『百川』(ももかわ) 楽しくてタメになる旬の噺
2009年 05月 13日
また、実在した懐石料理屋「百川」の宣伝のために作られたといわれる、数ある落語のネタの中でも希少な噺といえる。
あらすじは次の通りである。
(1)百兵衛が百川を訪問
葭町にある桂庵(*私設の職業紹介所))の千束(ちづか)屋から、百川が頼んでいた奉公人として百兵衛がやって来る。
(2)お客様の魚河岸の若い衆と百兵衛の最初のやりとり
二階のお客さんである河岸の若い衆から手がなり、ちょうど髪結いが来ていて女中が全員髪をほどいてしまったため、主人は百兵衛を客の用を伺いに行かせる。語尾に「うひょっ」という奇声を交えた田舎言葉まるだしで、魚河岸の衆に言葉が通じにくい百兵衛。
「わしは主人家(しゅじんけ)の雇人(かけいにん)で・・・・・・」と訛って言ったことが、祭りの「四神剣(しじんけん)の掛合人(かけあいにん)」と間違われ、去年の祭りの後で四神剣を質屋にまげてしまっていた若い衆が平身低頭し、「具合をぐっと呑みこんでほしい」と「慈姑(くあい)」のきんとんを百兵衛に差し出したため、大きなきんとんを必死の形相で飲み込んだ百兵衛。
(3)百兵衛の正体判明、使い走りに長谷川町へ
百兵衛が一階で息をつないでいると、また若い衆から手がなり、主に言われるまま百兵衛は再び二階へ。今度はこの店の使用人であることが判り、若い衆は「長谷川町の三光新道に常磐津の師匠で歌女文字(かめもじ)というのがいるから呼んで来い」と使いに出す。
(4)長谷川町での大間違い
訪ねる先の名前をうろ覚えの百兵衛、三光新道で「このへんに”か”のつく名高い先生がいるはず」と尋ねたところ、「そりゃあ医者の鴨池(かもじ)玄林先生だろう」と言われその気になり、鴨池先生宅へ。用件を聞かれ「百川からめいりました。魚河岸の若い者が今朝がけに四、五人来られやして・・・」と言ったことが「袈裟懸けに四、五人斬られた」と勘違いされ、鴨池先生は後を追うからと、薬箱を持ち先に百兵衛を戻らせる。
(5)百川へ戻り、サゲへ
魚河岸の若い衆、百兵衛の持ち帰った箱が三味線にしちゃあ小さいし、歌女文字先生の伝言が、手遅れにならないよう焼酎一升、鶏卵20個、白布を五、六反ほど用意しておくこと、などを百兵衛から聞き不思議に思っていると、そこに鴨池先生登場。
「あんたがたぁ、先生ござったで、うれしかんべい」と言う百兵衛に対して若い衆、
「なにいってやんでえ、このばかっ、鴨池先生と歌女文字とまちがやがって、この抜け作!」
「抜けてる?どれくれえ?」
「どれくれも、これくれえもあるもんか。それだけ抜けてりゃあたくさんだ」
「それだけって・・・・・・か、め、も、じ。か、も、じ・・・・・・たった一字しきゃ抜けていねい」でサゲ。
「百川」は浮世小路に明治の初め頃まで現存していた懐石料理屋で、黒船来航の折には乗組員全員に膳を出して、その値なんと一千両だったと言われている。他の店の手伝いを借りず賄い、食器なども全て自前でそろえたと言われているから大きな店であったのだろう。だから、別に落語にしてまで宣伝する必要があったのかという疑問はある。奉公人は百兵衛のような地方出身者が多かったようで、意図的な宣伝ではなく、実際にこの店であったエピソードを元に、誰かが創作したとも言われている。
田舎者と田舎言葉、魚河岸の若い江戸っ子たち、という好対照な取り合わせで、言葉の行き違いを上手く落語に仕立ててあり、宣伝であったにしても、この噺は時代に残る名作だと思う。
安藤鶴夫さんは『落語国紳士録』のトップバッターとして、この百兵衛さんを取り上げている。
百兵衛
「百川」に登場。信濃出身。由来、信州人は性剛強にして独立の気宇に富むが、氏もまた志を立てて、江戸は葭町・千束屋なる私設職業安定所ののれんをくぐったのは、万延元年4月28日のことであった。むろん、都会に憧れるといった軽佻浮薄な世の風潮に乗じたわけではないが、しかし、多分に立身出世主義の傾きがあったことは争えない。
(中 略)
"組重の中恐ろしきくわい哉"という句は、故郷に帰った百兵衛の辞世ともいわれているが、そうであろうか。但し、生涯、くわいをみるとてんかんを起し続けたことは確かである。
