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桂米朝 その弐

先週12月4日の金曜日、ある意味で歴史的な落語会の会場で、米朝師匠の元気なお姿を拝見できたし、春團治師匠の『祝い熨斗』も聞くことができた。そして、桂枝雀生誕70年記念落語会全体が、会場も一体となった素晴らしい会だった。
 そこで、文化勲章受章記念(?)の米朝特集第二弾をお送りする次第である。前回(11月17日)は、米朝師匠と正岡容との出会いなどを中心として書いたので、今回は米朝師匠の若かりし日(とは言っても40歳代)の逸話や、落語への師匠の思いなどを参考資料の引用を含め少し書きたい。*この先は米朝師匠の敬称を略させていただきます。
 米朝という上方ローカルの噺家を“全国区”にするきっかけとなった「上方落語の会 桂米朝独演会」を主催したのは矢野誠一さんである。第一回目が昭和42(1967)年5月2日に紀伊國屋ホールで開催されたのだが、プレイガイドの女子事務員が「ドカタらくごのかい」と読み間違えたという逸話が残るほど、上方落語の東京での浸透度が低い時代だった。
 矢野さんの思い出話を、文春文庫版の『落語と私』の解説より、少し長くなるが引用。
桂米朝_落語と私*文春文庫の初版発行は昭和61(1986)年3月25日 

 あの六十年安保前後の、世情が騒然としていた時代に、ひょんなことから同世代の落語家の何人かとのつきあいが始まり、いまに至っているのだが、その時分柳家小ゑんといっていた立川談志や、まだ三遊亭全生だった三遊亭円楽が、「大阪じゃ、やっぱり米朝さんだ」と、口をそろえてほめちぎるのをきいて、桂米朝という落語家の存在を知った。
   ・・・・・・(中略)・・・・・・
 どうしても米朝さんに会う必要を生じて、その千日前のマンモス寄席まで出かけた。その日の米朝さんは落語の出番がなかったものか、めずらしく背広姿で「お笑いトンチ袋」なる大喜利の司会者の席にすわっていた。
 笑福亭松之助、桂文紅、桂米紫、小春団治だった露乃五郎、我太呂だった桂文我、小米時代の枝雀、それにまだあどけなさの残っていた桂朝丸、紅一点のいまは亡き吾妻ひな子・・・・・・と、こんなところが解答者で、彼らの口にする珍答の罰として、顔に墨をぬりたくる役目を如才なげにつとめていたのである。思えば、この米朝に、笑福亭松鶴、桂春団治、桂小文枝らの努力がやっと実って、上方落語復興の曙光がさしかけていた頃であった。
 あらかじめ来意は告げてあったので、この大喜利を見終えて、初対面の挨拶をするべく楽屋にまわった僕は、そこで感動的な光景を目にしたのである。
 いまのいままで、駄洒落や謎がけに興じていた面々が、顔につけられた墨を落とす間もあらばこそ、こんどは真剣な表情で上方落語の演出について、熱気あふれたディスカッションをかわしていたのである。誰が口火を切ったわけでなく、ごく自然発生的にそうした論議がなされていたような様子なのもよかったが、落語家がこんなにもひたむきに、自分たちの仕事をむかいあっているさまにふれたことがなかったから、その迫力に圧倒されて、なんだか上方落語ルネッサンスの現場に立会っているような気がして、胸がしめつけられたのを覚えている。そんな討議の中心にあって、明快な論旨を展開しながら座をリードしていたのが米朝さんであったのはいうまでもない。


 「お笑いトンチ袋」は千日劇場で昭和38(1963)年10月から始まり、昭和40(1965)年から昭和42(1967)年に渡り関西テレビでも放送された。私も小学生時代に楽しみにしていた記憶があるので他の地域でも放送されたはずだ。矢野誠一さんが楽屋で“歴史的な場面”に遭遇したこの時期、大正15(1925)年生まれの米朝は四十歳前後、枝雀は昭和14(1939)年生まれなので、まだ二十歳代である。
 罰ゲームの墨を顔につけたままで、この顔ぶれが交わした落語論議は、よほど熱いものだったのだろう。当時小米の若かりし頃の枝雀が、墨を塗られた顔のままで米朝に落語論議でつっかかる姿が目に浮かぶようだ。
 さて、大阪まで出演交渉をしに行ったのであろう矢野誠一さんの誘いを受けて実現した東京での米朝独演会。この会に来場した安藤鶴夫さんが米朝を絶賛したこともあり、それ以降、東京の落語愛好家にも一気に米朝の名が浸透していくことになった。昭和と同じ年齢を重ねる人なので当時四十歳代前半、パワーに上手さが加わって、もっとも勢いのあった時代であったろうと察する。
 その「独演会」という興行について、同じ正岡容門下である小沢昭一さんの本『小沢昭一がめぐる 寄席の世界』(ちくま文庫)所収の対談で米朝が語っているので抜粋する。この本の初版は2004年に朝日新聞社からの単行本での発行なので、対談の時期も今から数年前と推測。
小沢昭一がめぐる 寄席の世界

