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三十二年前の今日、「落語三遊協会」の記者会見。

円生襲名問題をつい追いかけてきたので、「今日は何の日」として書くことにする。

昭和53(1978)年の今日5月24日は、あの落語協会から円生一門が脱退する騒動の中で、赤坂プリンスホテルで新団体「落語三遊協会」設立の記者会見が行われた日である。この日、世の落語愛好家が、この事件をマスコミを通じて知ることになったわけだ。

当時落語協会の副会長金原亭馬生の弟子で桂太を名乗っていた現在の金原亭伯楽師匠が書いた『小説 落語協団騒動記』(本阿弥書店)から、当日の模様を抜粋する。しかし、これは“小説”として、協会を協団に替えるのみならず、噺家さんの名前も仮名になっている。とは言っても、すぐに実名の察しがつく工夫がされている。
金原亭伯楽 『小説 落語協団騒動記』
 

 五月二十四日、午前十一時、晴れ。
 落語界の騒動などどこ吹く風と、溌剌と翻る若葉に、燦々と日光の降り注ぐ中、新落語山遊協団の記者会見が、ポラリスホテル「真珠の間」で行われていた。
    出席者
 落語山遊協団会長 山遊亭 金生
  同     副会長 竹 家 金蔵
  同     幹 部 東西亭 朝光
  同     幹 部 山遊亭 金楽
  同     幹 部 星の家 金鏡
  同     幹 部 山遊亭 金窓
 その他、金生の弟子一同、金楽の弟子たち。朝光の弟子と、金鏡の弟子は、出席せず。
 報道関係の記者、六十人を前に、会長、金生の挨拶があり、続いて金楽の司会で、記者との、やり取りが始まった。
 この有様を、師宅に於いて、桂馬は、師匠羊生と共に、テレビで観ていた。画面では、いま、竹家金蔵が喋っている。
 「あたしゃあ、この歳になるまで、記者会見が出来るなんて、夢にも思わなかったね」と、ニコニコして喋っている。
 この有様を見て、桂馬は羊生に言った。
 「師匠、金蔵師匠はなんだか嬉しそうに喋ってますが、大丈夫でしょうね」
 「ああ、ちゃんと手は打ってある。新宿の席亭が協団に戻るよう、説得してくれることになっている」
 この間、テレビの画面では、記者とのやり取りが続いていたが、朝光は自分に訊かれる質問にも、金楽が答えるように仕向けて、苦渋の表情を持ち続けていた。


金生が円生、羊生は馬生、そして朝光が志ん朝だということは、もうお分かりでしょう。
 
円生一門の協会脱退騒動は七代目襲名に名乗り出た円丈も『御乱心-落語協会分裂と、円生とその弟子たち』(主婦の友社発行)という暴露本を書いているが、当時渦中にあった志ん朝さんの心の動きや、兄馬生の行動、そして馬生師匠の指示の元で東奔西走する著者の伯楽(桂太)という古今亭の動きは、間違いなく本書のほうが詳しいし、読み応えがある。
三遊亭円丈 『御乱心-落語協会分裂と、円生とその弟子たち』

実は、前々日の5月22日に、当初円生の「三遊協会」も寄席に出演させると言っていたいくつかの定席の席亭が、末広亭の席亭北村銀太郎の意向に従って口約束を反故にし、新組織は寄席への出演が閉ざされたのだった。そして、そのことを踏まえた円生と志ん朝との会話が次のように“小説”では描かれている。
 

