕組みが非常に芸能的。どうみても大相撲は芸能、見せ物でスタートしているんです。
 芸能の魅力というのは、一般の常識社会と離れたところの、遊びとしての魅力じゃないでしょうか。そんな中世的な価値観をまとった由緒正しい芸能。僕は、そんな魅力の方が自然に受け入れられるんです。
 美空ひばりという大歌手がおりました。黒い関係で世間から糾弾されて、テレビ局から出演を拒否された。ただ、彼女には、世間に有無を言わせない圧倒的な芸があった。亡くなって20年になります。そんな価値観が許された最後の時代、そして彼女は最後の由緒正しい芸能人だったんでしょう。
 昨今のいろんな問題について、大相撲という興行の本質を知らない方が、スポーツとか国技とかいう観点からいろいろとおっしゃる。今や僕の思う由緒の正しさを認めようという価値観は、ずいぶんと薄くなった。清く正しく、すべからくクリーンで、大相撲は公明なスポーツとして社会の範たれと、みなさん言う。
 しかし、翻って考えると、昔から大相撲も歌舞伎も日本の伝統文化はすべて閉じられた社会で磨き上げられ、鍛えられてきたものじゃないですか。閉鎖社会なればこそ、独自に磨き上げられた文化であるのに、今や開かれた社会が素晴らしいんだ、もっと開け、と求められる。大相撲も問題が起こるたんびに少しずつ扉が開いて、一般社会に近づいている。文化としての独自性を考えると、それは良い方向なのか、疑問です。


 まったく同感! 
 次に、江戸時代に相撲がどんな興行であり、そして力士がどのように見られていたか、杉浦日向子さんが監修した『お江戸でござる』(新潮文庫)から紹介。
杉浦日向子監修 『お江戸でござる』
 力士、与力、火消しの頭が「江戸の三男」といわれ、女性にたいへんもてます。でも残念なことに、女性は相撲見物ができません。女性が見ることができるようになったのは、明治以降になってからです。今でも土俵に上がれないのは、その名残でしょう。
「大関」に昇進すると、部屋から引き抜かれ、大名のお抱えになる力士もいて、侍の身分になり禄(給料)をもらいます。二本差しを許され、家来も与えられます。お抱え力士になると、大名の面子がかかってくるので、土俵上は、真剣勝負で燃え上がることになります。
「相撲見物に行って痣のひとつもこさえてこないような奴は男じゃない」と血気盛んな江戸っ子はいいます。喧嘩になって死亡することもあって、何度か禁令も出ました。
 土俵の柱には、数本の刀がくくりつけてあります。喧嘩が起きた時は、親方たちが、これを引き抜いて仲裁しに行くのです。
 刀を差している行司もいます。これは、肝心な取り組みの時に出てくる「立行司」で、刀を差しているのは、大名の名誉に関わるお抱え力士同士の対戦時、判定を間違えたら切腹してお詫びするためです。行司も命がけなのです。
 相撲は、屋外での晴天興行です。「よしず掛け」で、リオのカーニバルのスタンド席のようになっていて、興行が終わると、取り壊します。
 雨が降ると取り組みが行われないので、雨が多い季節だと、何カ月もかかることがあります。
「一年を二十日で暮らす良い男」という言葉がありますが、本当に二十日間の興行で終わります。「十両」と呼ばれるお相撲さんは、一年で十両もらいます。年俸制なのです。
 小柄で技のある力士もいますが、大きな力士もいます。どこまで信憑性のあるデータかわかりませんが、身長二メートル三十五センチの力士もいたそうです。黒船がやって来た時、港に力士をズラリと並べて、米俵を運ばせました。「こんなに強い大きな日本人もいるんだぞ」と、体格の大きい外国人に示したのです。

 この本はNHKが放送していた「コメディーお江戸でござる」の中で杉浦日向子さんが担当していたコーナー「おもしろ江戸ばなし」をベースにしている。あの番組はコントも含めて江戸のことを楽しみながら知ることができる好企画だった。同じ杉浦日向子さんの『一日江戸人』(新潮文庫)からも引用したい。
杉浦日向子 『一日江戸人』
 少し前、元大関・小錦が「スモーはケンカだ」という名言を吐いたのがモンダイになって「そういう認識でスモーをとるとはケシカラン」とか「しょせんガイジンには神聖な国技がわからないのだ」とかやっつけられていましたが、江戸では、ケンカどころか、スモーあるところに血の雨が降るような風潮があり、そして庶民もまた、それをあおっていました。しかし、こんな乱痴気騒ぎは、いくらなんでもお上がだまっちゃいません。
 ですから、相撲にはたびたび禁令が出ています。そのうち、風紀もおさまり、相撲協会のような「相撲会所」という営業体制も整い、現在の形に近いものになりました。
 整ったとはいえ、幕末に近い天保時代でさえ「今じゃ見物も、ただ喧嘩の下稽古でもする気で見る様子だね」(『愚者論記』より)というぐらいで、ケンカがしたくってスモーに出かける野郎もいました。
 どうするかというと、ケンカ相手にちょうどよさそうな奴の隣にぐいっと押しわって座る。はじめは黙って酒なんか飲みながら見ている。で、相手が声援するやいなや、その敵方の力士の名を、倍くらいの大声で応援する。これでもう、ケンカの火ぶたは切って落とされるんです。
「スモー見物に行って、五体満足で帰るくらいだらしのねえ奴ァねえやッ」なんてえわけのわからないタンカを切って、仲間に青あざや引っかき傷を自慢したんだそうです。