小沢  もう、あまり独演会的なことはおやりにならないというおつもり
     ですか。
米朝 独演会は、一応もうやらないということにしています。東京では、
   (六代目三遊亭)円生さんからそうなったんですが、二席で独演会
   と称するんですね。昔の四代目(柳家)小さんなんて人は四席やり
   ましたよ。五代目(笑福亭)松鶴という人はもう四つぐらいやって
   それで独演会ですよ。そやさかい私は、どうしても三席はやらなんだら
   独演会とは名乗れないというんで頑張ってやってたんですがね。
   やっぱりもうしんどくなってきて、二つで独演会ということにしたり
   はしてたんです。そやけど、もうそれも・・・・・・。
小沢 でも、どうですか、独演会で三席とか四席は無理というような状態
   になっても、噺をやめようというお気持はございませんでしょう。
米朝 ありませんな。それはない。やめて何すんねんいうたらね。何も
   することないですわ。


 補足するが、私が付けた下線部分の「もう四つぐらいやって」は、書き間違いではないので、五代目松鶴の独演会では、七席から八席演じたということか・・・・・・。

 ともかくこの会話からわかることとして、次の2点。
(1)独演会とは、三席あるいは四席演じるのが、昔は当たり前だった。
(2)米朝は、独演会ができなくなったからと言って、落語家を引退するつもりはない。

 (1)については、今日においてその是非は微妙だなぁ、という感じ。同じ人の噺で三席あるいは四席というのは、結構聴くほうもきついと思う。かつて、横浜にぎわい座での「志らく百席」シリーズで三席聞いたこともあるが、彼の短い噺を交えた三席でさえ結構お腹いっぱいになった。短い滑稽噺と長講人情噺の構成であろうと、演者が同じで三席は、聴く側にも覚悟がいる。そうかぁ、三席、四席聞いても飽きないだけの名人だった、ってことなのだろう。
 (2)については、今もって落語家であり続けたいという米朝に、ただただ拍手であり感謝である。今年のNHK演芸大賞落語部門大賞を受賞した古今亭菊六について、ある審査員が「落語をするために生まれてきた人」と表現したが、米朝は、“生涯をかけて上方落語を救うために生まれてきた”のかもしれない。

 米朝の芸については今さら私などが下手なことを書く必要もないと思うし、得意ネタについても、あまりにも多すぎて絞り込むのが難しい。
 たとえば「『地獄八景亡者戯』が代表作」と書けば、とたんに「おい、『算段の平兵衛』やろ!」とお叱りの声が聞こえそうだし、「算段ですよねぇ・・・・・」と答えると、別の方向から「こらぁ、『百年目』を忘れるな!」と言われそう。他にも、「何言うてんねん、米朝はん自作の『一文笛』を知らんのか!」などなど。次のような噺それぞれに、ご贔屓がいるだろう。
  らくだ・鴻池の犬・愛宕山・骨つり・帯久・はてなの茶碗・どうらんの幸助・宿屋仇・
  池田の猪買い・天狗裁き・近江八景・七度狐・軒づけ・景清・鉄砲勇助・・・・・・。

 あまりにも持ちネタが多いし、それぞれが素晴らしく味わいがある。“どれか一つ”という質問でも意見は分かれるだろうし、“米朝ベスト3”をそれぞれのファンに挙げてもらっても、相当な数のネタが並ぶと思う。だから、特定のネタについて何か書くことはやめる。
 その代わりというわけでもないが、「落語家」ではなく、優れた「落語研究家」あるいは「落語の先生」としての側面を、『落語と私』の「第一章 話芸としての落語」“説明なしですべてがわかる話術”の項から引用。
 


