鈴々舎わか馬の「小せん」襲名を祝す!
2010年 02月 17日
鈴々舎わか馬が今年9月の真打昇進を機に、五代目柳家小せんを襲名することになったようだ。おめでとうと言いたい。師匠馬風のブログ(一門のブログ、という感じ)に掲載されているのでご確認のほどを。鈴々舎馬風ブログ 2月4日の内容
先代の四代目小せんは五代目小さん一門の総領弟子で、2006年に83歳で亡くなっている。オリンピックと同じ(?)4年後の襲名はタイミングもよいと思う。先代はなんとも言えないとぼけた味でテレビなどでも活躍していたし、私も好きだったが、この名前はなんといっても初代の存在が大きい。今では差別用語なのでやや気が引けるが、歴史は曲げられないので通称を書く。初代の小せんは「盲(めくら)の小せん」として知られ、“郭噺”の名人だったらしい。
今村信雄さんの著作『落語の世界』の「盲(めくら)の小せん」の章から引用する。
今村信雄 『落語の世界』
柳家小せんは明治16年4月15日浅草区福井町で提灯屋をしていた四代目花山文(後に二代目万橘と改名)の倅に生まれた。本名は鈴木万次郎。十五の時に座り踊りの達人四代目柳橋の門人になって柳松、後に三代目小さんの門に移って小せんと名乗った。二代目小さんの門人にも小せんというのがあったようだが、世の中に現れたのは、この盲小せんからである。
才人小せんは、十五歳で落語家になり、二十七歳で腰が抜け、三十歳にして失明し、三十七歳で没した。大正八年五月二十六日である。
(中 略)
小せんは三代目小さんの弟子であっても、三代目のやる落語はほとんどやらなかった。それは師匠の前に高座に上がって、師匠のやり物をやってしまうことは失礼だという遠慮だったかも知れないが、二代目小さん、即ち禽語楼の物はよくやっていた。「鉄かい」にしろ「五人回し」にしろ、そうであった。小せんにはまた「白銅」だの「ハイカラ」だのという新作もあり、古い落語も得意の警句を入れて新しくしていた。
小せんの所には、大勢若い者が稽古に来ていた。
それでは、当時の「若い者」の一人、五代目志ん生の『びんぼう自慢』から引用。
古今亭志ん生 『びんぼう自慢』
失明して二月、三月は家にジーッとしていたが、両国の立花家ではじめて独演会をひらいたときなんぞ、えらい人気でした。
「小せんの五女郎買い」ってんで、天紅(てんべに)の巻紙に、おいらんの文のような仇っぽい文章のあいさつ状を出した。何でも『五人廻し』『とんちき』『明烏』『錦の袈裟』『付き馬』の五席をタップリきかしたんですから、あれだけ吉原の気分が出た落語の会なんてえものは、あとさきありませんね。(中略)
あたしは、この小せん師匠ンとこへも、随分稽古に通いました。あたしの行きはじめたころは、まだ目が見えなくなる前でしたが、盲になってからでも行きましたよ。
失明のあと、この人は金をとって稽古をつけるようになった。落語の社会、はなしを教えるのに金なんぞ取りゃしませんが、この人の場合は、体が不自由なんだからしようがない。師匠の小さんが、そうすすめたって話をききました。(中略)
あの時分、三好町通いをした人は、あたしのほかにいまの文楽、円生、それに柳橋・・・・・・なんてえ人たちで、もうあまり居やしません。
小せんの家に稽古に通うことは「小せん学校」とか、家のあった町名から「三好町通い」と言われたらしいが、その生徒の顔ぶれが凄いではないか。この他に三代目の金馬もよく通ったらしいから、今につながる郭噺のルーツが初代小せんであると言っても過言ではないだろう。興津要さんの『落語-笑いの年輪-』によると、『居残り佐平次』の終盤、佐平次にセリフとして白浪五人男の忠信利平の口上を入れたのも初代小せんらしい。この場面の古今亭志ん朝の名調子、いいんだよなぁ。
興津要 『落語-笑いの年輪-』
*2004年9月に講談社学術文庫から再刊されたばかりなのに、残念ながら現在は注文できないようです。重版を期待する良書。
わか馬が五代目を襲名することで、先代や初代の小せんのことが落語ファンの話題になることは、非常に良いことだと思う。そういえば、初代小せんが真打に昇進したのが1910(明治43)年なので、ちょうど100周年ではないか。
懐かしい名前の復活は落語の知る楽しみを広げてくれるから、歴史的な名跡はできるだけ継いで欲しいのだ。