 「師匠、師匠は今落語界のトップです。師匠が必要です。師匠の潰された面子も、今、協団に戻ったら、潰されたままで、悔しいでしょう。ですが、落語と面子と、どちらが大事でしょうか」
 「う~ん」
 金生は、正座に腕組みをして、背筋を伸ばして黙ってしまった。
 正座とはいえ、まさに座禅をしている雰囲気の金生であった。その間、二時間。そして口を開いた。
 「朝光さん、あなたの言う通り、落語が一番です。落語と面子とどちらが大事かと聞かれれば、それは落語です。ですが、あたしは、もう歳です。今から協団に戻って、あたし達の考える協団に作り変えて、面子を回復させるだけの時間がありません。貴方は、お若い、貴方ならそれが出来ます。朝光さん、辛いでしょう、時間も掛かるでしょう、ですが、落語のために、貴方は協団に、お戻りなさい。そしてそれを成し遂げて下さい」
 「しかし、私だけ戻るのは」
 「いや、それを成し遂げられるのは、貴方しかいません。いずれ貴方は落語界の頂点に立つ人です。あたしには、あまり時間がありません。残りの時間を、自分の落語を完成させる時間として使いたいのです。あたしがここで、意地を張る我儘を許して下さい」
 朝光はもう、何も言うことが出来なかった。


志ん朝が弟のように可愛っていた伯楽が、その様子を志ん朝から聞いて書いたのだろうから、事実に近い会話だったと推測する。

まさに、「その時 歴史は動いた」の“その時”だったに違いない。
そして、翌5月23日には落語協会会長の五代目柳家小さん(小説では、柏家貴さん)が、円生に和解の道を探るための会談を申し入れたが、円生は断り24日を迎えた。

志ん朝は、兄馬生の説得によって協会に戻る腹を決めていたが、成り行きから記者会見に臨席。だから、「苦渋の表情」だったわけだ。
社会人となって日も浅かった当時の私は、夜のニュースで会見の様子を見た記憶がある。なるほど、あの時、妙に浮かれていた七代目橘家円蔵(今の円蔵の師匠)と、顔色の悪い志ん朝さんが対照的だったことを思い出す。円楽や円窓も決して晴れやかな表情ではなかったはず。

この騒動には談志家元がマッチポンプ的にからんでいるが、それは皆さんご存知でしょう。
もし知りたい方は、どうぞこの本をお読みください。と言っても新刊の本屋さんにはなかなか置いていないんですが。

三十二年前の今日、今につながる騒動がマスコミを通じて公になったわけだ。翌昭和54(1979)年9月3日、この誕生日と同じ日に、六代目は習志野で小噺『桜鯛』を最後の高座として亡くなった。享年79歳なので往生といえるのだろうが、協会脱退後の無理が影響していないとはいえないだろう。

六代目没後、円窓や円丈は協会に復帰、円楽一門は戻らず、という歴史が今の騒動につながっている。根は深い。

結果として幻となった「落語三遊協会」設立記者会見が行われた“記念日”である今日、次の新たな歴史をつくる物語が進められているかどうかは、今は分からない・・・・・・。
Commented by 創塁パパ at 2010-05-25 21:58
おつかれさまです。
この騒動の時は、私はまだ中学生でした。
ことの経緯を知らなかったので円生の言い分もっともと
思っていました。
今、改めて考えると、どちらの言い分もわかるような気がしますが、やはり寄席からしめだされた、円生一門の痛手は
大きかったですよね。そして、円生の死は、その心労からの
無理もたたったと思います。
川柳川柳を寄席で見ると、これもひとつの生き方かなと感じます。落語家さんも、いろいろ、心の葛藤はあるのでしょうね。
でも、人間、その中で成長もしていきますよね。
落語っていいですね。 失礼いたしました・・・

Commented by 小言幸兵衛 at 2010-05-26 11:07
毎度のお立ち寄り、ならびにコメントありがとうございます。
あら、そんなにお若かったんですか・・・・・・。勝手に同世代かと思っていました。
川柳師匠は六代目をしくじった、あのエピソードが有名!?
たしかに、好き嫌いやらポリシーやらが人によって違うからこそ人間なのでしょう。
そして、運命というか何というか、人の力が及ばない部分もありますよね。
六代目が亡くなった時のニュースの扱いがパンダに負けた、というのも、ある意味で天が下したペナルティだったように思います。
ともかく、将来のある噺家さんの活躍の場がなくならないように、と祈っている次第です。

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by kogotokoubei | 2010-05-24 18:21 | 今日は何の日 | Trackback | Comments(2)

あっちに行ったりこっちに来たり、いろんなことを書きなぐっております。


by 小言幸兵衛
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