 すべて味わいは、十分な説明をしないで相手にわからせた時の方が、味が良いものです。
  (中 略)
 『宿屋仇』というはなしがあります。上方落語の場合は、大阪の日本橋の宿屋街が舞台で、東京では『宿屋の仇討』という題になっていますが、これはもとは大阪の落語です。
 これを演じますのに、大阪の日本橋のズラリとならんだ宿屋の一軒が舞台であることだけは、はじめに説明しておきます。
「ああ、ゆるせよ」(このことばでこの人物は武家らしいな、とわかります)
「へえ、おこしやす」(これは語調で男である。どうやら宿屋の者らしい)
「紀州屋源助とはその方かたであるか」
「へえ、手まえどもが紀州屋源助でございます」(これで宿屋の名前がわかった)
「その方があるじの源助か」
「いやわたしは当家の若い者で」(ああ、これは主人でなく雇い人か)
「ほほう、若い者にしては、えろう頭(つむり)がはげておるな」
「おそれいります。御念のいったことで。かようなところへ奉公しておりま
 すと、いくつになっても若い者と申します」
「さようか、名は何と言うな」
「伊八と申します」(やっと名前もわかった。頭のはげた中年の宿屋の
 奉公人・・・・・・)
「なに、その方じゃな。鶏のしりから生血を吸うのは」
「そらイタチでございます。わたしの方は伊八と、かように申します」
「あはは、さようか、いなやに伊八、些少ながらこれをつかわすぞ」
「あ、これは、帳場へのお茶代で」
「いや茶代ではない。特別をもってその方にとらしたのじゃ」
「ああ、これはわたしへの御心づけで、こらどうもありがとうございます」
「これそのようにひねくらいでもよい。中には二朱(一朱は一両の
 十六分の一)よりはいっておらぬ」
「どうもおそれいります」
・・・・・・このへんになってくると、旅姿の武士と宿屋の奉公人と、
二人の姿が聞き手の頭の中に芝居やテレビの一場面のように、形をとって
現れてくると思います。こうして物語は次第にすすんでゆくのです。

 説明をあまりすることなしに、一木一草まで立体的にうかびあがらせるような話術・・・・・ということになると、そこはしゃべるだけでなしに、しぐさや視線の使い方にさまざまなテクニックがいります。
 レコードや録音テープで覚えて、へたな玄人以上にうまいアマチュアの方がおられますが、ラジオで聞いている分にはよいのですが、目で見た場合、やはり素人だなあと思わせるのは、こうしたテクニックがまるでできていないからです。
 こんどはその技術的な面から、落語の演出をみてみましょう。


 ということで、次の“しぐさと視線”の項に続くのだが、ここまで読んだ人は、次も知りたくなるでしょうが、続きはぜひこの本を買ってご自分で確認してください。

 この本は、全編にわたってこのように事例をふんだんに交え、わかりやすく「落語とは何か」、ということを教えてくれる。最初の発行は単行本(ポプラ社)で昭和50年だから、米朝50歳。その6年前の昭和44年に『愛宕山』で芸術祭優秀賞を受賞し、3年前の昭和47年からは、いまや伝説となりつつあるサンケイホールでの独演会が始まっており、同じ昭和47年には第一回上方お笑い大賞を受賞した。サンケイホールでの独演会に私は残念ながら行く機会がなかったのだが、残された音源で今でも当時の円熟期の落語を楽しむことができるのはうれしい限り。さて、昭和50年頃の米朝、落語会、テレビやラジオへの出演などが数多く、間違いなく多忙であったろう時期に、子ども達への落語入門書として本書が書かれたということが、米朝の偉さだと思うのだ。かといって、この本は大人の落語愛好家にとっても大いにタメになる本であり、いまだに本書を上回る落語の解説書はない、と私は思っている。だから、未読の方には是非お読みになることを薦めるのです。ポプラ社から新装版も発行されているし、文春文庫でもいい。どちらでも結構なので一読されることをお奨めします。

 先週の麻生市民館での“桂枝雀生誕70年記念落語会”に居合わせたお客さんは、私を含め本当に幸せだったと思う。しかし、まだまだ米朝は健在だ。次は「桂米朝米寿記念落語会」にぜひ出向きたいと思っている。数え年なら、あと三年後のことだ。“米”つながりで縁起もよろしいのではなかろうか。
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by kogotokoubei | 2009-12-07 17:08 | 落語家 | Trackback | Comments(0)

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by 小言幸兵衛
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