 今回の騒動、杉浦さんだったらどうコメントしただろうか。もちろん、杉浦さんも小沢さんの言う「由緒正しい」芸能であり、あくまで興行であることことを前提に、的確な指摘をしてくれただろうと思う。

 力士だろうと何だろうと法を犯すことは犯罪として罰せられる。しかし、庶民の遊びの延長線上にある賭け事までを弾劾する勢いで力士たちの行為を糾弾するマスコミには閉口する。相撲の生い立ちを振り返り、あくまで芸能であり興行なのだ、という前提から報道をして欲しいと思う。それともマスコミで仕事する方々は、一切賭け麻雀も、ワールドカップのトトカルチョもしていないと主張するのだろうか・・・・・・。

 今は後援会と形を変えたが、かつては個人のタニマチが大勢いて、力士を金銭的にも支援していたしいろんな相談に乗ってあげたのだろう。取組みに勝って花道を引きあげる力士の汗ばむ背中に“聖徳太子”を祝儀として貼ってあげるお客さんの姿も、最近は減った。
NHKが、もしタニマチとしての気概を持っているなら、堂々と生中継するか、あるいは毅然とした親の気持に立って興行そのものを中止するよう協会に進言するかの二者択一ではなかろうか。

 高等教育を受ける前の子ども時代に体の大きさを見込まれスカウトされ、ただ食べて稽古して寝るだけの毎日を過ごし、三十台にして“年寄り”などと呼ばれ、決して健康的な生活を重ねてはきていないので寿命も長いとは言えない力士という名の芸能人。タニマチという言葉の語源は、大阪谷町のお医者さんが大の相撲好きで、力士の治療代を取らなかったという説があるらしい。昔の落語家ならこういう人を「旦那」とか「お旦」などと呼んでいただろう。
 相撲の訓練は重ねてきても“心の訓練”が不足したまま育った力士や年寄。金と時間をもてあまし度を越した行為をすることなく第二の人生をまっとうに進むためには、指南役として、あらためて本来のタニマチ役や大人の旦那が必要なのかもしれない。そしてファッショ的な報道しかできないマスコミや一般庶民は、小沢さんの指摘するように「由緒正しい芸能」として相撲を見守る姿勢が必要だろう。

 芸能の分野は本来“閉鎖”された世界で、一般庶民が立ち入ってはいけない部分があっていいのだ。「開かれた社会」という言葉は耳ざわりが良さそうだが、一歩間違えば「暴露社会」となり、他人の家に土足で上がりこむことを是認する社会になるのではなかろうか。もちろん、昔の寄席の楽屋のようにヒロポンを堂々と打つような時代ではないから、相撲部屋も今風になる必要はあるだろうが、芸能であり興行であり人気商売である以上、一般庶民と同じ視線でその行動を規定するのには無理がある。

 今回の騒動に関するマスコミ報道の中で落語愛好家にとってあえて利点をあげれば、『阿武松』の読み方が世間に広まったことだけだ。あの噺における阿武松にとっての錣山のような親方が、今日の相撲という芸能の世界にも必要なのは言うまでもない。加えて芸の世界だからこそ、抱えている芸者の躾から始まり親代わりとして愛情ある鞭と飴を操ることのできる置屋の女将さんのような、腹の据わった相撲部屋の女将さんも求められるだろう。もし、そういった芸人としての力士を育てる環境が今日の日本ではつくれないとすれば、相撲は博物館に行くかモンゴルにでも場所を移してもらおう。ウランバートルで堂々と“ケンカ”の興行をしてもらえばいい。瀧川鯉昇演じる『千早ふる』の龍田川なら、きっと弁当のおかずに“豆腐”の出前をしてくれるだろう。(鯉昇のこの噺を知らない人には失礼!)
Commented by 佐平次 at 2010-07-08 11:45 x
「阿武松」とか「花筏」を思い出しながら報道を垣間見ています。
NHKをはじめ偽善の匂いが芬々としますね。

Commented by 小言幸兵衛 at 2010-07-08 12:03 x
お立ち寄りありがとうございます。
ついつい書いてしまいましたが、NHKも民法もスポーツ紙も、偽善の臭いがプンプンですね。
相撲は落語だけでいい、と思ってしまいます(笑)。

Commented by 創塁パパ at 2010-07-08 12:41 x
おつかれさまです。感動しました。
私の気持ち、すべて代弁していただいたような胸のすくコメントです。
本当にに今のマスコミは勉強不足。幸兵衛さんくらいの調べをして
記事を書いて頂きたいです。この世に「閉じられた部分」があるからこそ夢とかを感じさせてくれるのに、すべて「品行方正」的な態度大嫌いです。「佐野山」「阿武松」「花筏」でも聴いて、少し静かにひたりましょう!!!

Commented by 小言幸兵衛 at 2010-07-08 13:02 x
お立ち寄りありがとうございます。
あまりに過剰なお褒めをいただき、冷や汗が出てきました。
この暑さなので、それも良しか(笑)。
NHKのふがいなさに呆れ、小沢さんや杉浦さんのような視線や視点が、本来はジャーナリスズムの姿だと思い、ついつい書いてしまいました。
落語に出てくる相撲のほうが、どれだけ楽しいことか!

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by kogotokoubei | 2010-07-08 08:17 | 大相撲のことなど | Trackback | Comments(4)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


by 小言幸兵衛