安藤鶴夫_落語国紳士録
百兵衛さんが百川を紹介された、現代でいえば職業紹介所の「桂庵(けいあん)」は上方では「口入屋」と云い、落語のネタ「口入屋」は東京では「引越しの夢」であることは落語ファンなら先刻ご承知。そういえば、先日の睦会で扇遊がトリで演じたのが「引越しの夢」だった。
なお、「桂庵」の語源は、寛文(1661~1673)の頃に大和桂庵という医者が、奉公や縁談の世話をしたことが由来とのこと。
葭町の「千束屋」も百川同様に実在した桂庵で、今の日本橋北詰めを東に6~700メートル程右側にあったらしい。また、三光新道の鴨池玄林先生も、実在した高名な外科医であるらしい。
この噺は、料理屋・桂庵・医者といった歴史とともに、江戸の祭や風俗についてもいろいろと学ばせてくれる。
噺家さんは、まずマクラで「四神剣」のことを簡単に紹介することがお約束である。
四神と四神旗および四神剣について、少し説明。
四神(しじん)は、中国・朝鮮・日本で伝統的に、天の四方の方角を司る霊獣である。四獣(しじゅう)、四象(ししよう)、四霊(しれい)ともいう。四方の神、東は青竜、西は白虎、南は朱雀、北は亀に蛇が巻き付いた姿の玄武(げんぶ)。
四神を描いた四つの旗。剣形の旗竿から四神剣とも。
四神を描いた剣形の旗。四神旗。
四神をご覧のほどを。*Wikipediaより
竜と虎は勇ましいのでわかりやすい。しかし字だけ見ると雀と亀が守り神ということに疑問がわくが、雀は実際は鳳凰(ほうおう)などの想像上の鳥のことである。また、亀には蛇が巻き付いていて勇ましい、というか、なんとなく守ってくれそうな気がする。。
余談だが、ヨン様主演で日本ではNHKが放映している『太王四神記』。私は見ていないが、このドラマはタイトルの如く「四神」に由来している。韓流が嫌いなので、これ以上詳しく書かない。
次に魚河岸の若い衆が四神剣を伊勢屋にまげてしまうほどのめり込んだ祭りのこと。
いわゆる「江戸三大祭」は神田祭・山王祭の二つは固定だが、もう一つが諸説ある、というか贔屓によって違ってくる。神田祭・山王祭が決まり、というのは幕府によって行列が江戸城に入ることを許されていた「天下祭」だから。
もう一つは、三社祭には悪いが深川祭ということにして、それぞれの神社と開催時期は次の通り。
すでに開催中の今年の神田祭のスケジュールを神田祭のホームページから紹介。
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5月7日(木) 午後7時 鳳輦・神輿遷座祭
5月8日(金) 夕刻 氏子町会神輿神霊入れ 各氏子町会神酒所
5月9日(土) 神幸祭
5月10日(日) 神輿宮入
5月14日(木) 献茶式、明神能
5月15日(金) 例大祭
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写真は、祭のクライマックスとも言える、10日に行われた神輿宮入の様子である。
百川の魚河岸の若い衆にとっての祭はどれだったのか。アンツルさんの『落語紳士録』にあるように、百兵衛さんが千束屋を訪ねたのが4月末で、すぐに百川を紹介されたとすると、この三つの祭すべてに可能性はある。
江戸時代の魚河岸の若い衆、神輿をかついだ後の打ち上げで、さぞかし盛り上がって飲み歩き、「宵越しの銭は持たねえ」とばかり最後は吉原詣でとなって有り金を使い果たし、挙句の果てに四神剣をまげざるを得なかったのだろう。若い衆にとっては自業自得だが、百兵衛さんにとっては、アンツルさんご指摘の通り、生涯忘れがたい一日になったことは間違いない。
この噺の演者としては、まず原典とも言えるのが三遊亭圓生であり、圓生に稽古をつけてもらった人を含め昭和・平成の噺家達の複数の音源が発売されている。小三治もいいのだが、あえて一人に絞り込むなら、昭和56年4月、あの伝説とも言える「志ん朝七夜」第二夜における古今亭志ん朝版を推す。カップリングが「芝浜」であり、まったく損のないCD。
古今亭志ん朝_芝浜・百川